16話 ただいま
喫茶店を出たのは、午後五時半。
雨は止んで、遠くの空には晴れ間も見える。閉じた傘でアスファルトを叩きながら、本日二度目となる帰省を果たす。
二年間一度も戻らなかったのに、まさかこの一日で二度も訪れることになるとは。一ヶ月前の自分に、
「お前はまた三条家に踏み込むことになるぞ」
と言ったら、唾を吐きかけられることだろう。ぶん殴られるかもしれない。
冗談ではなく、それくらい俺にとってここは忌々しい場所だ。
今度は一階でチャイムを鳴らして、招かれて中に入る。もしもの時のために、俺が鍵を持っていることは隠しておきたかった。
玄関の前に立ち、インターフォンを鳴らす。
息が上手く吸えない。肺が縮こまって、喉が震える。目を閉じて、一つの言葉を支えにする。
『頑張ってください。』
ゆっくりと息を吐いた。全身から熱が抜けていく。
気分は最悪だが、落ち着くことはできた。
ドアが開く。懐かしい顔が二つ。
父親は俺を見るなり、腕を胸ぐらに伸ばしてきた。予想の範囲内なので、左手で押さえる。ナイスキャッチ。
「ひさしぶり、おとうさん。握手が下手になったね」
荒れた肌と、ボサボサの髪の毛、そり残しのある髭。二年前よりずっと老け込んだ姿に、時間の残酷さを感じる。
昔から、この人が怖かった。
自分よりずっと力が強く、この家の誰よりも収入のある父親という存在は、自分の命を簡単に脅かすことができるから。
だが、こうして対面してみると、そんな印象は受けなかった。
俺は背が伸びて、筋肉もついた。受け止めた左手だって、逃がさない程度には握力もある。収入だって多くはないが、頼らずとも生きていけるほどにはある。
――なんだ、こんなもんか。
そう思ったら力が抜けて、視野も広がる。微笑む余裕すらできた。
少し後ろで立つ女に、極めて紳士的に声を掛ける。
「おかあさんは、ちょっと綺麗になったかな。なんでかは知らないけど」
優しくお世辞を言ってあげたのに、どうしてか彼女は顔を引きつらせた。お化けに会ったみたいな顔だ。不思議なこともあるもんだ。
「中に入れてよ。せっかく愛する息子が帰ってきたんだ。話したいこと、沢山あるでしょ?」
左右に目配せして、隣の家の存在をアピールする。
世間体という言葉は知っているらしく、二人は大人しく俺を入れてくれた。
リビングの机に、三人揃って座る。四つある辺のうち三つを使って、見事に全員が距離を取る。全員がお互いを避け合う環境なんて、なかなかあるもんじゃない。
もちろん、お茶を淹れる人はいなかった。
空のテーブルに手を載せ、二人を交互に見てから口を開く。
「質問は?」
「悠羽をどこへやったのよ……」
最初に答えたのは女の方だった。
「俺の家にいるよ。心配だったら、後で来るといい」
もっとも、引っ越したから前の家にはいないわけだけど。誰もいない部屋の前で困惑する姿を想像したら、ますます優しい笑顔になってしまう。
ドンッ! と机が揺れた。
反対側に座っている男が、拳を落としたのだ。
「どういうつもりだ」
「どうって言われてもね。書き置き、見てないの?
これは悠羽の意志だ。俺は急にあいつがうちに来て、困ってるんだよ。
思春期の家出ってやつ? ま、親としちゃ不安だろうからさ、話は俺が聞くってことで電話番号書いといたけど」
日頃の訓練のおかげで、嘘ならいくらでも出てくる。機械油いらずの詭弁マシーン。
「嘘をつくな。お前がなにか吹き込んだんだろう」
「また人聞きの悪いことを。俺はまだ、とうさんが精神ズタボロになって酒と薬に頼るしかない状態だってことなんか教えてないよ」
ポケットの中から、一枚目の切り札をきる。包装部分に名前の書いてある錠剤。調べたら一発でヒットした。抗うつ薬だ。
男は目を見開いて固まった。女はついていけず、キョロキョロしている。
「大丈夫だよ、かあさんにもわかるよう、優しい俺は準備してきたから」
クリアファイルから印刷した紙を取り出して、手渡す。薬の名前と効能、副作用などがまとめられたものだ。
「処方された日と残ってた量から計算して、一日五、六錠のペースでいってるよね。オーバードーズ――過剰摂取の傾向が見られる。そうでもしないと、正気を保ってないって相当だよね」
男はギリギリと歯ぎしりして、拳を強く握りしめている。
「どっちがあいつを連れて行くかで争ってるって聞いたんだけど、こんなに精神が不安定な人と、か弱い女の子を一緒に住ませることを裁判所は許してくれるのかな。俺は法律に詳しくないから全然わかんないんだけど、ねえ、どうなのかなぁ。大学卒業して、立派な人生を歩んでる、頭のいいおとうさんならわかるよね」
机を人差し指でコンコン叩いて、返事を急かす。限界までストレスを与える。
ここまで俺が男の方ばかり攻撃するのを見て、女は安心したらしい。両目に涙をため、ファンタジーな言葉を口にする。
「やっぱり、六郎はお母さんの味方なのね」
「もちろん。かあさんは高校時代、毎日弁当を作ってくれたりしたもんね。
一度だけじゃなく、二度も家庭を不倫でぶっ壊すようなクズ女だとしても、俺はかあさんの味方だよ」
だから俺もファンタジー構文で帰してやった。一発で理解できなくて、女は目をしばたかせる。刃が突然自分に向いたことに、よほど動揺しているらしい。
いいねその表情。ワクワクする。
「なに言ってるの六郎。……そんなでたらめ言って」
「でたらめかあ。じゃあ、下着の中に隠してある箱をここに持ってきてよ。その中身を見てから話し合おう。みんなで一緒に家族会議だ。せっかくだし、悠羽も呼んどく?」
「――ひっ」
話ながら、二つ目の切り札をきる。
指先につまんで、二人に見えるように掲げたのは――パールのイヤリング。
「かあさん、パートで働いてるんでしょ。週に四回、ちょっと離れたスーパーでレジ打ち。
あそこの時給から計算すると、一ヶ月の収入はざっくり10万ちょい。さて、このイヤリングはおいくらでしょう。なんと8万円するらしいです。
離婚寸前まで話が進んで、おそらく生活費も出してもらえない状態の人が、どうやってこんなものを手に入れているんだろうね。世の中ってのは不思議だね」
部屋に充満していた甘い匂い。年を取って、離婚の話で大変なはずなのに、なぜか前より綺麗になった姿。不自然なほど高価なプレゼント。
男と女、両方を見てから、核心に触れる。
俺がずっと隠していたこと。小牧寧音にさえ言わなかったこと。
俺が悠羽に、この家の歪さを言えないでいる一番の理由。
「そもそもあんたら、不倫から結婚したクズ共だろうが。今さら幸せになろうなんて、虫が良すぎると思わねえのか。なあ。クズはクズらしく、社会の隅で泥すすって生きてりゃいいんだ。
悠羽に――あの子に触るんじゃねえ。汚いもんを見せるんじゃねえ。てめえらみたいな人間未満が、あいつの親を名乗るんじゃねえ!」
全力で机を殴った。手の皮が割けて血が流れて、床に滴り落ちる。
俺にとって、この男は三人目の父親だ。一人は血の繋がった親。二人目は、俺を養子に引き取った親。三人目が――この、母親が不倫して悠羽を授かった男だ。
あの子に罪はない。
だが、その生まれはあまりにも闇が深い。
そのことが、俺はなにより許せない。
立ち上がって見下ろす。もはや、軽蔑は隠す必要もない。
「あんたらに選ばせてやる。
今この場でさらけ出したこと、すべて悠羽に伝えてこの家に戻すか。
悠羽を帰さない代わりに、あんたらのことは黙っておいてやるか。その場合は、毎月10万。俺の口座に振り込め。それくらい当然だよな、だって〝血の繋がった親”なんだから」
「「…………」」
馬鹿二人は馬鹿みたいに黙っていた。
先生に叱られた小学生みたいに机と睨めっこだ。机になにか面白いものでも書いてあるのかな?
三分待ってもなにもないので、大げさにため息をつく。
「そっか。じゃあいいや、悠羽には伝えとく。『お前には金を払うような価値なんてない』ってさ。それでいいだろ?」
「払ってやる……」
「ん?」
「払ってやると言ったんだ。月10万。これで満足か?」
「聞こえないなぁ」
「お前……」
「立場をわきまえろよ。社会ってのは、上下関係が大事なんだろ」
それでついに、限界が来たらしい。なにかが切れる音が、はっきりと聞こえた。
男は立ち上がって、首を絞めようと両手を伸ばしてくる。女の悲鳴が上がる。
ダンッ、と鈍い音が響いた。
「いい加減わかれよ。……あんたはもう、俺には勝てないんだ。暴力での支配ってのは、期間限定なんだよ」
胸ぐらを掴んで、壁に押しつけられているのは俺ではない。襲いかかった男のほうだ。
「三回目は反撃するぞ」
「……はなせ…………」
指示に従って、ゴミのように解放してやる。
「まあいいや、話は伝わったみたいだし。はいこれ、俺の口座だから、月末までに翌月分を支払うように」
座ったまま動かない女にメモを渡して、もう一度笑顔を見せてやる。
「じゃあ、またなんかあったら来るから」
俺が家を出るまで、彼らはなんの音も発さなかった。
エレベーターの鏡に映る、殺伐とした表情の男。右手の血は固まったが、けっこうグロい。
こんな姿は、悠羽には見せられないな。
「……くそが」
重いため息を吐き出した。笑えるはずがなかった。
マンションを出たら、雨が顔に当たった。それでようやく、思い出す。
「あ、傘忘れた」
取りに戻る気力は、当然ない。
足下がふらつく。やっと一段落ついたからか、体がずっしりと重い。雨が全身に降りかかって、もう歩くのをやめてしまいたい。
このまま道に倒れて、いっそ死んでしまいたいとすら思う。
思い出すほどに、自分の最低さが嫌になる。こんな方法でしか、生きていけない俺に価値なんてあるのだろうか。
「だめだ、心が弱ってる」
こんなに苦しいのはひさしぶりだ。でも、経験がないわけじゃない。冷静になれば、まだ生きる理由なんていくつもある。俺の価値なんて、誰かが勝手につけてくれるさ。
でも、さすがにもう頑張れそうにはないから。
悠羽に会いたい。
その一心で、雨の中を進んだ。
◇
玄関を開けると、優しいたまごの匂いがした。それに続いて、ハヤシライスの香ばしい匂い。
思えば、今日は朝からまともなものを食べていない。緊張していたから、食欲も仕事をしていなかったらしい。
靴を脱いで中に入ると、リビングの扉が開く。
逆光でよく見えないが、悠羽で間違いないだろう。圭次たちの靴は既になかった。
「おかえり」
「ただいま」
「ご飯作ったから食べる? 六郎の好きなオムライスなんだけど、あんまり形綺麗じゃないけど、ええっと、それでもいいなら食べてほしいっていうか――あれ。びしょ濡れじゃん!」
「元気かよ」
ぶつぶつなにかを言っていたかと思えば、急に大きな声を上げる。おかしくて、喉の奥から笑いが漏れた。
「お前、ほんと面白いな」
「な、笑うな!」
「傘はちょっと旅に出ちゃってさ。帰りは手ぶらだったんだ」
「意味分かんないこと言わないでよ、ほんと六郎は嘘ばっかりなんだから。……ほら、今お風呂入れるから。拭いちゃって」
ぱたぱた走って、洗面所からタオルが投げられる。受け取って、それをまじまじと見つめてしまう。
手の中にある白い布が、やけに温かい。
言わなきゃいけないことは、たぶん沢山ある。どんなことがあったか、悠羽にも説明しないといけないだろう。
だけど、その前に。
「なあ、悠羽」
「なにー」
「ただいま」
「さっきも言ったじゃん。変なの」
すっと目を細めておかしそうに笑い、そのまま続ける。
「おかえり、六郎」
この瞬間が嘘ではないと、確かめたかった。
クズと義妹の物語は、ここで一区切りになります。
二人が幸せになるまではまだ時間がかかりますが、引き続き応援いただけると嬉しいです。
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