70話 またですか
「お忙しい中ありがとうございます。熊谷先生」
「うむ」
高校のすぐ近くにあるコンビニの前で、俺は強面英語教師と向き合っていた。手に持った紙コップは先生の奢りで、冷たいコーヒーが入っている。
「おかげさまで無事、試験終わりました」
「どうだった」
「悪くないと思います。ちゃんと読めたし、聞こえたので」
「そうか」
言葉少なく頷いて、熊谷先生が背中を叩いてくる。
「よくやった」
「まだ結果出てないですけどね」
苦笑いを浮かべると、熊谷先生は下手くそに白い歯を見せる。いつもの渋い顔と苦笑いの混じった、最高に不器用な笑みだ。
人と上手く関わることができず、よく誤解され、それでも生徒を大切に思ってくれる。そういう優しさが滲んでいて、いいなと思う。
「悠羽はどうですか? この時期って受験生ぴりついてると思うんですけど、大丈夫そうですかね」
「今年はおとなしい生徒が多くてな。学年主任は『もう少し緊張感を持ってほしい』と毎日のように言っているくらいだ」
「それは……俺からするとよかったです。学校としては、わかりませんが」
「俺にもわからん」
彼にわからないのなら、俺にもわからなくて当然だろう。斜に構えた大人もどきに、社会の仕組みは難しい。
「三条は、三条の卒業後をどう考えている?」
「俺も悠羽も三条なんですが」
「……三条兄は、三条妹の」
「六郎でいいですよ。もう卒業してるんだし、気を遣う必要ないですって」
熊谷先生は、生徒を下の名前で呼ばない。彼なりの『教師と生徒の距離』に関するルールがあるようだ。昨今のハラスメント事情を警戒してのことだろう。
だが、そのルールは恐ろしいほど厳格だ。一つのクラスに三人「鈴木」がいるのに、全員を鈴木と呼び続けたのは伝説として語られている。
「そうか。……ろ、六郎」
「男にそれやられるとゾッとするんですけど」
ツッパリお姉さんがデレ始める時みたいな呼び方をしないでほしい。ものすごい鳥肌が立って、手の中のコーヒーが凍ってしまいそうだ。
「……で、どうなんだ」
「卒業後ですよね。考えてはいるんですけど、やっぱりまだなんとも言えないかなと」
「具体的には、どんなことを考えているんだ」
「奨学金を借りて大学に行かせてやれないか、ってのがまず第一候補だったんですけど……国公立に通うなら、引っ越しが必要なわけで。たとえば学費免除までつけて、安い学生寮に住んでもらって、アルバイトで生活費を補って、足りないぶんは俺から仕送り。って状態が四年はキツいなって」
「ほう」
そもそも最初の引っ越しでだいぶキツくはある。俺と別々で暮らすことになれば、新しく家具が必要になる。俺ごと引っ越すにしても、条件のいい新居が見つかる保証はない。
「あいつを俺の扶養に入れて、二人で働いて生活。ってのが二つ目で、一番現実的かなと思ってます。いちおう俺も収入はあるし、悠羽が年間100万円くらい稼いでくれたら、とりあえず生活には困らないし」
「なるほど」
二人で協力して、今くらいの生活を守って生きていく。苦しいほどの不自由はない、慎ましやかな人生を。
それはそれで悪くない、とは思うけれど。
「とりあえず、そんなもんです」
「相当考えてるじゃないか」
「まだ甘いところが多いと思うので、もっと考えないととは思うんですが」
空になった紙コップを握りつぶして、熊谷先生は静かに言う。
「悩んだら、いつでも相談しろ。大人は頼りにくいと思うが、俺はお前の味方だ」
「知ってますよ」
「そうか」
相変わらず堅い表情で頷いて、先生は話題を移す。むしろここからが本題だ。
「それで、三条妹のバイトの件で相談があると聞いたが」
「俺が昔働いてたところを紹介しようと思うんですが。いちおう、学校の方でも知っておいてもらえたらと思って……あの、熊谷先生、一緒に見に行ってくれませんか?」
これこそ今日、俺が彼に会いに来た本当の目的。
怒れるギャンブルマシーンからこの身を守るための、強面ガードマンの雇用である。
◆
土曜の朝に学校外で先生と会うのは、なんとも居心地の悪いものがある。
持っている私服からなるべく真面目そうなものを選び、悠羽は家を出る一時間前からそわそわしていた。
落ち着かないのは六郎も同じようで、朝から天井を見てなにかを祈るようにしていた。身の安全を願っているのは、彼以外の誰も知らないことだ。
「紗良さんには事前に連絡してあるから。面接もついでにやってくれるらしい」
と言っていた六郎の声は、若干震えていた。
待ち合わせは店のすぐ近くで、熊谷の姿を見るや悠羽は真っ直ぐに背筋を伸ばす。怖いとは思わないが、やはり彼の迫力の前では緊張してしまう。
ゆったりと構えた六郎が挨拶する。
「おはようございます。すいません、お休みの日に」
「構わん」
短く答える熊谷は、どこか嬉しげであった。愛弟子に頼られたことを喜んでいるようだと、傍から見ている悠羽も察する。
三人が一堂に会するのは初めてのことで、こうして並ぶ六郎と熊谷を見ると不思議な気分だった。
特に似ている箇所は見当たらないが、師弟という表現がしっくりくる。
互いを信頼し、尊敬しているのが伝わってきて、胸が温かくなった。
「じゃあ……入るか」
なぜか悲壮感の漂う声音で言い、六郎がサラブレッドの扉を開ける。
刹那――その額に、白いプラスチックの角が振り下ろされた。ゴンッ、と鈍い音。
「いてぇっ!」
「おばさんと言われた女の痛みは、こんなもんじゃないのよ!」
長い髪を三つ編みにして、丸い眼鏡をかけた綺麗な女性が仁王立ちしている。店の名前が入ったエプロンをつけ、甘い焼きたてパンの匂いを全身に纏わせて。
彼女――サラブレッド店長の橋本紗良は、ブチ切れていた。
「ちくしょう、先生がいたら躊躇うかと思ったのに」
「そんなことで私の怒りは止められないわ。見立てが甘かったわねサブローくん」
「執念深すぎだろ……そっちだって散々いじったくせに」
「それとこれとは話が別よ。女の痛みは男の三倍」
「男女平等にはほど遠いな」
ジェンダー問題に敏感な時代に逆行するような、恐ろしい理屈である。だが本人は堂々としており、初対面の二人を前にしても一切譲る気がないらしい。
なんとなく悠羽はそれを見て、「この人とだから六郎も働けたんだろうな」と納得する。
呼び出された熊谷はと言えば、固まって動けないでいた。
学生時代から剣道一筋。いい雰囲気になった女性も数名いたが、部活に打ち込みすぎるあまりに発展することはなかった。教員になってからも同じで、合コンには行くものの強面と仕事熱心なところで敬遠された。
出会いらしい出会いもなくなって、早数年。
そんな彼の前に突如現れた、お淑やかな見た目でいて、芯の通った気の強い美人。おまけに六郎の口から、結婚していないという情報まで飛び出ている。
熊谷は、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
ちらっと横目でその姿を捉えた悠羽は、もしやと思って激しく首を動かす。
混沌とした室内に、早くも嵐の予感を感じていた。
(ま、また私の周りで恋が――!?)




