6話 小牧寧音
マッチングアプリを始めてから、毎日のように思い出す人がいる。
それは悠羽ではなく、(あいつとはメッセージをしているので。思い出すとかじゃない)高校時代の元カノ――小牧寧音だ。
ボブカットの童顔で、身長は百六十センチ。巨乳、それでいて性格がめちゃくちゃいい。人のあら探しを天職とする俺でさえ、彼女の性格に文句をつけることはできなかった。盲目だったのかもしれない。別れた今では、確かめる術もないが。
あんなに素敵な人と出会うことは、そうそうないのだろうなと思う。
小牧はいつも誰かのために動いているやつで、その愛らしい顔はだいたい真剣な表情をしていた。笑うと綺麗な顔がくしゃっとなって、ちょっとブサイクになるのが好きだった。
俺たちが付き合い始めたとき、周りはにわかにざわめいたものだ。圭次に至っては、泡を吹いて驚いていた。
好きになったのは、小牧からだった。
俺はまあ、可愛いクラスメイト。性格のいいやつ。くらいに思っていて、そもそも自分と釣り合うとは思っていなかったのだ。
振ったのは俺からだった。
惜しいことをしたなとは思う。けれど、心から後悔したことはない。考えるほど、これでよかったのだと思う。
インスタントの水みたいなコーヒーを飲んで、椅子に深く座る。
そういえば、小牧は俺が唯一、自分の家庭について話したことのある相手だった。
俺が悠羽と――否。あの家の誰とも血の繋がらない人間であることを、彼女だけは知っている。
あんなに心を許せる人も、きっともう、現れないのだろう。
スマホの画面。指先で送りつける〝いいね”は、どこか虚しい。
◆
六郎に彼女ができたと聞いたとき、悠羽は少しも驚かなかった。
相手が美人で、なおかつ性格がいいと知ってもなお、彼女だけは「まあ、六郎だし」と頷くだけだった。
スペックだけを見れば、三条六郎は決して劣った人間ではない。勉強は昔から得意だし、運動だってそれなりにできる。性格の捻れたところはあるが、人を傷つけるようなことは嫌う真っ当さもある。
なにかが噛み合って、彼のことをちゃんと理解してくれる人がいれば。ありえない話ではない、と思ったのだ。
その日、悠羽は久しぶりに電車に乗った。休日の昼前。思ったよりも空いていて、座ることもできる。
学校に行くときしか使っていなかったから、この時間帯のことは知らなかった。混雑していない車内は快適で、車窓から見える青い海が綺麗だと思った。
待ち合わせの駅で下車して、改札を出る。駅構内を出て、ビルの一階にあるカフェ。そこが待ち合わせ場所だ。
ぐるりと周囲を見回すが、まだそれらしい人はいない。
「悠羽ちゃん、こっち」
と思った矢先、声を掛けられた。振り返ると、涼しげなロングスカートの女性が立っていた。
もう一度顔をよく見て、気がつく。彼女こそ、小牧寧音だと。
化粧をして髪を伸ばし、格好も最後に会ったときより大人びている。パッと見で気がつけないのも仕方ないほど、素敵な女性になっていた。
悠羽は会釈して、挨拶する。
「お久しぶりです。寧音さん」
「久しぶり。元気してた?」
パーマをかけているのか、寧音の髪には緩いウェーブがかかっていた。ぱっちりした目と、幼げな表情の柔らかさは昔と変わっていない。
「はい。……まあ、それなりにやってます」
「そう。よかった」
まさか不登校になっているとも言えず、無難な返しをしておく。今日の本題はそっちではないのだ。
寧音はカフェを指さし、悠羽を手招きする。
「入りましょ。こんなところで話してたら、日焼けしちゃう」
「はい」
店内は空調が効いていて、ひんやり涼しい。温暖化の影響かは知らないが、最近の五月は以前よりも暑く感じる。
入り口近くのカウンターには、店員が二人立っていて、無尽蔵にあるメニューを差し出される。鉄板のコーヒーや紅茶、定番のココアや抹茶オレを初めとして、季節のドリンクも豊富に揃えている。
「悠羽ちゃん、どれがいい?」
「いえ、自分で払います」
「いいのよ。こういうときは、先輩に奢らせて」
財布を出そうとするのを止めて、寧音が前に出る。店員さんに向かい合うと、限定商品らしいものを注文した。
悠羽はお礼を言うと、同じものを注文する。寧音は嬉しげに微笑むと、二人分の代金を支払う。
席について、番号を呼ばれたので悠羽が取りに行って、二人は向かい合った。
ふわふわのクリームが載ったラテをストローで一口。
「ん~、美味しいっ」
「はい。美味しいです」
「甘い物を食べたり飲んだりすると、どうしてこんなに幸せな気分になるんだろうね」
「糖分は脳のエネルギーになるから、体が喜ぶんだって……」
言っている途中でハッと気がついて、悠羽はストローをくわえた。俯いて、クリームに視線を落とす。陰った頬が、ほんのりと赤い。
寧音はくすりと笑う。
「六郎くんも、同じこと言ってた」
「そういうつもりじゃないです」
ぽそりと否定するが、寧音はいっそう笑みを深くするだけだ。
そんなつもりじゃないのに、と悠羽は悔しい気持ちになる。六郎の言葉が自然に出てきたことが、腹立たしかった。
「でも、今日は彼の話でしょ」
「……はい」
渋々肯定する。
六郎の近況について知りたいと、事前に連絡してあるのだ。当日聞いて、寧音がなにも知らなかったら、お互い無駄足になってしまう。
「私も、卒業してからは一回も会ってないからなぁ。成人式も、違う中学校だし。SNSもなにもやってないみたいだし」
「そうですよね」
高校を卒業し、実家を出るタイミングで六郎は全てを捨てていった。スマホも解約して、少しの私物を持って出ていったのだ。
母だけは住所を知っているらしいが、電話番号は知らないらしい。
――もっとも、それを知ったところで悠羽には意味がない。別に会いに行きたいわけでも、声が聞きたいわけでもないのだから。
ただ、知りたいのだ。
その姿を二年間くらませ、盆も正月も顔を出さず、マッチングアプリでさえ己を偽る、三条六郎の現在を知りたい。
「大丈夫だよ悠羽ちゃん。なんの収穫もなかったら、わざわざ来てもらってないんだから」
「そっ、それはよかっ……ありがとうございます」
望みを失いかけたところに手を伸ばされ、つい、感情が表に出そうになった。
思いっきり手後れではあるが、悠羽はちゃんと隠せたと思って言い直す。
(……別に、なにも嬉しくなんてないし)
膝に手を置いて呼吸を整える。そうだ。これはあれだ。数学の解けなかった問題がわかったときに嬉しい、みたいなものだ。数学は嫌いだけど、解けた事実は嬉しい。そういうレベルのもの。
「それで……兄は、六郎は、どうしてるんですか?」
「生きてはいるみたいだよ」
「そうですか」
悠羽はそっと胸に手を当てる。
どうしてだろう。安心している自分がいた。
それは最近メッセージを送り合っている相手が、間違いなく六郎であることの証明がなされたおかげか。あるいは、ただ単に第三者によって生きていることが伝えられて安堵したのか。
「でも、生活は大変なんだって。働いてばっかりで、あんまり遊んだりはしてないみたい」
「ご飯は、ちゃんと食べてるんでしょうか」
「ちょっと痩せたみたいだけど、倒れたりはしてないって。六郎くん、料理できないって言ってたから心配だよね」
「あはは……」
まさか兄が今、マッチングアプリで料理男子を演じているとは言えず、悠羽は苦笑いする。
だがひとまず、ちゃんと一人で暮らせているらしいことはわかった。
「彼、悠羽ちゃんにもなにも言ってないんだね」
寧音はため息を吐くと、悲しげに目を細める。
雲が差したのか、一瞬、外からの光が失われる。
影がいっそう、目の前の女の感情を際立たせるみたいで。悠羽はつい、聞いてしまった。
「あの、寧音さんは……六郎のこと、どう思ってるんですか?」
「うーん。どう思ってる、かあ」
悠羽はすぐに後悔した。
寧音は六郎に振られたのだ。卒業の直前、なんの前触れもなく。
本当はこうやって、彼のことを聞くのも避けるべきだというのに。そんなことを聞いてしまうなんて。
「あ、いえ。答えたくなかったら、いいんです。酷いことされたと思うし。今日だって、六郎のこと思い出させちゃってごめんなさい」
「酷いことなんてされてないよ。六郎くんは、私のことが大好きだったから」
悠羽は目を見開いた。やっぱりという気持ちと、じゃあなぜという気持ちがぶつかり合う。ならばなぜ、六郎は寧音から離れたのか。
「……そうだったんですね。私、ずっと勘違いしてました」
悠羽は寧音のことが好きだった。優しくて頼りになる、姉のような存在だったから。
そんな彼女と別れた、六郎から振ったと聞いて、裏切られたような気分になったのだ。
忘れもしない、卒業式の日。
制服で待っていた六郎に話を聞かされて、悠羽は怒った。「あんなにいい人なんていないじゃん」「どうして六郎から振ったの」から始まって、最初は言われるままだった六郎も途中から怒り始めて――たぶん、初めて喧嘩になった。
記憶にある限り、一度たりとも悠羽に怒ったことのなかった六郎が。人生で初めて感情を露わにした。喧嘩に慣れていない二人は落とし所が見つけられなくて、どんどんヒートアップして、最終的に悠羽は言ってしまったのだ。
――あんたなんて、お兄ちゃんなんかじゃない。
六郎ははっと我に返ったような顔をした。それから顔を引きつらせて、
――ああ、そうだよ。
とだけ答えた。
それが最後だった。六郎はなにも言わずに、家を出ていった。
「難しいよね、人間関係って」
「そうですね」
言い聞かせるように寧音は言い、悠羽は頭を抱えていた。
なにか誤解があったとするなら――自分は、六郎を傷つけてしまったのではないだろうか。動揺するあまり、彼の話をなにも聞こうとしなかったのではないか。
二年経って、冷静になったところに後悔が押し寄せる。
それでも悠羽は顔を上げて、もう一つ、質問をした。
「寧音さんは、どうして六郎のことが好きだったんですか?」
「六郎くんは、優しいから」
悠羽は静かに目を閉じた。
そんなことは、誰よりも彼女が知っていたはずだ。なのに、寧音と会うまで忘れていた。
(……会いたいな、六郎に)
願ったら、堪えきれないほど悲しかった。