24話 ゴミ箱の宝物
「私はまだ覚えてるよ、君を好きだった理由」
どうして俺は、こんな平日の真っ昼間から元カノと顔を合わせなきゃならないのだろう。すべては圭次のせいだ。あいつの顔が妙に広いせいで、小牧との連絡が再び繋がってしまった。
いったい誰が、自分で振って傷つけた女と再会したいなんて思うだろう。少なくとも俺は、そんな特異な性癖は持っちゃいない。
振ったことだって、その事実だけに関していえば――後悔していないのだ。たとえ二年の歳月があいて、今もなお小牧が俺を好きでいてくれたとしても。「やっぱり付き合い続けておけばよかった」とは思わない自信がある。
華々しい小牧寧音の人生にほんの少し触れた。その事実を大切に胸にしまって、墓場まで持っていくのが元カレの役目というものだろう。
「俺だって覚えてる。『優しい優しい』って、意味のわからんことばっかり言ってたよな」
「そう。やっぱり覚えてくれてたんだ」
小牧は嬉しそうに頷く。
「あんまり繰り返すもんだから、精神攻撃の一種かと思ってたんだぞ、あれ」
付き合う前からも、付き合っている間も、こいつは一生「六郎くんは優しいんだよ」などと主張していた。なにかしらのプロパガンダか陰謀論か、あるいは洗脳かと思うほどに何度も。
「私、嘘はつかないって決めてるから」
「それも知ってる」
「本気で思ってたよ。こんなに優しい人は他にいないって」
「本気で……か」
息を吐くように嘘をつく俺とは対照的に、彼女の言葉はすべて真実だった。
かつて彼女は言っていた。「一つでも嘘をついてしまったら、すべての本当が台無しになる」と。
それに対して、俺はこう返した。「一つ本当のことを言えば、十の嘘を隠すことができる」と。
それくらいはっきりと、俺たちは異なる考えを持っていた。
「さあ次、六郎くんの番です。言わせておいて言わないのは、ちょっと酷いよね」
「……なあ、言った後でセクハラとか言うのやめろよ」
「言わないって」
「顔と胸」
目を逸らしながら言う。小牧は途端にくすくすと笑い出した。
「付き合ってた頃は最低だと思ってたけど、別れた後だとなんか面白いね」
「俺は面白くねえよ」
眉間を押さえてため息を吐く。
顔と胸が好きだ。というのは、付き合ってる女が絶対にする「私のどこが好き?」という問いに対する返答だ。いろいろ考えるのは面倒だったし、正直恥ずかしいのでそれしか言わなかった。
「なんべん聞いても『顔、あと胸』しか言わないんだもん。他にはなにもないのかーって私、めっちゃ怒ったことあるよね」
「なんもねえって言ったよな、俺」
「ほんとあれ最低だった。まじで別れてやろうかと思ったんだからね」
「あったな。でも結局、小牧が『どうせ嘘に決まってる。六郎くんは私のことが大好きでたまらないんだから』とか言って収まったんだっけ」
「違うでしょ。六郎くんが『あなたの全てが好きです。髪の毛食べます。むしゃむしゃ』って言ったから許したんだよ」
「そんな化物と付き合うなよ、気持ち悪い」
「あはははっ、たしかに」
堪えきれなくなって、少し大きな声で笑う。
思いっきり笑うときだけ、小牧の顔はくしゃっと崩れる。いつも抜群に可愛くて、人形みたいに整ったその顔が、ブサイクになる。
その一瞬が好きだった。
完璧な少女と出会って、好きになったのはその不完全な場所だった。
だけどそんなことを言ったって、小牧は「嘘でしょ」と言うに決まっているから。いつも俺は黙っていた。
俺だって嘘みたいだと思うよ。だけど、あの気持ちは本当だったんだ。
久しぶりにその表情を前にして、ほんの少し、胸の隅が痛い。
「あの頃さ、楽しかったよね」
「楽しかったな」
二年経って、最近では思い出すことも少なくなったけれど。小牧と過ごした時間は、どれも宝物みたいに輝いている。
「恋人に戻る気はないけど、ねえ、六郎くん。また私と仲良くしてくれる?」
「仲良く、ね」
わざわざそんなことを伝えるために、小牧は俺を呼ぶだろうか。またお友達になりましょう。やったねバイバイまた今度。
繰り返すようだが、小牧寧音は俺が人生で初めて、心の底から敵わないと思った相手だ。
「いい加減に本題を言えよ。アイスブレイクは十分だろ」
「私の右腕になってよ」
「…………は?」
「私のビジネスパートナーになって」
「…………いや、わからん」
「私が作る会社の、社員になってほしいの」
「だからそれがわからないって言ってるんだよ!」
「え、どこがわからないの」
「元カノに呼ばれてきたら、一緒にビジネスやろうって言われてる現状だよ。なにこれ、マルチか新興宗教のどっちだ」
「のんのん、健康商法」
「外道であることには変わりないだろ。……で、本当は?」
「教育だよ。私はこの国の、教育の仕組みを変えたい」
その目は本気だ。言葉は本当だ。別に俺じゃなくても、誰にでもわかる。
すっかり薄くなったコーヒーを揺らして、首を横に振る。
「俺は無理だ。賭けができるほど、安定した土台がない」
自分一人ならまだしも、悠羽の人生を背負った状態で危険は冒せない。
「わかってるよ。だからこれは、未来の話。いつか事業が成功したら、必ず君を迎えに行くから。その準備をしてて」
「俺である必要性がないだろ。友達びいきしてると、会社が傾くぞ」
「ひいきじゃないよ」
「じゃあ、なんで」
「さあね。それは内緒――そろそろ電車の時間だから、行くね」
カップの底に残ったものを飲み干して、小牧が席を立つ。時間を確認するために取り出したスマホが、俺の目の前で持ち上げられる。
「あ――、それ」
そのカバーに貼り付けられた、ボロボロのシール。お世辞にもオシャレとは言えない、ピンクのタコのイラスト。
「やべ、バレちゃった」
小さく舌を出して、小牧は逃げるように店内から出ていく。ガラスの向こうで一度だけ振り返ると、そのまま駅のほうへ走って行ってしまった。
付き合っている間に一度だけ、俺たちは水族館へ行った。
あのシールは、来場者特典とかで配られていたものだ。なにも特別なものじゃない。
それを、あんなボロボロになるまで――
「俺はもう、捨てちまったよ」
午後の日差しが温かくて、醜い俺には眩しすぎる。
水みたいになったアイスコーヒーだけが、テーブルに残っていた。
椅子に座って一人、彼女との日々を思い出す。
――失恋と呼ぶにはあまりに綺麗すぎた、初恋の記憶を。
次回「嘘つきの君に、とびきりの本当を」




