22話 義妹、元カノ、誰?
六月が終わり、いよいよカレンダーは7の数字を頂点に掲げる。
季節は夏。学生たちは来たる長期休暇に向けて、最後の気力を振り絞る。
進学校の三年生たちは、この時期から本格的に志望校を固めていく。
本当に行きたい『第一志望』、実力的になんとかなりそうな『第二志望』、最悪ここで妥協ができる『第三志望』くらいまでは決める時期だ。
八月には学校の補講と塾の夏期講習に打ち込み、極限まで自分を追い込んでいく。
そんな中、悠羽は周りの生徒とは違う方向に進もうとしていた。
「アルバイトをしたい……か」
進路指導室の一角。小さなソファで作られたスペースにて、悠羽は熊谷先生と向かい合っていた。
英語の指導はもちろんのこと、学校生活や家での生活についても、彼は気に掛けてくれていた。生徒指導で剣道部顧問、と聞けば堅物のようだが、実際に話してみるとなかなかに融通の利く相手だ。
それに加えて世話焼きである。普段生徒から頼られない反動からか、頼られたときの面倒見の良さは半端ではない。
そんな彼だから、原則アルバイト禁止の進学校にて、出席日数ギリギリの悠羽が「アルバイトをしたい」と言い出しても即却下しなかったのである。
他の教師なら、今頃顔を真っ赤にして「自分の立場がわかってるのか!」と怒鳴りつけているところだ。
だが、熊谷先生は彼女らの置かれている状況を理解している。
「他の先生方に掛け合って、許可を出すことはできる……が。それだけだと反感を買いかねないのはわかるな」
「はい」
悠羽は頷く。重々しくそれを受け止めて、熊谷先生が続ける。
「大人を納得させるために必要なのは、熱意ではなく実績だ。風紀を乱さない、勉学を疎かにしない。この二点で信頼を勝ち取りなさい」
「わかりました」
「先生方に真面目な生徒だと思われること。それから、来週の期末テストで赤点をとらないこと。この二つが達成できたなら、夏休みから許可が下りるように申請する」
「ありがとうございます」
勢いよく頭を下げる悠羽。
自分も働ければ、生活は今よりずっと楽になるはずだ。少なくとも、エアコンを迷わずつけられるくらいには。
「ところでなんですけど、あの」
顔を上げて、少女が問う。
「熊谷先生は、六郎が二年間なにをしていたかご存じでしょうか」
「二年、というのは卒業してからか」
「はい。本人からはどうやっても聞き出せそうになくて」
熊谷先生はふむ、と息を吐き出すとソファに深く座った。
「俺も詳しいわけではないが、なにも知らんわけではない。だが、三条自身が隠しているなら……」
「隠しているわけじゃないと思います。あの、隠していることもあると思うんですけど。六郎はたぶん、単純に自分の話をするのが嫌いなんだと思うんです」
ずっと一緒にいて思った。
あの男の秘密は、悠羽のためを思ってそうしているものと、ほとんど無意識にしているものがある。家族絡みのことは前者で、仕事のことについては後者な気がするのだ。
「なるほど確かに、言われてみればそういう癖があるな」
たとえ教師が相手でも、簡単に手の平を見せたりしない。必要であれば、容易く嘘をつくのが六郎という男だ。それはきっと、彼が生きるのに必要な技術だったのだろう。
そして、技術は他の場所にも影響を与える。隠し事の多い六郎は、自然と他のことも隠すようになった。どこか一箇所から、自分の積み重ねた嘘が崩れていくのを嫌って。
「三条は最初、半年ほど住み込みで働ける仕事をしていたはずだ。家を契約する金もないと言っていたからな。それがなにかまでは、俺は知らん」
「住み込みですか。……わかりました。あとは本人に鎌を掛けてみます」
薄く笑って、悠羽はポケットから一枚の葉書を取り出す。
宛名は『三条六郎』差出人は『加苅美凉』とある。
裏面には何枚か写真がプリントされていて、そのどれもに綺麗な女性が映っている。きっと彼女が、加苅美凉なのだろう。
そこに付け加えて、達筆な字で、
『今年は遊びに来れますか? ロクくんに会いたいです』
と書いてある。
「今朝、たまたまポストを確認したら見つかったんですよ。六郎には女の人の影なんてなかったのに、不思議ですよね」
「お、おう……」
熊谷先生はなにも言えず、喉を鳴らした。学生時代から剣道を続けているが、ここまで迫力のある相手とは向き合ったことがない。
悠羽の笑みは薄かった。その表情は、獲物を追い詰めるときの六郎のそれと似て、見るものを否応なく怯ませる。
「この女の人が誰か、ちゃんと説明してもらわないといけないと思うんです。そこだけは、嘘をついたらいけませんよね」
ふふふ、と笑う教え子に、大男は鳥肌が立つのを感じた。
◇
「うっ……なんだ今の」
なにか巨大な生き物に狙われているような、本能的危険を感じて身震いする。慌てて周囲を確認するが、なんてことはない駅前の喫茶店だ。
俺が喫茶店にいるのは、ある意味異常事態ではあるが……。
慣れない場所に来て、変に緊張しているのだろうか。これから会う人物のことを考えても、どうも胃のあたりがざわざわするし。ストレスで感覚がバグっている可能性はある。
コーヒーを口に含んで、なんとか落ち着こうと試みる。
だが、上手くいかない。二日前から続く胃痛と、さっきから感じる寒気に板挟みにされて苦しい。生きるのって辛い。
その人物とは、二度と会わないと思っていた。
連絡は圭次を挟んできた。俺は高校を卒業したとき、彼女の連絡先を失っていたから。
彼女――そう、彼女だ。
くだらない言葉遊びになってしまったが、今からくるのは、俺の元彼女。
小牧寧音、その人である。
六郎胃痛編
 




