86話 思い出
人差し指で触れた少女は、何度か瞬きをしてから笑った。
「いじわる」
布団の中で腹を小突いてくる。
くすぐったくて俺も笑ったら、近づいたおでこがぶつかった。ごんっ、と鈍い音がして揃ってうずくまる。
「……っ」
「いたたっ」
額をさすって大丈夫かと確認する。どっちも悪いので、お互いに謝らなかった。
横向きはやめて、ごろんと仰向けになる。心地よい倦怠感が、全身を布団に沈ませる。悠羽も仰向けになって、二人で明るい天井を見つめる。
「電気消しちゃおっか」
「バカ。お前、バカ」
「眩しいのが嫌なだけじゃん。なに焦ってるの、変な六郎」
「俺がおかしいのか?」
この状況で電気が消えたら、いよいよそういうことになるだろうが。電気が点いてても変わらないって? 変わるんだよバカ。
「豆球にするのもダメ?」
「好きにしろ」
体を起こして天井灯のヒモを引っ張り、暗くしたところで布団に戻ってくる。
あーもうこれ、こいつここで寝るじゃん。完全に未来が見えてしまった。
今日は体力がないからあれだけど、あれだぞ、俺が元気だったらあれなんだからな。
――奈子さんとか、代わりに説明してくんねえかなぁ。
圭次に頼んでみようかと思ったが、あいつにそれを頼んだら殺される気がする。
そんなことを考えていたら、右手に柔らかいものが触れた。細くて温かい、悠羽の指だ。手慣れたやり方で俺の手を捕まえると、恋人つなぎを完成させる。器用なもんで、俺はずっと力を抜いていただけだ。
「お前、こういうの飽きないのか?」
「飽きないよ。六郎はもういいの?」
「……さあな。俺にはよくわからん」
ため息交じりに呟くと、繋いだ手が緩んでいく。そういう意味じゃないと、握って離さない。
「なんて言えばいいんだろうな。……悠羽は、いてくれるだけでいいんだ。それだけで頑張れるし、俺は幸せなんだ」
望むことはなにもない。ここにいて笑ってくれれば、それで満たされてしまう。手を繋げば心臓は高鳴るし、抱きしめれば癒やされる。けれどきっと、それは俺にとってプラスアルファのことでしかない。
「最近は仕事が楽しいんだ。元々好きだったけど、『もう少し仕事をすれば、悠羽と美味いもんを食いに行ける』とか『遊園地に行くには、あといくら稼げばいいんだろう』とか。そういうことを考えると、つい夢中になっちまう」
一緒にいられる未来をイメージしたら、それで胸がいっぱいになる。
だから、俺自身が手を繋ぎたいとか、抱きしめたいとか、他のいろんなことをしたいと思うことは少ない。だってもう、彼女は十分与えてくれているから。
悠羽はなにも言わなかった。
ちらっと横目で確認すると、そっぽを向いて首を震わせている。
「おーい」
「うるさいうるさい。なんでそう、六郎は、いっつも急にすごいこと言うの!?」
「いつも思ってることだから」
「もうやだこの人! アホバカ女たらし!」
「ども」
「褒めてるけどっ!」
じたばた暴れる悠羽を眺めながら、ゆっくりと目を閉じた。
しばらくすると彼女は落ち着いて、静けさが部屋を包んでいく。
「あのさ、六郎」
「ん」
「ずっと昔も、こんなふうに体調崩したことあったっけ」
「俺が?」
「そう。懐かしいって思うのに、上手く思い出せないの」
「あのときはお前、まだ小さかったもんな」
その日を境目にして、悠羽が嫌いじゃなくなった。世界中の誰より大切だと思うようになったのは、あの日俺のために泣いてくれたからだ。
「……俺が熱出して倒れてさ。したら悠羽、『お兄ちゃんがしんじゃう』って言ってさ」
「そうだっけ。ごめん、やっぱり覚えてないみたい」
ここまで言ってもわからないなら、きっともう彼女の記憶にはないのだろう。
だけどそれを、悲しいとは思わない。
「いいんだ。俺が覚えてれば、それで」
「そのとき、私なにかしたっけ」
「なんにもできてなかったよ。……でも、側にいてくれた」
「そっか。なら、今とおんなじだね」
「そうだな」
悠羽がいたから、一人じゃなかった。これからだって、一人になることはない。
「ね、あれ覚えてる? 中学生になったばっかりの頃、雨が降ったら迎えに来てくれたこと」
「――懐かしいな。悠羽が置き傘を学校に置かないから、よく傘持ってってやったよな」
環境が変わって頭がいっぱいで、忘れ物が増えていた時期がある。傘を忘れてびしょ濡れで帰ってきた日があって、それからしばらく心配で迎えに行っていたのだ。
結局、六月の終わりくらいに「恥ずかしいからもういい」と言われてしまったけれど。
「あの頃ね、六郎が来てくれるようにわざと忘れたりしてたんだよ」
「気づいてたよ。それくらい」
「そしたらクラスの子にブラコンって言われちゃって。だからもういいって」
「ま、そんなところだろうな」
「ごめんね」
「いや、俺としては迎えに行くほうが面倒くさかったから」
全然近くねえ中学校まで歩くのは、普通に苦行だった。いつ終わるかわからない部活を待たなくちゃならなかったし。今思えば、あの頃の俺は辛抱強かったんだな。
「雨が降ったら、また迎えに来てくれる?」
「晴れてたって行ってやるよ」
「知ってる」
くすくす喉を鳴らして、そのまま気持ちよさそうなあくびが聞こえた。
「おやすみ」
「おい……」
「知ってたでしょ?」
「まあ、な」
こうなることは、布団に入られた時点でわかっていた。押されれば受け止めてしまう。
俺のこれは、弱さなのだろうか。
目蓋を閉じた。
心地よい倦怠感と悠羽の体温に溶かされて、夢を見ることすらなかった。
◆
「今日は勝てる、そんな気がするのよ」
長い髪を三つ編みにした、丸い眼鏡の女性は開口一番にそう言った。
更衣室で着替えを済ませ、サラブレッドの業務に取りかかる悠羽。彼女が未成年であるにも関わらず、橋本紗良は自身の趣味について語る。
「こういうのはね、最終的に運が収束するようにできているのよ。悪いことが続いた後には、いいことが続くでしょう。だから今日は当たる日なのよ」
「……そうですか」
見た目は穏やかなお姉さんなのに、口を開けばギャンブル中毒者。運は収束する。というのをモットーにしている彼女は、負けた次のレースこそ強気の賭けに出る。
これでトータルはプラスだと言うのだから、世の中は不思議だと悠羽は思う。
「あ、メープルの新作あるから。並べるときはあそこにお願いね」
「わかりました」
賭け事と仕事の話題が交互に来るので、完全に聞き流すわけにはいかない。これがサラブレッドの難しさだ。人が辞めていくのも頷ける。
「今週も新作出したんですね。カボチャのあんパン出したばっかりなのに」
「こういうのはね、思いついたときにワッと出すもんなのよ。ジャックポットみたいに」
「なるほど……?」
馴染みのない言葉でたとえられて、首を傾げる。
レジ周りの備品を確認しながら、紗良が補足する。
「大当たりってこと。メダルゲームで、一気にメダルが出てくるときあるでしょう」
「あっ、あれのことですか」
「そうよ。うちで働くなら覚えときなさい」
「はい」
こうしてパン屋で働くのに必要のない知識が増えていく。六郎が悩んでいた理由は、主にここにあるのだろう。
「そういえば、サブローくんは元気?」
「元気ですよ。あ、でも一昨日熱出してました」
「珍しいわね。あの子、体は丈夫な方でしょう」
「丈夫なんですけど、無理しちゃったみたいで」
夏休みの六郎といえば、ほとんど毎日肉体労働に励んでいた。線が細いくせに、ちゃんと筋肉はついているのだ。
紗良はトングをカチカチ鳴らして、砕けた笑みを浮かべる。
「悠羽ちゃんがいるから、安心して倒れちゃったのかもしれないわね」
「かもしれないですね」
そうしてまた、一日が始まる。
◆
昼を少し過ぎた頃に、また熊谷がやってきた。
今日もお気に入りのパンを買って、紗良と少しだけ話して帰っていく。
その姿を作業場から眺めていた悠羽は、ふと思った。
(六郎と熊谷先生って……似てる)
4章のタイトルはまだ半分しか達成してません。
もう半分は?




