81話 おかえりの
――日本人向けの動画を撮ろうと思っています。一緒に仕事しませんか。
クリスさんに招待された外人だらけのグループで遊ぶようになって、三度目の集まりが終わった後にメールが来た。
これまで外国人に向けて日本の良さを届けていたが、日本人に自国の良さを再発見してもらう動画も作りたいのだと言う。そこで、仲のいい日本人で英語を勉強中の俺が思い浮かんだらしい。
正直まだ未熟ではあるが、仕事をもらえるのはありがたい。スキルを上げようと思ったら、仕事をしてしまうのが一番手っ取り早いから。
パソコンのビデオ会議で顔を合わせて、詳しい話を聞いた。一時間の話し合いの後、引き受けることにした。
さっそく文書データで、動画の構成と英語の台本が送られてくる。俺の仕事は、これを日本語に直すことだ。ただの和訳ではなく、彼の人間性にあった言葉遣いにする必要があるから難しい。
ユーモアとかことわざが出てくると、しばらく意味がわからずに止まってしまう。数単語まとめて翻訳にぶち込んで、ようやく理解して、それをいい感じの日本語にして――などという作業を繰り返し、なんとか作った文章を眺めてみる。
「わっかんねえ……なにが原因だ?」
なにかは知らんが全部ダメ。そんな感じの物ができてしまった。これじゃあとても、クリスさんには送れない。
背もたれに体重を預けて、ぐったりと天井を見つめる。頭脳労働の疲労がずっしりきて、このまま後ろに倒れてしまいそうだ。
なんとか座り直して、パソコンで動画サイトを開いた。外国人が日本語で投稿している動画を選んで、視聴してみる。事前に何本か調べてはいたが、作業後に見るとまた違った印象を受ける。
「後でやり直すか」
やっぱり、ちょっと勉強したくらいじゃ仕事で使えるレベルにはならない。世の中の難しいところだ。
幸いなことに、締め切りにはまだ猶予がある。
他の仕事を先に終わらせて、残った時間でやろう。
そんな感じで一日中パソコンと向き合っていたら、あっという間に日が落ちていた。
玄関から音がして、ようやく時間の流れに気がついた。立ち上がって、廊下に顔を出す。
「おかえり」
「ただいま!」
悠羽は背筋をピシッと伸ばすと、妙に力のこもった声で言った。なぜかそのまま直立で、じっと俺のことを見つめてくる。
「えっと……どうした」
「ただいま」
「おう。おかえり」
「じゃなくて、ただいま」
「……は?」
ループする会話。俺が正解を言わないと先に進まないタイプのやつらしい。
なにか気がついてほしいことでもあるのだろうか。ぱっと悠羽の様子を確認する。今日はいつも通り、セミロングの髪を下ろしたヘアスタイル。美容室に寄ってきたふうでもない。制服は紺のジャケットを着る季節になって、靴下も黒くて長い地味なものだ。
さっぱりなにも思いつかなくて、首を捻る。
「わからん。ヒントくれ」
「おかえりの〇〇。はい、どうぞ!」
「挨拶」
「ちっがう!」
「えぇ……」
けっこうピンときたのだが、まあ確かに「おかえりの挨拶」は「おかえり」だもんな。
つーかそれ、本当にヒントなのか。最近のJKでは、そういうトレンドがあるのだろうか。
「で、答えはなんだ」
「…………」
唇を結んで、なぜか視線を逸らす悠羽。廊下の電気をつけてやると、恥ずかしそうにしていた。
「ちょっ――なんで明るくするの!?」
「なんとなく」
「最低っ! 人の嫌がることをする天才じゃん!」
「ども」
「褒めてないし!」
「で、なんだよ。俺はちっとも心当たりがないぞ」
「六郎の鈍感」
「そうだが」
どうせ女心なんてわかりやしない。思いっきり開き直ってやると、悠羽はたじろいで一歩下がった。
「言ってくれなきゃわからんぞ」
「あ、愛してるなら…………ちゃんと伝えてくれないと、わかんないよ」
「……言っただろ」
「六郎は嘘つきだもん。口ではなんでも言えるでしょ」
「それはそうだが。じゃあ、なにをしろと」
「自分で考えて」
そしてさっき言った、おかえりの〇〇。という部分に繋がるのだろう。
腕組みして考える。が、あいにく俺は愛情表現とかいうものと無縁の人生を歩んできた。パッと思いつくのが贈り物とかいう、パパ活みたいな思考になってしまう。
「おかえりの――紅茶飲むか?」
「それはおもてなしじゃん」
どうやらお気に召さなかったらしい。
悠羽はため息を吐いて鞄を置くと、両手を広げて「ん」と唇を結ぶ。
「……ん?」
「んっ!」
首を傾げる俺と、手を広げたままの状態で力強く頷く少女。
「ん?」
「んー!」
「ん」
「んんんっ!」
適当に遊んでいたら、だんだん怒ってきてしまった。同じ音しか発していないのに、感情豊かなやつだ。
俺も両手を広げ、リビングを背に立ちはだかる。
「ほら、好きにしろ」
受け止めるだけの覚悟ならしている。だが、悠羽は首を横に振った。
じっと両者見合って、廊下で手を広げたまま動かない。傍から見たら相撲をしているように見えるのだろう。はっけよい、から永久に進まない。
どうやらこれは、俺からいかないと終わらないやつらしい。
近づいていって、悠羽の華奢な背中に手を回す。制服越しなのに、簡単に壊れそうなほど柔らかい。柄にもなく、緊張で喉が鳴った。ポーカーフェイスもまるで役に立たない。
恐る恐る、悠羽の手が俺の背中に回される。
ぴったりと密着して、お互いの心音がはっきりと聞こえる。少し冷えた衣服越しに、彼女の体温が伝わってくる。
「…………」
「…………」
お互いに無言で、探るように抱き合う。
1、2、3、4、……5で限界がきた。肩を掴んでゆっくり離れると、やけに顔が熱い。脳が混乱していて、なにもわからない。今になってふわりと甘い匂いがした。
悠羽も同じようで、蕩けそうな目で俺を見ている。
変なリズムで脈打つ心臓を押さえ、ため息交じりに問う。
「これ、毎日やんなきゃだめか?」
「嫌なの?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ毎日してよ。おかえりのハグ」
またいつものやつだ。
そんな頼み方をされたら、俺は断れない。知っていてやってるなら、悠羽も相当なもんだ。嘘つきの家族だけはある。
「覚えてたらな」
「あと」
「まだなんかあるのか」
「今日から同じ部屋で寝るのは……だめ?」
「だめだ」
それに関しては即答だった。残念ながら交渉の余地はない。
悠羽がなにか言うよりも早く、人差し指で彼女の額を押す。
「お前が可愛いからだめだ。これ以上は言わせんな」




