60話 お姫様じゃいられない
白馬の王子様に憧れなくなったのは、六郎と再会してからだった。
それまでの悠羽は家庭内の不協和音に耐えられず、幻想に縋っていた。雲のように不定形で、実体のない温もりを求めていた。
王子様がいると思っていたのではない。
王子様がいなければ、自分は救われないと思っていたのだ。
だが、そんな妄想は現実によって破壊された。
三条六郎という男は、白馬の王子様とはほど遠い。邪悪な笑みをたたえ、狡猾に周囲を騙し、人の弱みにつけ込んで条件を呑ませる。それも悪の親玉という器ではなく、参謀ぐらいの立ち位置である。
目的のためなら手段を選ばず、優しさには偏りがあり――そしてそれは、悠羽へと注がれる。
六郎という悪役の似合う男は、ただ一人、悠羽にだけはヒーローだった。
いくつも傷を負い、あるいは傷をつけてきたその手は少し冷たく、血の温もりがした。不器用な微笑みは、どんな幻想よりも眩しかった。
いつも現実に急かされている彼との生活は、悠羽の中にも焦燥を生んだ。
少しでも六郎の力になりたい。
日々の積み重ねで、その思いは大きくなった。
そしていつしか、彼と共に生きていきたいと思うようになった。
この不安定な世界を、二人で。
だって、そうじゃないと足りないから。
明日は一瞬で今日になって、刹那のうちに思い出に変わる。
あっという間に折り返してしまった夏に、まだやり残したことがたくさんある。きっとこれからの季節も、やりたいことばかり増えていく。
――六郎は、私の願いを叶えてくれる。
文月に言われたことは、きっと本当なのだろうと悠羽は思う。時間を掛けて、準備をして、きっと六郎は応えてくれる。
精一杯のアプローチをする悠羽に、戸惑いながらも彼は応じてくれる。隣で眠って、手を繋いで、頭を撫でてくれる。喧嘩したと思っても、すぐになんとかしようとして、そのたびに近づく距離に、心臓が鳴った。
我慢するのはもう、限界だった。ここで諦めたらきっと後悔する。
たとえ六郎を傷つけることになっても、彼の人生の邪魔になるとしても。
ほしいものは、ほしいんだ。
(やっぱり私は、六郎の妹なんだね)
決意が固まったのは、川からの帰り道。並んで歩いて、目が合って、悠羽が笑って六郎が笑い返す。そんなありふれた、なによりも大切な瞬間だった。
この瞬間を、この夏ごと閉じ込めてしまいたい。
そのためなら悠羽は、悪になることだって怖くなかった。
彼女の願いを叶えてくれる六郎の、その優しさを利用するのだ。
六郎が悪の参謀なら、悠羽は強欲な魔女になればいい。
そうすればきっと、お似合いの二人になれる。
◆
「お祭りの日までに、利一さんに告白します!」
拳を固く握りしめて、加苅美凉は宣言した。チャームポイントのポニーテールは風に凜と揺れ、瞳には決然とした意思が宿っている。
それを聞いた悠羽は、周りの子供と一緒にぱちぱちと手を叩く。子供、と言ってもここにいるのは中学二年生が一番の年少で、幼い空気感は抜けていた。
蛇殻祭に向けての準備をする学生たちの、中心メンバー。悠羽はそこに加わって、美凉が開くという屋台の準備をしている。
当日に出すというお好み焼きの試作をして、片付けまで一段落したタイミングでの宣言だった。
集まった少年少女は「やっとか」と、どこか呆れたように、けれど美凉の背中を押すように笑っている。当の本人は頭を掻きながら、「いや~、ここまで来るともう、逆にタイミングがなくなっちゃって」と照れている。
10年。
美凉が利一を想い続けた年月である。
当時まだ10歳だった彼女は、高校生だった利一に恋をした。昔からよく遊んでくれる相手が彼で、憧れから初恋へ至ったのである。高校卒業後、利一は村を出て料理の勉強をしに行った。
帰ってくるたびに美凉は彼に会いに行った。「利一くんの邪魔はしちゃだめよ」という周りの声を守って、告白することはなかった。
美凉が中学三年に上がったとき、利一から「いつかこの村で店を作りたいんだ」という夢を聞いた。その時まで、彼が帰って来るのを待つのだと決めた。
高校生になって、卒業して、大学に通って二年。ついに今年、彼は自分の店を持った。
やっと、時が満ちたのだ。
美凉も二十歳になった今、しがらみはなにもない。
「そしてゆくゆくは結婚、二人でこの村を盛り上げたいなー、なんて……えへへ」
思いっきりデレデレする美凉に、周りから「気が早いぞー」と声が飛ぶ。
タイミングを見て悠羽も、
「頑張ってください」
と伝えた。
そしてそんな彼女の姿を見ながら、自分のことについても思いを巡らせる。
◇
「利一さんも出店するんですか?」
「せっかくのお祭りだからね。僕もなにかしら貢献しないと、爺さんたちに怒られる」
蛇殻祭の会場準備は、一週間ほど前からゆっくりと進められる。
村の大人たちが集まって、今年はどこになんの屋台を出すか、休憩所のベンチはいくつ置くか、このご時世に喫煙所は必要か……などと話し合う横で、俺と利一さんは腕組みして待機している。
今日は実際の設営ではなく、全体への説明が中心なのでやることがないのだ。
二年前に引き続き、今回も俺は大人サイドでの参加である。観光客というわけにはいかないんだな、これが。
畑仕事ですっかり気に入られ、貴重な筋力と見なされた結果、今じゃ立派な主要メンバー。この村おかしいって。
「加苅のやつ、手伝うって言ったでしょう」
「いいや。美凉は自分の屋台をちゃんとやるって」
「じゃあ、俺が手伝いましょうか?」
「ロクは他のこともあるだろう。大丈夫。こっちは大高一族でなんとかするよ」
「わかりました」
「そうだロク。これ、うちで余ってたからあげるよ」
「なんですかこれ……ああ」
手渡されたのは、破れないように包装された蛇の抜け殻。全体ではないらしく、ほんの小さなものだ。もしかすると、そのへんの山で取ったのかもしれない。
金運上昇の縁起物、というのが一般的な解釈だが、この村においては少しばかり事情が異なる。
「俺、あの昔話苦手なんですよね」
他の人もいる手前、嫌いだという表現は避けておく。
「蛇は嫌いなのか?」
「いや……別に蛇も好きじゃないですけど。俺にはよくわかんないなって」
「なら、財布にでも入れておくといいさ。金運があって困ることはないだろう」
「ですね。ありがとうございます」
もらった抜け殻をしまって、そっと息を吐いた。
この季節が終わるとき、俺たちはどうなっているのだろう。
嘘つきはまだ、その答えを知らない。




