78話 暗い道
仕草や表情で嘘がわかるなんてのは、当たり前の知識だ。
男は目を逸らす。女は目を合わせる。口元を隠す。手をポケットに入れる。口数が増える。その場にそぐわない笑みを浮かべる。髪を弄る、動作が大げさになる……挙げていけばキリがない。
そうした要素を俺は見ているし、相手からも見られていると思っている。
癖を隠すのは簡単なことで、有効だ。しかしそれでは、相手の思考を誘導できない。
癖があると思わせれば、相手の意識はそこに向く。
罠を張ったのだ。嘘を見抜いたと思わせて、悠羽の思考をそこで打ち止めにした。
誰より俺のことを知っていて、ちゃんと向き合ってくれる彼女だからこそ――絶対に騙すことができる切り札。
一度使ってしまったら、もう二度と使えない。
それでいい。どうせもう、これで最後だ。
◇
休日昼間のコンビニ前。片手にコーヒーを持った俺と、紙袋を抱えた大男。
「三条は……最近どうだ」
「いや別に、なにもないですけど。熊谷先生の方は、なにかありましたか」
「あったと言えばあり、なかったと言えばない」
「順調とは言いづらそうですね」
「ああ」
渋い声で頷く先生の横で、俺もため息を吐く。揃いもそろって辛気くさい顔だ。十月という季節は、なんとも言えない憂鬱さが心を満たす。
「あったことについて、お聞きしてもいいですか」
「名前を覚えていただけた」
「純情っ! それほんとに進歩してますか!?」
それで喜べるのは花屋さんに恋した小中学生だ。いい年こいたおっさんのラブストーリーじゃない。
「それだけじゃない。よく買うのがチョココロネということも覚えてもらえた」
「チョココロネ好きなんすか!?」
「三条、本題を見失うな」
「なんでしたっけ本題って。ええっと……紗良さんをデートに誘えないってことか」
「そうだ」
「まあ、気持ちはわかります」
冷めていくコーヒーを見つめながら同意する。
悠羽に『父と和解した』と思わせてから早一週間。気がつけば時間はあっという間に過ぎ、なにも起こらないまま日常が続いている。
あのまま畳みかけるように、「俺とお前は血が繋がっていない」と言ってしまえばよかったのに。
言うと決めた。準備も整った。なのに、ずっと切り出せないでいる。
忙しい日には「疲れたからまた今度」と言い訳をし、一緒に映画を見た日には「この楽しい空気を壊したくない」と、考えることを避けてしまう。
「三条は恋人を作る気はないのか」
「どうなんでしょうね。欲しかったり、いらなかったり、自分でもわかんないです」
圭次に彼女が出来たと知った日は、確かに俺も彼女が欲しいと思った。ただそれは見栄や嫉妬、意地のようなものでしかなかった。思えば小牧と別れてから、誰か特定の人と恋をしたいと思ったことはない。
否――俺はたぶん、生まれてから一度も恋をしたいと思ったことがない。
小牧寧音はただ、落とされただけだ。気がついたときには恋をしていた。そこに能動性はない。どこまでも消極的で、怠惰な俺がいただけだ。
あの時、彼女の手を自分から掴めなかったのは。
そして今も、伸ばされた手を掴めずにいるのは。
「俺はたぶん、なにもないことに慣れちまってるんです」
俺ぐらいの人間に、誰かを不幸にする力がないことはわかっている。俺といたくらいじゃ、小牧寧音は不幸にならなかった。
自分なんかが、みたいに思うような卑屈さもない。下を見ればいくらでも人はいて、自分はまだマシだと思うから。
だから、俺はただ慣れているだけだと思う。
普通の人が感じる寂しさや、欠落を感じ取れない。友達や恋人を作ったり、人の輪の中に入ることに必要性を感じられない。
昔はもう少し、繊細だった気もするけれど。
「三条を見ていて、今の言葉は俺も正しいと思う。ないのが当たり前だという考えは、俺も理解できる」
「そうですよね。そんなに特殊な感情じゃないと思うんですよ」
昨日必要のなかったものが、今日になっていきなり必要になるわけじゃない。
友達がいなくても、恋人がいなくても、親がいなくても、死ぬわけじゃない。
コーヒーを飲んで息を吐く。ふと気がついて、熊谷先生の方を見た。
「って、先生は絶賛恋愛中じゃないですか。俺の気持ちがわかるとか、よく言えましたね」
「きっかけがあれば、人は変わる」
「はぁ」
「橋本さんに会うまでは、俺はこのまま独身でいるのだろうと思っていたし、それでいいと思っていた。だが、あの人を一目見たときにその考えは吹き飛んだ」
「…………」
「三条にはまだ、その時が来ていないだけだ。たった20歳で、なにもかも経験した気になるのは早すぎる」
「そうなんですかね」
「そういうものだ」
深々と頷いて、熊谷先生は俺を見る。険しい顔についた瞳は、見る人にしかわからない優しさが込められている。
「いつか、そういう恋をお前もすることになるさ」
なにもなくて当たり前だと思っていた俺を、変えてくれることがあるのだろうか。
まだそう思えずにいるのが、先生の言うとおり、経験がないせいだとしたら――
軽く息を吐いた。力を抜いて笑う。
「そこまで言うなら、先生はさっさとデート誘ってくださいよ」
「それとこれとは話が違うだろう」
「なんにも違わないですって」
◇
『会って話がしたい。予定はなるべく、こっちが合わせるから』
『元カノがいつまでも自分を好きだと思うなよ!(笑)
今はちょっと忙しいから、またね』
液晶画面を確認して、わざとらしく肩を落とす。
「フラれたか」
鼻で笑って、スマホを布団の上に投げる。
ベランダに出て、ぼんやり浮かぶ月を見上げた。
最高の彼女がいて、幸せな初恋があった。
それで変わらなかった自分は、きっともう救われないのだと諦めていた。
けれどもし、そうじゃないとしたら。
「俺としたことが、思い出補正に騙されてたのか?」
案外そうなのかもしれない。
小牧寧音を勝手に神格化して、それ以上などないと決めつけて、足を止める理由にした。
情けない話だ。全てを自分で背負うと決めて、嘘を重ねて生きてきたのに。たかが初恋に、いつまでも囚われている。
人より暗い道を歩いてきた。生きたいという意思一つだけを持って、悪意に晒されながら、敵意を剥き出しながら。
その途中で、大切な人たちに出会った。
一人は俺に勝るとも劣らないカス野郎で、人の不幸が大好きな変態。
一人は俺を優しいと言って好きになってくれた、顔と胸が魅力的な美人。
一人は俺の勉強を見てくれて、夢が途絶えたことを悔しがってくれた恩人。
クソガキみたいな喧嘩相手もいた。料理にひたむきで、恋に不器用な年上の友人もいた。話しを聞いて受け止めてくれる祖母のような人がいた。うるさいだけで煩わしいチビどもがいた。ギャンブル好きの変人もいた。ゲームに誘ってくれる外国人もいる。
もうここが、暗い場所だとは思わない。
スポットライトの当たる舞台ではないけれど、星のある夜空くらいには、明るい場所だ。
この先、どれだけの出会いがあるのだろう。
俺は変われるのだろうか。
閉じた目蓋の裏側に、愛しい笑顔が浮かぶ。泣きたいくらい胸を温かくする、大切な人がいる。
全ての光の一番最初にいるのは――
「寒くないの?」
後ろから声を掛けられ、振り返ると彼女が立っていた。温かそうなパジャマを着て、カーテンの隙間から顔を出している。
ベランダは二つの部屋で繋がっているのだ。センチメンタルに浸るには、適した場所ではなかったと反省する。
「今日はそんなに」
「あ、ほんとだ」
手を出して気温を確認すると、サンダルを履いて悠羽も出てくる。
「考え事?」
「まあな」
「六郎っていつもなにか考えてるよね。疲れそう」
「習慣になってるからな。ぼーっとしてる方が疲れる」
「そうなんだ」
俺の横にきて、少女は夜空を見上げる。
街中の空では、月とオリオン座くらいしかわからない。夏に見上げた夜空には遠く及ばない。
「お前はなにやってたんだ?」
「お勉強ですっ」
「そりゃいいことだ」
「褒めてくれてもいいんだよ」
「…………」
手を伸ばして頭を撫でようとして、触れる直前で躊躇った。鋭くなにかを察した悠羽が、顔を上げて見つめてくる。
「どうしたの?」
「いや、たいしたことじゃない……こともないんだが」
引っ込めた左の手をなんでもないと振るが、不安な顔をさせるだけだ。
長く重たい息を吐いた。肺を空にして、数秒間だけ目を閉じる。ゆっくりと目蓋を開いて、覚悟を決めた。
「俺の話を聞いてくれないか」
「聞くよ。なにがあったの?」
「そうじゃない。俺の話っていうのは――三条六郎の話だ。俺自身のことなんだ」




