45話 素直になれたら
唖然とする六郎から逃げて、悠羽は自室の布団の中に転がり込んだ。タオルケットを頭から被って、小刻みにぷるぷる震える。
――頭、撫でさせてあげる。
自分はなにを言っているのだろう。普段ならまず考えられない発言だ。
最近、おかしい。
六郎を見かけると自然に体がそっちに引きつけられるし、一日の終わりには早く隣の部屋に行きたくてそわそわする。おまけに二人で話しているとふわふわして、なぜか心臓が早く鳴る。
(これじゃまるで……恋してるみたいじゃん)
そんなはずはない、と頭では理解している。これはこの不可思議な状況が生み出した錯覚だ。
悠羽ぐらいの年頃の女子は、大人の男性に憧れる。頼りになる背中だったり、同年代の男子に比べて理知的な振る舞い。そういった数々の大人らしさが魅力的に映るのだ。
そして二年ぶりにあった六郎は、記憶の中にある姿から大きく成長していた。
脆さは時折垣間見えるものの、背中は大きく、強かに悠羽のことを引っ張ってくれる。かつての姿を想像していると、ドキッとするほどたくましかったりする。
そのギャップに、やられそうになる。
大きくなったその手で、甘やかされたいと思ってしまう。
だが、たとえそうだとしても。普段であったら、口に出して要求することはなかったはずだ。小賢しい六郎にならって、策を巡らせてそうせざるを得ない状況まで持ち込んだ。そうでなくとも、向こうが思いつくように強制誘導するくらいだったはずだ。
髪の毛をくしゃくしゃにして、激しく後悔する。
原因はなんとなくわかっている。そうだ。美凉に影響されているのだ。
あの人が、あんなに素直だから――
◆
美凉の利一への真っ直ぐな好意を目のあたりにしたとき、悠羽はぽろりとこぼした。
「なんか、いいなぁ」
最初はその理由が自分でもわからなくて、ただぼんやりと彼女のことを好ましく思った。どちらかといえば秘めるタイプの悠羽からすると、表現できる人はとても勇敢で、輝かしく見えるのだ。
実際に利一がいる場所でも、美凉の振る舞いは直球だった。
「利一さーん、今度のお休みどこか遊びに行かない?」
「その日は仕入れ先に挨拶行く予定だから、また今度にしよう」
「今度っていつ?」
「うーん。少なくとも、今月は厳しいかな」
「そかそか。利一さんもお店もって大変だもんね! うん。頑張って、応援してる!」
「ははっ。ありがとう」
軽くかわされ気味ではあるものの、そんなことは意に介さず押し続ける。利一も好意には気がついているのだろう。今は大人としての理性が見えるが、なんだかんだで押し切られそうな気がする。
大高利一という男は、傍目から見ても押しに弱そうだ。
その姿はどこか、六郎と重なって見えた。
きっと六郎も、押しには弱いほうだ。一方的に好意を伝えられ続ければ、そのうち振り向いてくれる。そういうタイプだ。
元彼女だった小牧寧音がそうだった。
悠羽は違う。
最初からちゃんと見てもらえる代わりに、それ以上のなにかは存在しない。それは幸せなことなのか――そうに決まっている。
芽生えかけたものを潰して、自分の今に納得する。
それでも。
「見てみて利一さん。食品衛生責任者になれた!」
「よく頑張った。美凉は努力家だなぁ」
「へへんっ」
なにかを成し遂げたらしい美凉がそれを報告したとき、利一がその頭を撫でるのを見て。思ったのだ。
(あれ、私もやってもらいたい!)
ただひたすらに純粋な欲望として、そう思ってしまったのだ。
素直に振る舞える彼女が、羨ましいと思ってしまったのだ。
◆
その結果が、あれである。
「うぅぅ……」
どうして自分は、頭を撫でられることに強烈な憧れを抱いてしまったのだろうか。
六郎が悪いのだ。
彼は悠羽に対して異常に甘いくせに、昔から触れてくることはほとんどなかった。壊れ物でも扱うように、彼女に対して慎重なのだ。
頭を撫でてもらったことなど、記憶の中では数えるほどしかない。
きっと、大切なものほど触れるのが怖くなるのだろう。そんなことは、悠羽にだって想像がつく。
だが、もどかしい。頭撫でてほしい。シンプルにそれが思考の大半を埋め尽くす。
あの不器用な男が、戸惑いながら手を伸ばす。タンポポの綿毛でも触るみたいに、そっと悠羽の髪に触れる。最初は気まずそうにして、ゆっくり馴染んできて、最後はくしゃくしゃと強く撫でる。「もういいだろ」と言ってそっぽを向いて、不機嫌そうな、けれどどこか満足げな表情になる。
そういう妄想をするだけで、胸の奥がきゅっとなる。
枕元に置いた蛇の皮が、やけに遠く感じた。
◇
頭撫でていいのか……とか思いながら眠って、起きたら悠羽と気まずい空気になった。
なにか失言があったわけじゃない。いやむしろ、なにもなかったのがよくなかったのか。
起きてすぐ、顔を洗って歯を磨いていたら、洗面所に悠羽もやってきた。ちょうど歯ブラシをくわえていた俺はなにも言えず、悠羽も俺と出くわして表情を固くした。
お互いにキョロキョロしているところに、加苅がやってくると、
「だーん! 今日も元気にやってこー!」
寝起きとは思えないほどの活力で顔をばっしゃばっしゃと洗い始める。
いつもだったらここで俺が「朝からうるせえよ」とか言って会話の流れを作れるのだが、歯磨き中である。なにも言えない。なにもできない。ガチ無力六郎の完成である。
その横で悠羽も静かに歯を磨きはじめ、完全に空気が終わった。
朝ご飯の時間に、文月さんから、
「なにかあったのかしら」
と言われるくらいには不自然な感じになってしまった。気がついていないのは加苅だけだ。彼女だけが、元気に白米を口に運んでいた。
俺はと言えば、誰か助けて……と思いながら味噌汁をすすることしかできない。
昨晩のあのタイミングで、迷わず頭を撫でてやればよかったのか。そうすれば、こんなふうにはならずに済んだのか。
だがしかし、俺は悠羽に触れることに抵抗がある。
そもそも人に触れるのがあまり得意ではないのだが、彼女は特に躊躇ってしまう。
昔はそんなこともなかったのだが、俺が中学に上がってからだろうか。周りで女子と男子の間が広がっていくのを見て、自然と俺も悠羽との距離を離すべきだと思ったのだ。
兄妹として近くにいるのではなくて、一人の女子として扱うべきだと思った。
俺たちは、血が繋がらない関係なのだから。あんまりべたべたしていたら、騙しているようで彼女に申し訳ない。
周りの兄妹を見たって、だんだん仲が悪くなるのが普通だった。適切な距離というものを保つべきなのだと思って、自分の中でラインを引いた。
世間的にもあるじゃん、女から男へのボディタッチはオッケーだけど、逆は犯罪みたいな風潮。あれに倣ったところもある。
だから、その一線を向こうから踏み越えられたことに驚いている。
結局仕事の時間になって、そのことについて考える暇はなかった。
悠羽を撫でるために必要な嘘など、俺の手札には存在しない。
それはたぶん、嘘じゃどうにもならないことなのだと、頭では理解しているけれど。




