20話 エロい意味ではない
正面に座った圭次が、この世の真理に気がついたように重々しく口を開く。
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている――とするなら。
おっぱいについて考えるとき、おっぱいもまた俺たちのことを考えているのではなかろうか」
「こいつ、そろそろ処分しないと社会に害が出るな」
神聖なる我が家のリビングで、この上なくくだらないことを言いやがって。
カウンターで仕切られたキッチンで、二人分のアイスコーヒーを淹れて持っていく。
テーブルに載せる。コースターなんてものはないので、この時期は結露でびしょびしょになる。
正午を少し過ぎた真っ昼間。平日だというのに大学生は呑気なもので、突如この男は家に押しかけてきた。
「で、なにがあったんだ?」
「奈子ちゃんがぁ」
「帰れ。二度と来るな。ビンゴ大会で参加賞しかもらえなくなれ」
「まだなにも言ってないだろ!」
「奈子さんって時点ですべて察しがつくんだよ! どーせまたリア充特有の相談風マウンティングが始まるんだろ。俺に相談するのはフラれてからにしろ」
「なんとかしてくれよサブぅ」
情けのない声を出して、べたべたと右腕を掴んでくる成人男性。頼むから夢だと言ってくれ。こんな化物が俺の親友なんて、未だに信じられない。
「まったく、俺は未来の猫型ロボットじゃないっつうのに」
恋人と仲直りできる道具なんて、果たしてあっただろうか。悪用すればいけそうなのはいくらでもあるが、ちゃんとしたのは知らない。
「だいたい、圭次が奈子さんみたいな人と付き合えた時点で奇跡だろ。聞いたとこ、アプローチの仕方もストーカーだったみたいだし」
「そうなんだよなぁ。俺ごときが奈子ちゃんの彼氏なんて、ありえないよなぁ……」
「ひとんちでローになるなよ。ただでさえ湿度高いのに、カビ生えるだろ」
「どーせ俺なんて、カビと同類ですよ」
「この家において、リア充の地位はカビより低いぞ」
「この流れで慰められないことってあんのかよ」
圭次は期待外れだと言わんばかりに、テーブルに突っ伏した。やっぱり、あのネガティブは演技だったらしい。
だらっと起き上がってコーヒーを一口。それから、俺たちの間で必死に首を動かす扇風機を見てぼそり。
「つーか、暑くね」
「言うな。俺だって必死に耐えてるんだ」
六月も終わりに差し掛かり、いよいよ夏の暑さが牙をむき始めている。雨の日が減ったのはいいが、連日気温が三十度近くあるのは苦痛だ。
前の家から愛用している扇風機に加え、悠羽のためにもう一台購入した。だが、それも気晴らしにすぎない。もう少しすれば、エアコンを動かさないといけなくなる。
「つけっぱなしにしとけば、案外安いらしいぜ」
「知ってる。ただな圭次、この家には三つ部屋があるんだ」
「た、確かに……」
日中は仕事、夜は睡眠に使う俺の部屋。
学校から帰ってきて、悠羽が過ごす部屋。
そしてこの、キッチンと繋がって地味に面積の広いリビング。
そのすべてのエアコンを動かして発生する電気代は、ちょっと考えたくないでござる。拙者、誠に嫌でござるよ。
「というわけで、現状、野郎相手にエアコンを使う予定はない」
「お前ってほんと、悠羽ちゃんには甘いよな」
「うるせえな、破局しろ」
「しれっとエグいこと言うなよ!」
おんおんと泣き真似をする圭次。まったく、こいつはなにしに来たんだか。
まあ、昼の時間くらいは相手しても仕事に影響はないか。
「なあサブ、昼飯買ってきたから話くらい聞いてくれよ」
「なにを買ってきたかによるな」
前にこの流れでおやつラーメンを出されたことがある。あの時は本気で縁を切ってやろうかと思った。
「大学の近くにある弁当屋さんのだよ。唐揚げとエビフライ、どっちがいい?」
「どっちでも……いや、唐揚げがいい」
先日の反省を活かし、ちゃんと選ぶことにした。聞かれたことには答えよう。
男二人で顔を合わせ、暑い部屋でカロリーの高い弁当を食らう。はたから見れば地獄のような光景だろう。
「奈子ちゃんがさぁ、キスさせてくれないんだよ」
「中学生の悩みかよ……」
まったくと言っていいほど、生産性のない時間だった。
◇
悠羽が帰って来るのは、夕刊の配達を終えてしばらくしてからだ。
ここ最近は、できるだけ学校の自習室で勉強しているらしい。熊谷先生をはじめとする教師陣と一緒に、遅れたぶんを取り戻すため。というのはもちろんだが、自習室のエアコンも目当てにしていると言っていた。
あの学校、進学校だけあって自習環境がいいんだよな。籠もりたくなるのも頷ける。
そんなわけで、この時間は俺も勉強することにしている。
秋にある試験を目標に、錆び付いた英語力を叩き直す。全盛期よりもさらに上へ。そうじゃないと、生きていくのには使えない。
扱う参考書は、すべて熊谷先生が譲ってくれた。学校で試供品としてもらい、眠っていたものらしい。
「とっておいても誰も使わんから、三条が使ってやれ」
とのことだった。
こういう参考書は地味に高いから、家計は大助かりだ。
おまけに、熊谷先生が個人的に集めているという、英字新聞までもらえることになった。これから定期的に、悠羽を介して俺に渡してくれるらしい。
こんなによくしてもらって、いいのだろうか。
そんな疑問が浮かんでくるけれど、きっとあの先生はいいと言うのだろう。
恵まれている。
大変な人生なのは間違いない。けれど、全てに見放されたわけじゃない。
だからまだ、諦められない。
「にしても今日、あっついな……」
集中しようとしても、上手くいかない。いつもの夕方は、もうちょっとマシなのに。
エアコンを使いたいが……。
朝刊の配達をやめたから、あんまり余裕ないんだよなぁ。
悠羽と暮らすことになるから、生活リズムを合わせるために仕事を減らした。もちろん、収入も減る。そのぶんは他で埋めようとしているが、そう簡単にいくものでもない。
危惧はしていたが、さっそく家計のピンチである。
頭の後ろで手を組んで、背もたれに体重をかける。
一人暮らしのときは、欲なんてなにもなかったのに。最近俺は、やけに欲深い。
美味い飯を食わせてやりたい、快適に生活させてやりたい、可愛い服を買ってやりたい、楽しい場所に行かせてやりたい――人並みの幸せを、悠羽に与えたい。
そんな願望が、頭の中を占拠している。
「ただいまー」
そうこうしているうちに、帰ってきた。参考書を閉じて立ち上がる、
リビングに出ると、鞄をだらしなく肩に提げた悠羽が入ってくる。
「おかえり」
「今日暑すぎ」
「晩飯はさっぱりしたのにするか」
「そうしよ。油っこいの食べれる気がしない」
悠羽が自室で片付けをする間に、冷蔵庫の中身を確認する。
ぱっと思いついたものに必要な材料を出していく。材料に不足がないことを確認したところで、悠羽が部屋から出てきた。
「なに作るの」
「冷製パスタ」
「オシャレそう! ねえ、それどうやって作るの」
途端にテンションを高くして、隣まで小走りでくる。エプロンもつけて、料理する気満々だ。
悠羽は家事全般を、自分の役目だと思っているらしい。掃除も料理も、俺にやらせないように阻止してくる。別々なのは洗濯物くらいだ。
ありがたいのだが、そんなに頑張らなくてもと思ってしまう。
確かに俺は働いているが、悠羽だって学校に行っているのだ。そういう意味では、対等であるはず。
みたいなことを相談してみたのだが、
「やだ、だめ、無理」
と言って聞かない。代わろうとすると機嫌を崩すので、難しい。
悠羽なりに、俺を支えようとしてくれているのだろう。
料理だけは、教えるという名目で手伝いを許されている。だから、夕食前のキッチンには二人で立つことが多い。
「ここに湯を張った鍋を火に掛け、いつもより塩を多めに入れたものがある。沸騰するまでに野菜を切って、ソースを作るぞ」
「六郎は料理番組のアシスタントとか得意そうだよね」
「仕事があるなら紹介してほしいくらいだ。悠羽の友達に芸能人とかいないの」
「うちみたいな進学校にいるわけないじゃん」
「だよなぁ」
しかもここ、都会じゃないし。そこそこ栄えているだけの、よくわからん街である。生活するぶんには困らないが、娯楽はあまりない。
「今日の学校はどうだった」
「んー、別にって感じ。なにも問題ないよ」
「ならよかった」
「平和が一番だよね」
材料を混ぜてソースを作り、沸騰したらパスタを茹でる。余った時間でサラダを作れば、簡単だが夕食の完成だ。
食べ終わったら、あとはだいたい各自の時間。適当な時間にシャワーを浴びて、勉強したり仕事の残りにかかったり。時間があえば、悠羽と二人で動画を見たりもする。
だが、今日はあまりの暑さになにもやる気が起きなかった。
氷を大量に入れた水を飲みながら、リビングでぐったりする。
やばいな今日。寝れないかもしれん。
日が沈んでも、気温が下がる気配は一向にない。風も少ないので、窓を開けても解決しない。
だが……。
一度エアコンの快適さを知ってしまえば、もう二度と戻れなくなる。
忘れもしない、去年の夏。我慢できずに使いまくって、とんでもない額を請求された悲劇を。繰り返すわけにはいかないのだ。
「六郎」
「んー」
「暑い」
「エアコンつけていいって言ってるだろ。つーかつけろ。熱中症になったらどうするんだ」
「でも、六郎はつけてないし」
ものすごく不満そうに、悠羽は言う。
「節約しなきゃいけないなら、私もつけない」
「体壊したら意味ないから、つけろ。もうそんなに学校休めないんだろ」
「…………」
悠羽はつかつか歩いてくると、向かい側の机に座った。このリビングには、テーブルと椅子二個しかない。
彼女は身を乗り出すと、眉間にしわを作って言う。
「おんなじこと、言ってあげようか」
「いいんだよ、俺は。このくらいじゃ倒れん」
「倒れなかったら無理してもいいなんて……そんなのおかしいじゃん」
なにも言い返せなかった。反論を許さない雰囲気が悠羽にはあったし、なにより彼女の言っていることは正しい。
「そんな優しさ、私は受け取れないよ」
「ごめん」
「ううん。私も、勝手なこと言ってる」
そこで二人揃って言葉が止まってしまった。お互いを思いやることと、自分を犠牲にすることは違う。そんなことはわかっている。
ただ、両立できないのが現実なのだ。
「あんまりこういう話はしたくないんだけどな……。金銭的に、動かせるエアコンは一台だけなんだ。来月破産するとかいう話じゃないけど、貯金できないのは不安だろ」
「一つなら動かせるんだね」
「それくらいなら」
悠羽が考え込む。セミロングの髪が、口元でひらひら揺れている。
少しして、目を開いた。なにか思いついたらしい。
「じゃあ、一緒に寝ればいいじゃん」
指をぴんと立てて、これは名案ですと表情が言っている。
「だめ?」
こてっと首を傾げて、悠羽が聞いてくる。
しばらくの間、俺は呆然としていることしかできなかった。
長い動揺と思考の果てに、「ここで断ったら俺たちが義理の兄妹だとバレる」と思って、首を縦に振ることにした。
……一緒に寝る。
なんですか? 一緒に寝るって。




