79話 幾千の嘘とたった一つの真実
服を着替えて、外に出た。
夜の街は静まりかえって、冷えた風が鼻先を掠める。隣を歩く悠羽は、コートを着込んでポケットに手を入れている。
「寒くないか」
「へーき」
にっと歯を見せて笑う悠羽に、頷いて返す。
「そこの自販機で飲み物買うけど、なにがいい?」
「六郎と同じの」
「ブラックコーヒー買うけど」
「うっ……ココア」
「嘘だよ。寝れなくなるから、俺もココアにする」
「だ、騙したなー」
「ただの冗談だろ。そんな怒るなって」
「怒ってないし! ちょっと怒ってるだけだし!」
「どっちだよ」
小銭を投入して、二回に分けてココアを買う。ちょっと熱いくらいの缶を、カイロ代わりにポケットに入れる。
「どこ行くの?」
「そうだな……あそこの公園にするか。お前がぼっち生活してたとこ」
「六郎が慌てて走ってきたところでもあるよね」
「あそこで食ったサンドイッチ、下手くそだったな」
「美味しいって言ってたじゃん!」
「不味いとは言ってねえよ。あの頃から比べたら、信じられないくらい上手になったよなって話だ」
「うっ……なんかそれ、ずるい言い方」
「俺はずるいんだよ」
街灯の眩しさに目を細めながら、唇で弧を描くように微笑む。
「知ってるだろ?」
「知ってる」
ブランコを囲む低い柵に腰を下ろして、なんだか落ち着かなかったので立ち上がる。ポケットからココアを取り出して、手の中で転がした。まだ開けていない。
「悠羽。お前、自分の血液型覚えてるか」
「どうしたの急に。占い?」
「いいから」
「O型だけど」
「親は?」
「お父さんがA型で、お母さんがO型でしょ。それで六郎は――A型だよね」
ココアの缶をブランコの上に置いて、首を横に振った。
「俺はAB型だ。お前はもう覚えちゃいないだろうけど、小五の頃から俺は自分の血液型をA型だと言い始めたんだ」
「……どうして、そんな嘘ついたの」
昔の俺は、年よりも賢いガキだった。どこかで見た知識は簡単に覚えられたし、調べ事をする熱量も無限にあった。
だからその年で知ってしまったのだ。
血液型から、家族でないことがバレるということを。
本当に長い道のりだった。自分があの家の異物だと気がついて、悠羽に救われて、それからずっと嘘をついていた。
全身に絡みついた嘘はもはや数えきれず、俺という存在そのものが偽者くさい。
「高校で生物を勉強してればわかることなんだが。O型の親から、AB型の子供は産まれないんだよ」
月の光に照らされて、悠羽がそっと胸に手を当てる。大きく見開いた目は、まだなにが起きているのかを理解していないようだ。
「――俺は養子だ。血の繋がりなんてない、赤の他人だ」
言葉にすると、それだけで胸が軽くなった。楽になったのではなく、空になったのだ。痛みもない代わりに、虚しさだけが心を満たす。
指先に力が入らない。地面を見つめてしまう顔を、どうやっても上げられない。
「ごめんな。ずっと騙してて」
「…………」
「母さんの友達が交通事故で死んで、引き取られたのが俺だ。だからずっと、父親とは折り合いが悪かった。母さんは俺に気を遣ってた。それに耐えられなくなって、俺はあの家を出たんだ」
「…………」
悠羽の声は聞こえない。下を向いているから、彼女がどんな顔をしているのかもわからない。
砂を踏む音だけが、やけにはっきり聞こえる。
組んだ指が震えてしまう。深呼吸しても直らないから、諦めて地面を見つめた。
「お前だけが救いだった。なにも知らない悠羽だけが、俺のことを家族だと思ってくれたから。だから……言えなかったんだ」
臆病だと笑え。無意味だと罵れ。くだらないと嘲笑え。
それでも、俺は――
「嘘でもいいから、お前に家族でいてほしかったんだ」
鼻をすすって、消え入りそうな声で悠羽が絞り出す。喉の奥で詰まったのか、軽く咳き込んでまた鼻をすする。息継ぎするみたいに、苦しそうに息を吸う。
「……どうして」
心配になって顔を上げると、悠羽は俺を見て泣いていた。涙が溢れて止まらない瞳を、震えて使い物にならない唇を、それでも逸らすことなく、真っ直ぐに向けてくれていた。
悠羽が大きく息を吸った。綺麗な顔を涙で汚し、それをさらにくしゃっと歪めて、力の限りに叫んだ。
「ばか!」
大きく一歩踏み出して、彼女が俺の腕を掴む。爪が食い込むほど強く握られているけれど、振り払おうとは思わなかった。
ただ、目の前にある大きな瞳に吸い寄せられて。他のなにもかも忘れてしまうくらい、世界の真ん中に悠羽がいた。
「六郎は私の家族だよ! どうしてそんな簡単なこともわからないの」
息が詰まった。思考が止まって、目の周りが痙攣する。
「嘘なんかじゃないよ。偽者なんかじゃないよ。家族って、ずっと一緒にいる人のことでしょ。だったらそれは――私にとっては、ずっと六郎なんだよ」
突きつけられたのは、自らの愚かさだ。
俺はいったい、なにを怖がっていたのだろう。
こんなに強い光が側にあるのに、どうしてまだ、夜に怯えていたのだろう。
「……変わらないな、お前は」
寝込んだ俺を助けようと、泣きながら帰ってきてくれたあの日のように。
俺のために彼女が泣いてくれる。
ただそれだけで、こんなにも幸せになれる。生きていたいと思える。この身に降りかかる不幸を、笑い飛ばすことができてしまう。
「俺がずっと悩んでたことを、簡単に解決しちまうんだから、お前はすごいやつだよ」
「六郎はもっと私を信用してよ。血が繋がってないから家族じゃないなんて、絶対言わないじゃん」
「わかってたさ」
首を横に振って、やっとココアの缶を開ける。すっかり冷めた液体で渇きを癒やして、ため息交じりに言う。
「理屈じゃないんだ。俺にはもう、お前しかいなかったから」
「そっか。じゃあ……しょうがないね」
ふにゃりと笑って、悠羽が手を伸ばしてくる。背伸びをして、やっと触れる前髪を撫でてきた。はらりと目の高さで揺れる黒。
おもむろに頭を差し出すと、両手で撫でてきた。包み込むようにそっと、心まで溶かされそうになる。
「ねえ、六郎」
「ん?」
「ずっと辛かったんだね」
「……そうだな」
強がることはしなかった。少なくとも、今は彼女の優しさに身を委ねていたい。
頭を撫でていた手が止まって、暇な右手が捕まえられた。指を絡め合って、手を繋ぐ。
肩を寄せ合って、そのままの距離で見つめ合った。息がかかるほどに近く、お互いの顔しか見えない。
「辛いことがあったら、これからは言ってくれる?」
「できる限りそうする」
「寂しくなったら、私のことを呼んでね。いつでも一人じゃないって教えてあげるから」
「わかった」
絡み合う指はまだ、ちょうどいい居場所を見つけられていない。動かすとくすぐったくて、それを堪える少女が可愛らしい。
恋なんかしない。そんな感情は、とうの昔に越えてしまっているから。
「なあ、悠羽」
「なーに?」
幾千の嘘を積み重ねて歩んできた。
その全ての嘘は、たった一つの真実のためにあった。
「愛してる」




