72話 ふざけてるぜ
「それじゃ、お仕事行ってきます」
「いってらっしゃい」
九月はドタバタしている間に過ぎ去り、季節はもう十月だ。肌寒い日も増え、服装も冬に向けて変化していく。
パン屋の仕事を一通り覚えた悠羽は、忙しい紗良さんの土日をちゃんと支えているらしい。
あの日以来、すっかりサラブレッドがお気に入りになったらしい熊谷先生は定期的に訪れているらしい。いつも多めに買って帰るから、すっかり常連のような扱いになっているという。
しかしあの熊谷先生が、パン好きとはな。
巨体の強面でメロンパンをかじっている姿を想像する。ちょっと面白いが、やはりしっくり来ない。俺が在校生だった頃は、いつも昆布のおにぎりを食べていたというのに。
「……いや、まさか」
頭によぎった可能性は、熊谷先生がパン目当てではない理由でサラブレッドに通っている。というものだった。
ギャンブル好きと、堅物教師。
いやいやいや。まさかそんな組み合わせ、あるわけないだろう。あれだけ規律を重んじ、徳の高い先生が「週二回しかギャンブルしてないから私は正常よ」と豪語する人に惚れるはずがない……ないよな。
だがもし万が一、熊谷先生が紗良さんに惚れていたら。
果たしてあの人は、上手くやれるのだろうか。
紗良さんは金の使い方に目を瞑れば、確かに優良物件だ。自分の店を経営するだけの手腕と、知性と胆力がある。三つ編み眼鏡がちゃんと似合うのもポイントが高い。お淑やかお姉さん詐欺ではあるが、あのルックスからしか得られない栄養素はある。
そしてなにより、熊谷先生は俺の恩人だ。
不器用に、それでいて誰より真摯に生徒と向き合うあの人が、自分のために誰かを想うというなら、俺は……。
パソコンを開いて、今日の分の仕事に集中して向き合う。熊谷先生が出没するのは、部活の午前練習が終わった後。おそらく一度シャワーを浴びるなどしているので、午後三時ぐらいだという。
あの人のことだ。どうせまだ、まともに進展していないに決まっている。進歩があったら、真っ先に悠羽が教えてくれるだろう。
「俺が……なんとかしなくちゃな」
ちくしょう、最近なぜか人の幸福を願ってばかりだ。
これじゃあキャラがぶれぶれだし、バランス取るために圭次は破局しろ。
◇
サラブレッドの入り口が見える場所に立って、巨体が現れるのを待つ。
一緒に来てもらったこともあり、熊谷先生が現れる方向は予測がつく。そこから死角になる場所を選んで、スマホをいじるふり。変装はしない。ぎこちなさが出ると、気がつかれてしまうから。
張り込みを開始して30分ほどで、ターゲットはやってきた。小綺麗な私服に身を包んで、筋肉質な肩を左右に動かしながら進行している。
その歩き姿を見るだけで、予感が確信に変わる。
なんだあの、楽しみな気持ちと緊張が100パーセントずつ。合わせて200パーセントで、感情がだだ漏れになった歩き方は。道行く人の誰もが「あの人は今からデートにでも行くのだろうな」と思うだろう。
厳格な熊谷先生の横顔が、ほんの一瞬だけ無垢な少年のように見えた。
そして数分後、大きく膨らんだ紙袋を抱えて出てくる巨漢。その顔はどこか消化不良気味で、なぜか落ち込んで見えた。
だめだ。見ていられん。
ちょうど通りかかったふうを装って、近づいていく。すぐに気がついた熊谷先生が、俺を見て目を見開いた。
「なっ、なぜここに」
「散歩ですよ。仕事がインドアなんで、健康のためによく歩いてるんです。熊谷先生は、遅めの昼食ですか」
「ああ。たまにはこういうものも食べたくなるからな」
「たまに、ですか」
「なんだその言い方は」
「週二はけっこう頻繁だと思うんですよね」
追い詰めるような聞き方はしなかった。
相手が相手だから強くは出れなくて、我ながら少し間の抜けた聞き方になったと思う。
「なぜそれを知っている」
「悠羽がバイトしているので」
「な――」
逆になんでバレてないと思ったんだよ。小学生でももうちょっと上手く隠すぞ。
「確かにそうだが。だからどうした」
「紗良さんのパン、美味しいですよね」
「ああ。とても丁寧な仕事をしているのだろうな。一つ一つ、繊細な味がする」
「紗良さんも綺麗だし」
熊谷先生はむせた。
ヘビー級の咳き込みで大気を揺らし、半目で俺を睨んでくる。
「なにが言いたい」
「いやあの。別にからかうとかじゃなくてですね……なにかお手伝いできないかなと」
少しの間、沈黙があった。
熊谷先生は重苦しいため息をつくと、いつもの仏頂面で言う。
「あまり大人を舐めるな。お前は自分のことをすればいい」
「紗良さんと話せましたか?」
「…………」
「ほらぁ! やっぱりなにも進んでない! もう一ヶ月経ってるのに、なにも進んでない!」
沈黙というか絶句してしまった恩師に、俺は悲痛な叫びを上げてしまう。煽りとかじゃなくて、本気で悲しい。熊谷先生がピュア過ぎて見ていられない。
「顔は覚えられているはずだ」
「電車の中でだけ会うあの子みたいな距離感で恋愛しないでくださいよ! 大人なんでしょ!」
「俺に突然話しかけられたら怖いだろう」
「話しかけなきゃ、その誤解も解けないでしょう」
「ううむ」
困り顔でより一層険しい表情になっていく。完全に堅気の人間ではない。剣道部顧問というより、極道の幹部に見える。
「というかあの、紗良さんはギャンブルやるんですよ。それも毎回、けっこうな額ぶち込むガチの人で……先生ってそういうの苦手ですよね」
「なぜかはわからんが、それすらいいと思ってしまった。……俺はおかしいのか」
「どうなんでしょうね」
スイッチが入ってしまうと、止まれないのが恋らしい。であるなら、熊谷先生は完全におちている。
「三条は詳しいのか。こういうことに」
「いや、俺も大して人に言えることはないですけど」
「そういえば、高校の頃に付き合っていた相手がいたらしいな」
「昔の話っすよ。偉そうに講釈垂れるほど、俺はなにもしてないです」
なにもかも受け身で、そのくせ終わりだけは俺が告げた初恋。
小牧寧音を裏切ったあの日、俺は自らがクズであることを受け容れた。そしてそれは、今も変わらない。
ただこの場合は、恋愛に疎くてもできることがある。
「恋愛指南とかはできないですけど、紗良さんとは一緒に働いてたんで。伝えられることはあると思います」
「なるほど」
しばし逡巡して、熊谷先生は顔を上げた。鋭い眼光が俺を捉えている。
「食事に誘うには、どうすればいい」
「普通にやればいいんじゃないですか」
「普通とは」
「や、だから『一緒にご飯行きませんか』って」
「そんな普通があるか!」
「それが普通なんすよ!」
どうして俺は高校時代の恩師とこんな言い合いをしているのだろう。
さては人生って面白いな。
ちなみに成果はなにもなかった。ふざけてるぜ。
 




