18話 愚者の一手
「ちくしょう……俺の『毎日ドキドキ!エチエチお姉さんと同棲計画!』が…………」
昼頃になって、前の家にはなかったリビングで一人崩れ落ちる。
朝の忙しい時間帯を乗り切って、ふとした瞬間に気がついてしまったのだ。
悠羽と暮らすこの家には、女を連れ込むことができないことに。夢に見た巨乳お姉さんとのドエロい日常は、夢のまま消えてしまったことに。
今となってはもう、マッチングアプリもホーム画面の飾りでしかない。
「こんな思いをするなら……金なんて払いたくなかったっ」
フローリングに手をついて、一人悲しくうなだれる。
一ヶ月3000円のアプリに、つぎ込んだのは9000円。たっぷり三ヶ月ぶんである。四月に始めたから、まだ一ヶ月は残っている。
『それくらいの期間がないと、彼女はできないよ!』とアプリの最初に書いてあったせいだ。月数が多くなるほどお得になるのもよくない。完全にやられた。
「義理の妹と途中で暮らすことになる場合も考えてくれよ、運営……」
口に出してみるとバカらしい。誰がそんな可能性を考えるというのだ。一歩間違えてSNSに書き込んだら、大炎上して住所まで晒しあげられる。
まあ、そもそも俺はエチエチお姉さんとマッチングしたことないんですけどね。
いやほんと、よかった。エチエチお姉さんに見つかる前でよかった。じゃなかったら俺、悠羽がヤバくてもなんもできなかったからね。
……泣きてえよ、俺。
いろんな方面に消えない傷を負いながら、立ち上がってキッチンへ。今日も今日とて安いインスタントラーメンを茹でる。
晩飯は悠羽もいるから、まともなものを作らないとな。……まあ、あいつが作ってくれるのかもしれないけど。
完成したラーメンを腹に入れて、皿を洗い、部屋に戻る。
いつもならしばらく休憩しているが、今日からはそうもいかない。ノートパソコンをどけて、スペースを作る。
机の上にテキストを置いて、新品のノートを広げる。高校を出てからは、めっきり出番の減ったシャーペンを指で揺らす。
毎月10万が送られてくることになって、ひとまず家計は安定するだろう。
……というのは、希望的観測だ。
ふっかけてぶんどったはいいが、あの様子じゃ体を壊すのも時間の問題だろう。悠羽に諦めがついて、送金が不意に途絶える可能性だってある。
最短で2ヶ月、長くても半年。そんなところか。
そこから先は、俺が一人で支えないといけない。二人分の人生を。
「お先真っ暗だな、相変わらず」
果てのない不安や絶望は、どこまでいけば晴れるのだろうか。考えるほどに、進む気力が削がれていく。無力感が全身を包み込む。
乾いた笑いが漏れた。
いつもなら、この段階で諦めていただろう。ただ嵐が過ぎるのを待つように、全てを受け容れて耐え忍ぶ。
けれどもう、俺は一人じゃない。
頑張ろう。
◆
時間は少し遡って、場所は進路指導室。
剣道部の顧問もやっている巨漢の熊谷先生を正面に、悠羽はこれでもかというほど縮こまっていた。
圧のある筋骨隆々な体、武人のような強面、地面を揺らすような低い声。その恐ろしさは、100メートル先の赤子を泣かすことすらあるという。
その巨漢が口を開き、地鳴りのように呟く。
「俺は、悔しい」
「……はい」
意味もわからずに悠羽は返事をした。
「三条――君の兄は、優秀な生徒だった。これまでいろいろな生徒を見てきたが、あれほど見所のある子供は滅多に会えるものではない」
「えっと……あの」
「どうした」
「六郎から、なにか言われたんですか?」
熊谷先生はピタッと固まると、途端にその動きを不自然にした。
「なにも言われてなどいない。そもそもこれだけの生徒がいる学校で、卒業して二年経ち、実力があるのに有名大学に進学せず、就職もせずいるやつなど知らん!」
「さっきすごい褒めてましたよね!?」
「ぐっ……」
びっくりするほどの博識ぶりである。下手をすれば、いや、下手をしなくても、六郎の二年間については彼の方が詳しいだろう。
熊谷先生は渋い顔をすると、声を潜める。無意識のうちに、悠羽も内緒話を聞くような姿勢になる。
「ここだけの話、君の力になるよう頼まれている」
「……私、まだなんとかなるんですか」
六郎が手を回していることは、ここまでの流れで察していた。だから、驚いたのは熊谷先生の口ぶりに対して。
大男はどっしりとした態度で頷く。
「余裕はないが、卒業できないほどじゃない。勉強の遅れは、俺が見てやろう。といっても英語だけだが、他の教科の先生にも話はできる」
「よかった……」
安堵がどっと襲ってきて、深く深く息を吐いた。
「いい兄を持ったな」
悠羽は首を縦に振る。
「…………はい」
悠羽は唇をギュッと噛んで、零れそうなものを抑え込んだ。
また、六郎だ。
どうして。
どうして彼は、こんなにも自分を大切にしてくれるのだろう。わからなくて、ただ温かくて、簡単に泣いてしまいそうになる。
大きく息を吸って、せり上がってきたものを押し戻す。まだ震える声で、力強く少女は言った。
「私、頑張ります。よろしくお願いします」
目の前の大男が怖いとは、もう思わなかった。
◇
六郎が熊谷に英語の質問をするようになったのは、二年に上がってすぐのことだった。
授業を持っていたわけではなかったし、そもそも熊谷に話しかける生徒は少なかった。だから最初は、「人違いをしているのではないだろうか」と勘ぐったものだ。
だが、六郎は「熊谷先生って、英語教師ですよね」と聞いてきた。
「どうして俺なんだ。先生なら、他にもいるだろう」
「一番わかりやすいの、熊谷先生なんですよね。この間、代わりにうちのクラスで授業やってくれたじゃないですか。あの時にそう思ったんです」
「そうか……」
そんなことを言われるのは初めてだ。熊谷は半ば呆気にとられながら、六郎の言い分に納得した。
自分の受け持った生徒が、他の教師に質問するのは見たことがある。だが、その逆が起こるとは想像していなかった。見た目に圧のある彼は、生徒からずっと避けられ続けていたのだ。
「で、なにが知りたい」
「長文読解なんですけど……ここの指示語がなにを指してるのかわからなくて」
「もう過去問に手を出しているのか」
「……やっぱり、もっと基礎をやった方がいいですかね」
気まずそうに目を逸らす少年に、熊谷は尋ねた。
「前回のテスト、順位は」
「英語は七位です」
「なら問題ないだろう。うちの学校でそれなら、十分基礎力はある。今のうちから難問に触れておくのはいいことだ」
面白い生徒だと思った。
俗にガリ勉と呼ばれる子供なら、いくらでも知っている。六郎より勉強のできる面々は、典型的なそれであった。
彼らは幼い頃から勉強する習慣を身につけさせられている。だが、六郎は違う。話しているうちに、勉強を始めたのは中学三年からだと判明したのだ。塾に行ったことは一度もなく、勉強の進め方も自分で考えているという。
さらに珍しかったのは、彼が順位をさほど気にしていなかったことだ。さすがに一位をとったときは喜んでいたが、それも他の生徒に比べればわずかなものだ。
「勉強って、生きる手段として優秀だと思うんです」
いつだったか、六郎はそう言っていた。
他の生徒が順位争いや、色恋沙汰に時間をつぎ込んでいる十七歳の時期に、その少年は自分が生きる方法を求めていた。
こういう人間が大成するのだろうな。
いつしか熊谷は、六郎に対して並々ならぬ期待を寄せるようになった。
二人は師弟のような関係で、進学先についても早い段階から話し合っていた。着実に成績を伸ばしていくのが、自分のことのように嬉しかった。
三年になって、志望校への合格もほぼ確実と言われ、職員室でもたびたび六郎の話題が上がるようになった。六郎を見てか、熊谷に質問する生徒も増えた。
すべてが順調だと、そう思っていた。
「俺、大学行けなくなりました」
忘れもしない、12月。一次試験を目前にしたある日、熊谷と教え子の道は途絶えた。
やけに大人びた顔で、半笑いを浮かべ、六郎は言ったのだ。
悲しさを通り越して、もはや笑うしかないのだと、意志の消えた瞳が語っていた。
あれほど悔しかったことは、人生でも数えるほどしかない。少なくとも、自分以外のことであんなに耐えがたい苦痛を味わったのは初めてだ。
「すいません。よくしてもらったのに、全部無駄にして」
「無駄なんかじゃない」
綺麗事だとわかっていた。けれど、熊谷は必死に絞り出した。
「お前の努力は、なにひとつ無駄じゃない。いつか必ず、力になる時がくる」
だから、謝らないでくれと。
懇願するように言う熊谷に、やはり六郎は微笑むだけだった。泣くことなど、とうの昔にやめてしまったのだろう。涙が意味を為さないのが、彼の人生だったのだろう。
だから――
再び六郎が彼の前に現れたとき、その願いを叶えようと思った。
悠羽のことは二つ返事で了承した。生徒指導という立場もあって、不登校の生徒と接するのは容易だ。熊谷はこの高校に在籍している期間も長いから、他の先生にも話を通しやすい。
彼の願いは、それだけだと思っていた。
だが、違った。
六郎はもう一つ、熊谷に頼んだことがある。
「英語の資格って、仕事取れるやつありますよね。いいのあったら、教えてくれませんか」
2年前に手放した努力を、再び拾い上げようとしていた。それで生きていくのだと、はっきりとした意志があった。
いつかは今なのだと、そうであってくれと、熊谷は願う。




