84話 恋と愛
愛は恋の上位互換である。
誰かが言ったそれが本当ならば、果たして。
恋は愛の下位互換なのだろうか。
◆
自室の布団に倒れ込んで、悠羽はぐったりと天井を見上げる。電気は点けたままで、眩しいからすぐうつ伏せになった。枕に顔を埋めて、苦しくなって顔を上げる。肘で体を起こして、真っ暗なスマホの画面を睨んだ。
(今日も言えなかった……)
ロックを解除して、届いたメッセージを確認する。志穂からきていた。
『下校デート、楽しかった?』
ちょうどそのことで悩んでいたので、返信するために指を動かす。フリック入力をやめて、ローマ字入力にしたから難しい。押し間違えるし、まだキー配置を覚えられていない。
だけれど悠羽も、次の四月からは働くのだ。このくらいできるようにならないといけない。六郎のブラインドタッチを見て「かっこいい……」などと言っている場合ではないのだ。
『楽しかったけど、目的達成ならずです』
泣いているウサギのスタンプを添えると、すぐに既読がついた。
『ま、告白って難しいよね。タイミングとか言うほどないし』
『一緒に住んでるのにー』
『近いのも考えものだよ』
『そうなんだよね……』
枕の上にあごを乗せて、難しい顔をする。
六郎から「愛してる」と言われたあのタイミングで、悠羽も返事をすればよかったのだ。だが、ポンコツにも彼女はあわあわすることしかできなかった。
少し落ち着いて、もしかしたら家族として愛されているだけ。なんて悪夢みたいな可能性が頭をよぎった。確かめるためにハグを頼んで、抱きしめられて、その時の六郎の反応を見てようやく安心したのだ。
ちゃんと一人の女の子として見てもらえている。
だが、その時にはまた喜びでふわふわして切り出せなかった。
そんな感じでずるずると、いつまで経っても想いを伝えられないでいる。
今日こそは今日こそはと思って、なにもできず。それなら状況を変えようと思って、下校デートに誘った。だがダメだった。会話が楽しく止まらなくて、また時間が過ぎてしまう。
――そうじゃない。
『絶対オッケーもらえるんだから、ゆは次第だと思うんだけどなぁ』
『うん』
志穂の言うとおりだった。
この告白は、通常のものとは異なる。絶対にフラれない。
フラれないから、悠羽だって恐くて言えないわけじゃない。
必要なのは勇気でも覚悟でもなくて、自信だ。
『またチャレンジするの?』
『するよ』
『じゃあ、次の作戦を練らないとね~。デートの時がやっぱりいいよね』
『夕方に、景色のいいところがいいなって』
『いいじゃんいいじゃん。ロマンチック大好き。ついでに薔薇の花束もあったら、ゆはと結婚してあげる』
『もう、ちゃんと聞いてよ』
『ごめんヌ』
『謝る気ないじゃん』
くすりと笑いがこぼれた。きっと、志穂も笑っているのだろうなと思う。
そのあとも少しだけやり取りして、悠羽は布団から起き上がった。受験生の志穂もそうだが、彼女だって勉強すべきことはあるのだ。
気持ちを切り替えて何ページか進めて、そこでペンを置く。
机の上に腕を敷いて、頭を乗せて考え込む。
たとえるなら、あれは隕石のようなものだった。悠羽が抱え、募らせてきた想いを集めたって足りないほど、大きな想いだった。
誰にも理解されない痛みを抱えて、それでも六郎は悠羽を手放さなかった。その愛が、どれほど尊いものか。
だからこそ、負けたと思ったのだ。
先に好きになったのは自分なのに。先を越された。寝取られたわけではないが、感情の大きさで敗北した。
そういう問題ではない。というのは理解している。
悠羽の想いだって、決して小さなものではない。
だけれど、告白したところであの男は余裕のある笑みを浮かべるだけだろう。「お前の気持ちは知ってる」とでも言いたげに、動揺一つしないのだろう。
それが悔しくて――言えない。
言わなくちゃという気持ちと、冷静に受け止められたくない、というワガママがぶつかって葛藤を生む。
(あんなにわかりやすくアピールしたら、気がつくよね……)
自業自得だ。それに尽きる。
わかっているけれど、きっと明日も言えない。
おもむろに時間を確かめると、23時を回っていた。そろそろ寝る時間だ。
椅子から立ち上がって、部屋を出た。ダイニングの机には六郎が座って、パソコンと向き合っている。
「まだお仕事?」
「……いや…………勉強」
「頑張ってね」
「おう」
肘をついて額を押さえ、顔の半分以上が見えない。返事も鈍いし、よほど難しいことを考えているのだろう。
そっとしておこうと横を通って、コップを片付ける。朝ご飯の米が予約されているのを確認して、明日のゴミも玄関に持っていく。一通り寝る準備を済ませてから、六郎のところに行く。
「そろそろ寝るよ」
「…………ああ」
スリッパの音を小さく鳴らして、後ろからパソコンの画面をのぞき込む。
真っ暗だった。
パソコンはスリープ状態で、なにも映していない。六郎は相変わらず頭を押さえて、ぼんやりしている。ぐらりと頭が揺れて、キーボードの上に顔から突っ込んだ。
「だ、だいじょうぶ!?」
慌てて声を掛けるが、反応は鈍い。辛うじて目は開いているが、発せられる音は呻き声に近い。
額に手を当てると、驚くほどに熱かった。
「熱あるじゃん……!」
救急箱を引っ張り出してきて、風邪薬と水を用意する。
「六郎……薬飲める?」
肩を揺すると、なんとか青年は顔を持ち上げる。明らかに血色が悪い。目の焦点はあっておらず、頭痛のせいか数秒おきに目を細める。息は荒く、辛うじて首の動きで意思表示している状態だ。
用量を確認して、取り出した錠剤をコップと一緒に手渡す。
六郎がそれを飲んでいる間に、悠羽は彼の部屋を確認した。部屋の明かりを点け、畳んである布団を敷く。ダイニングに戻って、声を掛けた。
「布団まで歩ける?」
つられるように六郎は立ち上がって、不安定な足取りながらも布団に移動する。横たわると、一気に具合の悪さが押し寄せてきたらしい。一層苦しそうに、強く目を瞑る。
額に浮かぶ汗を見て、悠羽は聞いた。
「熱い? タオル持ってくるね」
ハンドタオルを濡らして絞り、部屋に戻って六郎の額に載せる。それでいくぶんマシになったようで、薄らと目が開いた。
虚ろな瞳は枕元にいる少女の名を呼んだ。
「ゆうは」
「なに? 私はいるよ。してほしいことがあったら、なんでも言って」
「……そばに、いてくれ」
弱々しく持ち上げられた手を、悠羽は両手で包み込んだ。
「うん。いるから、安心して」
祈るように手を握って、優しく声を掛ける。
力なく六郎が微笑んで言った。
「タオル絞るの……上手くなったな」
目を丸くして瞬きする悠羽。なんのことが問おうとするが、その時には六郎は目を閉じていた。
安らかな寝息だけがする部屋で、しばらく悠羽は座っていた。
思い出せそうな、けれどぼやけてしまう記憶の断片を探していた。




