49話 ちょっとだけ
右手の熱は、家に帰った後も残っていた。
布団で寝転がって天井に手を伸ばし、悠羽は指を曲げ伸ばしする。
あの坂道で繋いだ六郎の手は、大きくてごつごつしていた。骨の硬さが直に伝わってきて、小さな手は簡単に包まれた。
この手に守られていたいと思った。
暗闇の中で不器用に笑っていた六郎の顔も、からかって突き放すあの態度も、なにもかもが完璧だった。
病にかかったのだと、自覚する。
もう戻れない感情が、芽生えてしまったのだ。あまりに淡く、あまりに強く、悠羽の心の真ん中に居座って動かない。
ため息すら熱っぽくて、嫌になる。
どうせ隣の部屋の男は、今頃のんきに眠っているのだろう。人の気も知らず、勝手なものだ。
そんなに鈍感だからモテないんだと言ってやりたい。だけど、モテたら困るので言えない。六郎の悪いところは、ちゃんと残しておかないと。
この感情が許されないものだと、悠羽は理解している。
けれど今日くらいは、幸せな気持ちで眠りたいのだ。
◇
――結局、頭撫でられてねえな。
布団に寝転がって思い出して、眉間にしわが寄った。
天井を眺めて腕組み。本日の反省点を考える。
まず、選んだ場所はよかった。天の川がくっきり見える空は、カレンダーの写真よりも綺麗だった。
では、いったいなぜ俺は悠羽の頭を撫でることができなかったのか。
シンプルにタイミングがなかった。
強いて言えば夏の大三角形について話した後に、おさらいみたいな感じでなぞらせて、「よく覚えられたな。えらいえらい」とやるくらいだったか。
だがそれはちょっと、小馬鹿にしてるというか。あんまり良くないタイプの褒め方だと思うんだよな。
……まあ、仕方なしか。
とりあえず話はできるようになったし、日常生活での不安はなくなった。撫でるとか撫でないとかは、また機会があったらにしよう。
考えるべきことは、きっといろいろあるけれど。
せめて今日くらいは、頭を空っぽにして眠りたい。
◇
「ハロー! マイネイムイズ美凉加苅!」
「こんにちは。私はクリスです」
場所は利一さんが営むピザ屋のテーブル席。
日本語上手すぎアメリカ人と、英語下手すぎ日本人、奇跡の邂逅シーンである。
もしかしたら、クリスさんのほうが日本語も上手いかもしれない。どうする加苅、お前の国籍が不明になってきたぞ。
なんて俺が考えていると、そこは優しいクリスさん。表情筋を大きく使って笑うと、加苅に合わせて英語を使う。
「I am glad to see you」
「…………ロクくん」
「ギブアップ早すぎんだろ」
自分から英語で仕掛けておいて、なんだそのざまは。
ただ「あなたに会えてうれしいです」って、教科書に載ってる挨拶をされただけだろう。
その様子を見て、クリスさんは声を上げて笑う。申し訳なさそうに、縮こまる加苅。
「大丈夫。私、日本語ちょっとだけ喋れます」
「謙遜の仕方が日本人みたい!」
大きな声で驚く加苅が、どうやら嬉しかったらしい。クリスさんはますます楽しそうに笑った。
そんな二人の横で、めちゃくちゃ浮きまくっているのが俺。笑うタイミングを完全に逃してしまった。三人以上で会話するとき、これが一番メンタルにくるんだよな。
焦って割り込むのは悪手なので、黙ってタイミングを待つ。
「クリスさんは、どうして女蛇村に来ようと思ったんですか」
「日本の田舎をビデオに撮りたい、思いました。でも、有名なところは他の人が撮っています」
「なるほど。これから人気になる場所を探していたんですね! そうです! ここ、これから一気にポピュラーになります!」
「私もそう思います」
「なんでも聞いてください! なんでも答えます!」
「ありがとうございます」
ふむ、これはあれだな。
俺、いらんな。
しれっと立ち上がって、昼のラッシュを過ぎた店内を歩く。悠羽は休憩時間らしく、今は姿が見えない。
カウンター越しの利一さんに声を掛ける。
「暇になっちゃいました」
「さすがのロクも、美凉と外人さんの二人同時は厳しいみたいだね。空いてるし、座りなよ」
「ありがとうございます」
カウンター席に座って、グラスを拭く利一さんを見る。
焦げ茶色の髪を後ろに縛って、シンプルな制服に身を包んだ優しい大人。なるほど、加苅が夢中になるのもわかる。世の女性が掲げる『優しい人が好き』とは、こういう人を指すのだろう。
「なにか飲むかい? 奢るよ」
「じゃあ、コーヒーを」
ゆっくり男二人で話でもしよう。利一さんとは、二年前からお互いに募る話もある。
そう思っていたら、後ろからポニーテールが迫ってきた。
「ロクくん! 日本語伝えるの難しい!」
「お前の母語は何語やねん!」
キレすぎて関西弁になってしまった。俺の実の親は関西人なのかもしれない。
「ははは。いってらっしゃい」
「てめえ……俺と利一さんの時間が」
「ロクくんは勤務中なんでしょ! 仕事、仕事だよ!」
「へいへいへいへい」
「へいは十回!」
「しんど」
威勢のいい居酒屋でもそこまでは言わねえよ。
テーブル席に戻って、加苅の横に座る。クリスさんは荷物もあるので、二人席を一人で使っている。
「今ね、女蛇村の名前の由来について話してたんだけど。あのお話、どうやって伝えればいいかわかんないんだよね」
「なるほどな。確かにそれは難しそうだ」
それで俺の出番とは、光栄なもんだな。
「クリスさん、日本語と英語、両方使っていいですか。俺も、英語ちょっとだけ喋れるので」




