80話 結婚するかもしれない
俺が最後に隠すのは、三条六郎が歩んできた人生そのものだ。
――どうか彼女が、自分の親を嫌ってしまいませんように。
余計なお世話かもしれない。
本当のことを知ったぐらいで潰れてしまうほど、悠羽が弱くないことも知っている。
だけど、自分の人生を振り返ったときにこう思う。
誰かを嫌う苦しみなんて、知らない方がいいに決まっている。人を嫌うのだって、楽じゃないから。
エゴでいいさ。
君が笑ってくれるなら、それで。
◆
悠羽の頭はパンク寸前だった。
六郎が実の兄ではないと言われて、彼が抱えていた重い荷物をやっと知った。ふとした瞬間に見せる息苦しそうな表情の意味も。悠羽に対して、どこか躊躇いがちな態度の理由も。
手を握ったのは、一人じゃないと伝えるためだった。寄り添っていたから、想像よりもずっと距離は近かった。
真っ直ぐに放たれた愛の言葉は、すべての思考を停止させた。
パニックにならなかったのが唯一の救いだが、驚きすぎて上手く反応できなかった。
六郎はそれを見て笑い、悠羽の手を引いて家に帰った。
一晩経って、ふわふわしたまま朝食を作って、学校に行って、昼休みになってもふわふわは続いている。
「ゆは~。どしたん、ぽーっとして」
「ねえ志穂。私……結婚するかもしれないの」
「詳しくっ!」
受験期の教室でぽつりと発された『結婚』というワードに、周囲の生徒がぎょっとした顔をする。だがすぐに、なにかの聞き間違いだろうと人が去っていく。
その様子を見て、志穂は椅子に座るのをやめた。
「せっかくだし、中庭で食べよっか」
「うん」
どこか夢見心地の悠羽を引っ張って、ボブカットの志穂は昇降口から外に出た。一秒でも早く話を聞きたかったので、外に出るやいなや切り出した。
「で、さっきの話はどういうこと?」
「……好きって言われたら、付き合おうってことだよね」
「うん。そうだね」
「愛してるって言われたら、結婚するってことだよね」
「…………うん?」
たっぷり時間を掛けて考えて、志穂は目を丸くした。口をぽかんと開けて、やはりなにも理解できない。だが悠羽は理解してもらえたと思ったらしく、弁当箱を小さく揺らしながら言う。
「け、結婚ってどんなことしたらいいんだろ。……あの、私、そういうのよくわかんないし……彼氏もいたことないから」
「ちょーっと待った! ゆは、あんた今、この世の全てを置き去りにしてるよ! 光より展開が早いよ!」
「光より早い物質はないよ」
「ツッコミどころはそこじゃない!」
こんなんで受験は大丈夫なんだろうか、という目をする悠羽の肩を揺らす志穂。ぐわんぐわんと前後に揺らされて、三往復で離す。
肩で息をして、志穂はやれやれとため息をついた。
「ちょっとは落ち着いた?」
「私はずっと冷静」
「だめだこりゃ」
妙にすんとした顔で、なぜか不満げな悠羽。志穂は髪を掻き上げてため息を一つ。
ベンチに座って、弁当を広げた。
10月も半ばを過ぎれば、外に出て食べようなんて生徒はほとんどいない。貸し切りの空間は、話をするのに最適だ。
「とりあえず、こっちからの質問に答えて」
「うん」
「その相手って、この間言ってたお兄さんなの?」
「お兄さんがお兄さんじゃなかったの」
「んーと、……ええ!? 義理だったってこと? おまけに両想い!?」
「そう! さすが志穂!」
人差し指を立てて、悠羽がふふんと鼻を鳴らす。さっきまでのぼんやりとは一転して、艶のよい笑みを浮かべている。
「よかったねえ」
「うん。……よかったって、六郎も思ってくれたらいいな」
血の繋がった家族に憧れを抱いていた彼の、本物の家族になるのだ。胸を張って、一人ではないと言ってもらえるように。側にいたいのだ。
紙パックの野菜ジュースにストローを刺しながら、志穂はいくつかの言葉をのみ込んだ。恥ずかしそうで、それでいて嬉しそうな悠羽をしばらく眺める。
志穂が購買で買ったパンを開けると、合わせるように悠羽も弁当を開けた。
パンが半分になったくらいで、いろいろ整理した志穂が口を開く。
「でも、結婚は早くない?」
「え?」
「だって、ゆはとお兄さん……六郎さんってまだ付き合ってもないんでしょ。結婚って、その後だからね」
「六郎と……付き合う?」
「なんでわかんないのさ。結婚はイメージできてるんでしょ」
呆れて言えば、悠羽は力強く何度も頷く。
「そうなの。結婚だとなんとなく、今の生活が続くのかなぁってなるんだけど」
「一緒に暮らしてるからか~。よくないとこ出ちゃってるなぁ」
「ねえ、付き合ったらどうするの?」
「えー、そりゃデートしたり」
「デート……」
ぼんやりと虚空を見つめる悠羽。どうやらそれはイメージできるらしい。一緒にいれば、出かけることもあるか、と納得する志穂。
「キスとかもするでしょ」
「き、キス……」
肩をぴくっと強張らせ、露骨に反応する。興味はあるらしい。
「あとは~、えっちなこととか」
「えっ――」
いよいよ顔を赤くして、口をあわあわさせる。
それを見て志穂は頬杖をつき、意地悪にニヤニヤと微笑んだ。
「ふふふ。こんなんで赤くなってるようじゃ、まだ結婚は早いね」
「うぅ……結婚ってすごい」
「反省した?」
「はんふぇいふぃました」
俯いて水筒に声を反響させながら、気まずそうに悠羽はうなだれる。ふわふわしていた気持ちは、だいぶ落ち着いていた。現実ってすごい。
「続報、期待してるよ」
「……がんばりまーす」




