71話 進め
幸いなことに、悠羽はすんなりと合格をもらえた。
「夏の間もレストランで働いてたなら、安心ね」
とのことで、紗良さんは終始ニコニコしていた。
俺への怒りは100パーセント俺だけに向けられていたらしい。頼むからどこかへ理不尽な八つ当たりをしてくれ。
シフトに関しては学業優先で、基本は土日ということになった。競馬は土日なので、平日は忙しくない。という末期なことを言っていた。
悠羽に働かせて、自分はテレビにかじりつくつもりなのだろう。
一緒に来てくれた熊谷先生は、俺と悠羽のぶんもパンを買ってくれた。ぱんぱんに膨れた紙袋を持って家に帰って、二人で食べる。
紗良さんの焼くパンは、やはり美味しい。邪念に満ちた人なのに、どうしてこんなに純粋な小麦の香りがするのだろう。少し高い値段を払っても食べに来る人が絶えない理由がわかる。
「熊谷先生もパンが好きだったって、知らなかったな」
「い、いっぱい買ってたもんね……」
なぜか肩をびくっとさせて、悠羽は何度も頷く。わざとらしいその仕草が気になるけれど、深くは追及しないでおく。本能的に、『首を突っ込むと面倒くさいやつだ』と察したのだ。
「紗良さんは変な人だけど、悪い人じゃないから。たぶん大丈夫だろ」
「うん。いい人だったね」
「いい大人じゃないと思うけどな」
「だから六郎は、あそこで働いてたんでしょ」
「そう言われると複雑だな」
適度にだらしなく、性格の終わっているのが俺と紗良さんの共通点だ。だから仕事相手として関わりやすくて、柄じゃないパン屋での仕事も苦ではなかった。
「ま、ヤバそうだったら相談してくれ」
「わかった」
バイトの話はこのくらいにしておく。せっかくの休みで、今日は珍しく俺たちは別々の用事がある。
「午後は友達と図書館だっけ」
「うん。買い物して帰って来るから、ちょっと遅くなるかも」
「わかった。なんかあったら、迎えに行くから呼べよ」
「はーい」
受験勉強をする友達についていって、一緒に勉強するらしい。特に話をするとかではなく、ただ黙々と勉強だけするのだと言う。それはそれで、なんだか面白い関係である。いい友達であることは間違いなさそうだ。
玄関で悠羽を見送って、キッチンに入る。コーヒーを淹れて自分の部屋に行き、パソコンを起動する。
「さて、俺も遊ぶとしますか……」
デスクトップには、昨晩のうちにダウンロードしておいたゲームがある。外国で盛んな戦略ゲームらしいが、日本語ローカライズはされていない。よって表示されている文字は、すべて英語。
クリスさんが一緒に遊ぼうと言って、紹介してくれたものだ。
おおまかなゲーム内容は陣取り。勢力が三つあって、それぞれに特徴がある。
数を増やすことに長け、特徴的なスキルを持つが耐久値の低いエイリアン。
個々の能力が非常に高いが生残コストも高い、少数精鋭のAI兵士。
平均的な性能と特性で、扱いやすく奥が深い人間。
これらの勢力からまずは一つ選び、戦い方を覚えていくのがいいらしい。
ざっとホームページの情報に目を通した結果、スキルが特徴的なエイリアンを選ぶことにした。英語の読み甲斐がありそうだし、なにより敵の妨害手段が多くて楽しそうだ。
チュートリアルから乱舞する固有名詞と格闘しながら、なんとか理解していく。
勉強したことのない単語が大量に出てくる。そりゃそうだ。日本語ですらまだ、知らない言葉で溢れているのだから。
英語のゲームで新しい単語や使い方を知って、ネイティブと遊んで会話の練習をする。
試験が終わったくらいで、学ぶことはなくなりやしない。
◆
「ちーす、ゆは~」
「ちーす」
ふっくらした頬を緩やかに持ち上げ、志穂が手を振って近づいてくる。
少しだけ早く到着していた悠羽は、スマホをしまって微笑む。
「ごめんね。待った?」
「ううん。今来たところだよ」
「うふふ。ゆは、彼氏みたい~」
「私の志穂に近づく男は許さないぞー」
「きゃー、かっこいい」
ボブカットの少女は人懐っこい笑みで、悠羽の腕にしがみつく。持ってきた参考書の重みで、左腕にずっしりと重さがかかる。
崩れた体勢を元に戻して、悠羽はため息を吐いた。
「もう。ふざけてないで行こ」
「ゆはも楽しそうだったよぉ」
「十分楽しんだからいいの。ほらほら、受験生は一秒でも多く勉強しないといけないんでしょ」
「そんな先生みたいなこと言わないでぇ」
わざとらしく泣き真似をする志穂の背中を押して、図書館に入っていく。静謐な館内では誰もが声を潜め、おのずと二人の会話もささやくようになる。
「ちょっと私、下で調べ物してもいい? なるべく早く自習室行くから」
「りょりょりょ」
小さく指でマルを作って、志穂は二階の自習室に上がっていく。分かれた悠羽は、本棚が並ぶ一階に向かった。独特の匂いがする館内を歩いて、目当てのコーナーにたどり着く。
不登校だった頃に、図書館に何度かやってきた。
彼女に読書の習慣はなく、退屈を凌ぐために歩き回って旅行雑誌などを眺めていた。だから物語には詳しくないが、どこにどんな系統の本があるかは理解している。
学校の図書室しか知らなかった悠羽にとって、市の図書館は不思議な場所だ。小難しい新書や、新聞、写真集もあれば怪しげなオカルトの本もある。
そしてその中には――就職に役立ちそうなものもあった。
どんな資格を持っていれば、どんな職業に就くことができるのか。その資格を習得するのに必要な条件はあるか。数冊組み合わせれば、就職先の生活リズムやおおよその年収もわかる。
そういった分厚い本を何冊か選んで、貸し出しの手続きをして、二階の自習室に持っていく。幸いなことに志穂の横は空いていて、パイプ椅子に腰を下ろすと本を開いた。
隣の少女は、タイトルを見ると瞬きをしてなにか言いたげにして――ここが自習室であるから、口をつぐんだ。参考書に視線を落として、すぐに集中し始める。
その横で悠羽も、自身の将来について思考を巡らせる。
六郎ばかり考えていても仕方がない。なぜならこれは、彼女の人生なのだから。
◆
夕方になって、日が傾き始めたくらいで二人は自習室を出た。
「さっきなんの本読んでたの?」
「仕事に使える資格の本だよ」
「資格って、あの資格? 試験とか受けるタイプの」
「そう。そういうのあったら、ちゃんと給料の出る仕事に就けるかなって」
「へぇ。どんなのがあるの?」
「まだわかんない。いろいろありすぎて、頭がパンクしそう」
大学や専門学校に行かずとも、選択肢の数はそれなりにある。社会の仕事は思ったより遙かに多く、細分化されており、需要は探せばちゃんと見つかる。それゆえ自分が本当にしたいことが見つからず、苦しむ人が多いのだろう。
その点、やりたいことが明確にない悠羽はマシな方であった。
第一目標がお金を稼ぐことなので、仕事の内容はそこまで気にならない。調べる段階では大変だが、いざ行動に移したら後はやるだけだ。
「大変だね。ゆはって今、お兄さんと暮らしてるんだっけ」
「そうだよ。うちの家、いろいろあったみたいで」
「離婚とかって、最近じゃ珍しい話じゃないもんね。うちの親戚もそういう話があったみたい」
「そうなんだよね……。でも、まだぴんときてないの」
頭ではもう、あの家族が元に戻らないことはわかっている。
六郎と両親の間に空いた溝、父と母の確執、そして悠羽をめぐる彼らの対立。なにもかも手後れで、致命的だ。
その中でただ一人、悠羽だけが誰とも明確に対立していない。父と母への不信感はあるものの、はっきりと嫌悪感を抱いてはいない。
喧嘩しないでほしい。仲良くしてほしい。嘘でもいいから、家族の真似をしてほしい。
そんなことを願う夜は、まだ終わっていない。
このことだけは六郎にも言えなくて、ずっと胸の奥に抱えている。
秋のぼやけた風が少女たちの肌を撫で、金木犀の匂いが鼻先をくすぐった。
俯き気味な悠羽の隣で、志穂が真面目な顔で言う。
「きっとそれが普通だよ。だってまだ、一緒にいた時間の方が長いんでしょ」
「……そうだね」
普通だと言ってもらえて、胸に巣くう罪悪感のようなものが軽くなる。悠羽は微笑んで、さっきまでの空気を払い落とした。
「今の生活だって楽しいし、私は大丈夫」
「お兄さんと仲良いんだね」
「うん。いつも私に優しくしてくれるの」
「ねえ、悠羽のお兄さんって格好いい?」
「え――ど、どうだろ。っていうか志穂、なんでそんなこと聞くの?」
「だって、ゆはのお兄さんと結婚したらゆはと姉妹になれるじゃん」
「だ、だめ!」
志穂としては軽い冗談のつもりだったが、悠羽はそれに気がつかず必死に否定する。
その温度差に、ボブカットは首を傾げた。
「私じゃお兄さんに釣り合わない?」
「そうじゃないよ。そうじゃないんだけど……ええっと、六郎に志穂はもったいないの。うん。あの人すっごい嘘つきだし、性格悪いし、彼氏とかにしちゃいけないタイプだからだめなの」
「そんなの、会ってみなきゃわかんないよ。ゆはには優しいんでしょ」
「優しいのは、私にだけだから!」
顔を真っ赤にして、両手をギュッと握って悠羽は叫んだ。
志穂は目をぱちくりさせ、不思議そうにぽかんと口を開ける。こんな表情の悠羽は見たことがなくて、そのわけを探そうと回る頭。導き出された結論は、女子高生らしくピンク色をしていた。
「もしかして、ゆはってお兄さんのことが好きなの?」
「うっ――」
「あ、そうなんだ。へえ、ゆはに好きな人ができたんだ。しかしお兄さんとはまた、難儀な恋ですなあ。いやはや、本当にゆはは見てて飽きないから大好き!」
確信するや否や、反論する隙も与えずに押し切ってしまう。動揺してぐにゃぐにゃした表情をする悠羽に、志穂は思いっきり抱きついた。
「大親友を誤魔化そうったって、そうはいかないんだから。ね、好きなんでしょ」
「………………うん」
「きゃー! なにその反応、ウブすぎ、可愛すぎ、ゆはは私のものだー! お兄さんかかってこい!」
「ちょっと、恥ずかしいから」
「その恥ずかしさも全部私のものだー!」
「意味分かんないよ」
志穂を引き剥がすと、ぐったり肩を落とす。
「ほんと……私って、変だよね」
恥ずかしさや後悔で落ち込んでしまった悠羽の肩を、笑顔の少女が叩く。
「ゆはのお兄さん、格好いい?」
「……うん」
「優しいんだ」
「うん」
「そんなに素敵な人なら、好きになってもしょうがないじゃん」
「しょうがない……のかな」
「そうだよ。っていうか、そうでしょ」
「うん」
胸のつっかえが取れるような気がして、素直に首を縦に振る。
言われてみれば、仕方がない。
だって、格好よくする六郎が悪い。優しくする六郎が悪い。全部あの男が素敵だから、困っていることだ。
ずっとその言葉を待っていた気がする。六郎に対し恋情を持つ事への罪悪感と、絶対に結ばれることはない切なさ。そしてなにより、兄を好きになった自分は異常なのではないかという、不安。
けれど志穂は、真っ向からそれを否定してくれた。
素敵な人を好きになるのは仕方がない。
そんな当たり前の、なのにずっと忘れていた理屈を。
「最近ずっと難しい顔してたのって、もしかしてそれ?」
「そうかも」
日増しに大きくなっていく感情に、潰されそうになっていた。そしてその感情は、六郎と会っていないときほど強くなる。
学校にいる間なんかは特に、考えてしまっていたのだ。
やっと今、久しぶりに晴れやかな気持ちになっていた。志穂のおかげで、ようやく開き直れたのだろう。
「すっきりした顔してるじゃん」
「ありがと」
「いいってことよ~。あー、私も格好よくて優しい彼氏欲しいなぁ」
「志穂なら大丈夫だよ」
「ほんとにぃ?」
暗くなっていく道を、じゃれ合いながら歩いて行く。
正解かはわからないこの道を、それでも進もうと。悠羽は決意を新たにした。




