85話 君のせい
朦朧とした意識が回復したのは、深夜三時のことだった。
まだ怠い体を起こして、額に乗っていたタオルを手に持つ。すっかりぬるくなったそれで、首の汗を拭く。全身が軽くて、なのに思うように動かない。頭を動かすとずっしり痛む。
体調を崩したのなんていつぶりだろう。
掃き出し窓から差し込む明かりを眺めながら、ぼんやり考える。
フリーランスにとって、体調管理は必須のスキルだ。福利厚生も有給も、代わりに仕事をやってくれる同僚もいない。人間関係の煩わしさがない代償に、全てのリスク管理を自分で行う必要があるから。
だから仕事中毒気味の俺は、一日の量をセーブしていた。寝る時間を定め、生活リズムを一定にし、最低限の栄養を確保するように気をつけた。
「……やっちまったな」
口の中で呟いて枕元を見る。
スポーツドリンクと書き置きがあった。
『なにかあったら絶対起こして。絶対だよ』
と綺麗な字で書いてある。
一人暮らしだったら、絶望していただろうが――今はそうじゃないんだな。
俺が辛いときには、ちゃんと悠羽は側にいてくれる。それにどれだけ救われるか。
横たわって布団にくるまった。今はとにかく眠って、体力を戻さなければならない。ただの疲労だろうから、明日には動けるようになるだろう。
朝は悠羽が用意してくれたお粥を食べて、見送ってからパソコンを起動した。
「ゆっくりしてなきゃダメだよ」
と言われているが、仕事が滞っては元も子もない。怠さと頭痛はあるが、だいぶマシになった。薬でやわらげれば、いつもの六割くらいはできる。
休み休み作業をして、定期的に体温を確認する。昼にはヨーグルトを食べて、夕方にはもう熱が上がる気配はなかった。シャワーを浴びて、再び作業を開始する。完成したものを納品したところで、玄関から音がした。
入ってきたのは、息を上げた悠羽だった。全速力で自転車を漕いだのだろう。風で髪が乱れている。鞄を背負って、買い物袋を手に持って、俺を見ると目を見開く。
「仕事してるじゃん!」
「ああ……いや、その、これはだな」
やることやって安心してしまった。そうだ。悠羽が帰って来る前に、布団で寝ているべきだった。
「休んでなきゃダメって言ったのに」
「もうよくなったからさ。悠羽のおかげだ」
「ほんとに?」
顔をしかめて近づいてくると、俺のおでこを触ってくる。帰ったばかりのその手は、冷たくて柔らかい。
「熱はなさそうだけど……」
顔を近づけてきて、じーっと見つめてくる。
腕を伸ばして悠羽を引き寄せ、抱きしめて頭を撫でた。
「おかえり」
「――た、ただい、ま……って騙されないから!」
顔を赤くして抗議された。
「ちっ、だめか」
「そんなことのために抱きしめるなんて最低! やっぱりクズじゃん!」
「やっぱりもなにも、俺はずっとクズだろ」
「最近はあんまり嘘ついてないと思ってたのに~」
「いやいや。バリバリついてるからな。お前が気がついてないだけで、発言の八割は嘘だから」
冗談で言ってみたら、少女はふわっと微笑んだ。どこか俺の笑い方と似た、余裕のある表情に背筋がざわつく。
「ダウト」
「……まあ、もう隠すこともないしな」
おとなしくここは認めることにした。
今となっては、彼女に隠したいことなどない。必要がなければ俺だって嘘はつかない。
「で、その判断によると俺の体調はどうなんだ?」
「悔しいけど、ほんとっぽい」
「体調よくなって悔しがるなや」
「心配して急いで帰ってきたのに」
「それはごめんって。連絡すりゃよかったけど、忘れてた」
「そうだよ。そういうとこ、ちゃんとしないとだめだと思います」
「はい」
素直に頷くと、許してくれたらしい。悠羽は買ってきたものを冷蔵庫に詰めて、キッチンから声を掛けてくる。
「食欲はある?」
「まだそんなに」
「うどんにする? りんごもあるけど」
「うどん」
「はーい。いつから食べる?」
「六時半ぐらいに食って、そのまま寝るかな」
手でオッケーサインを作って、そのまま悠羽は家事を始める。弁当箱を洗って、洗濯物をまとめて入れて、あっちこっちをパタパタ駆ける。
もう仕事をする体力は残っていないから、その姿をぼんやり眺めていた。
◇
布団に戻ったのは七時過ぎ。普段ならまだ起きている時間だが、病み上がりで起きているのは限界だった。
眠れはしないが、横になっているだけでずっと楽だ。
明かりを点けたまま、しばらく天井を見ていたらノックされた。
「入ってもいい?」
「いいぞ」
そっと布団の横に腰を下ろすと、顔をのぞき込んでくる。
風呂上がりなのだろう。肌が薄桃色で、パジャマ姿と石けんの匂いが甘く刺激的だ。
視線が絡んで、大きな瞳が何度か瞬く。
「入ってもいい?」
「待て。もう部屋には入ってるよな」
「うん。だから……布団に」
首を横に振って、布団を引っ張って体に巻き付ける。
「じゃあ、布団持ってくるね」
「待て待て待て。話が見えないから。なにがどうなってそうなった」
「六郎が寂しくないように」
「あー……昨日は熱出てたからな。今日はもう大丈夫だから」
「それは嘘」
「やっぱ見抜けてねえじゃん」
「うるさい」
むっと顔をしかめて、意地になったのか俺の隣に横たわる。敷き布団の隙間に体をねじ込んで、なんなら枕も引っ張ってくる。
「お前、病人には優しくしろよ」
「これが私の優しさなんですー」
意地でも動かないぞと、至近距離で見つめてくる。掛け布団は譲らんと、いっそうミノムシ状態になる俺。
しばしして、悠羽が体を震わせた。
「……寒い」
「アホ」
「で、でも、六郎が布団に入れてくれないなら風邪引く」
「意味のわかんねえことを言うな。寝かせろ」
「添い寝してあげるから」
「いらねえ」
「いるもん」
じっと睨み合って数秒。
どうせ根負けするのは俺だと諦めて、布団の端をつまんで渡す。所詮は一人用だ。二人で入ろうと思えば、必然的に密着してしまう。
「あったかいね」
「なんだこれは……」
腕枕事件だったり、もうなにもかも手後れな気はするけれど。それでも緊張するし、まずいことをしている気分になる。
体調管理を怠ったからなのか。そのせいで俺は、こんな――まあ、嫌ではないけどさ。嫌じゃないからいっそう複雑だ。
横向きになって見つめ合うのは恥ずかしかったのか、悠羽は少し下に移動して丸くなった。俯いたまま、ぽそぽそとした声で聞いてくる。
「ねえ、六郎が頑張りすぎちゃったのは、私のせい?」
さっきまでの勢いが嘘のように、弱気な表情をしていた。
潤んだ目が見上げてくる。この距離じゃ、きっと彼女は騙せない。
ま、わざわざ嘘をつく必要もないか。
指先で悠羽の頬に触れて、優しく押す。
「そうだよ。全部お前のせいだ」




