6話 造花のような日々を笑って
それからあったことは、おおよそありふれた、どこにでもある恋人の一幕だったのだろう。人より難解で、歪な恋路をたどってきた俺たちも、いつかは普通の恋人になっていく。
ふれあった肌の柔らかさと、溶けるように分け合った体温。まどろみに落ちていく感覚。
消えることのない夜を、ゆっくりとしまい込む。
結婚式までの数日を、俺たちはあちこちへ移動して過ごした。数年前には考えられなかった。今ではあの頃よりもずっと大人で、金銭的な余裕も、社会的な安定もある。人とは少し違うけれど、俺も社会人の一人になった。
「……夢だったみたいだな」
「夢だった、って?」
結婚式当日の朝に、ぽつりと呟いた。寝ていたと思っていたが、悠羽も起きていたらしい。布団にもぐったまま抱きついてくると、その状態でこっちを見てくる。俺の嫁は、今日も可愛い。生まれた瞬間から可愛かった彼女は、数学的帰納法によりこの先も永久に可愛いのだろう。
彼女の乱れた髪の上に手を置いて、そっと指で梳く。
「いろんなことがあったからな。でも、それも最近じゃすっかり落ち着いて……普通のやつみたいだ」
「普通のやつはアメリカで働かないですぅ~」
「ごめんって」
遠距離になっていることをしっかり刺されてしまった。お互いに納得しての行動ではあるが、それはそれとして悠羽が恨めしく思うのもわかる。もとはといえば、俺が海外に憧れたのが原因なのだ
「で、普通の人生はどう?」
悠羽が尋ねる。彼女はまだ、布団から出てきそうにない。
「できすぎた」
「ふふっ。そうだね。できすぎ」
子供のころからの負債を一気に返すように、なにもかもが順調だ。なんで俺、アメリカで営業職やれてるのか自分でもよくわからないもんな。日本に戻ってきたら、外資系企業でブイブイ言わせてやろうか。
「ねえ、六郎」
「ん」
「もしも人生がやり直せたら、またこうやって、私を選んでくれる?」
「わかってないな」
ベッドから降りて、大きくあくびを一つ。
「俺は選ぶなんて傲慢なことをしたことはない」
大切な人は気が付けばそこにいて、否応なく俺の心を陣取っていった。いつだって、屈服するように恋をしている。愛してしまったものに、俺は抗えない。
「だから何度繰り返したって、同じ道をたどるさ」
悠羽が悠羽である限り。俺が俺である限り。たどり着く場所は、どうあがいたってここしかない。
「そっか」
「そろそろ準備するぞ。遅れたら大変だ」
◇
俺のような若造が友人代表というのは、どうにも妙な気分だ。熊谷先生はベテランの教師で、結婚式には多くの教員らしき人がいた。職場での人望も厚いのだろう。若いのは剣道部の生徒たちか。揃いも揃ってごつごつした大男ばかり。さすが熊谷先生の教え子たちだ。
紗良さんの友人たちは、ぱっと見でわかる。派手でいけいけな化粧をした人たちの群れだ。絶対に熊谷先生の知り合いではない。
一番浮いているのは、間違いなく俺と悠羽だろう。
「……落ち着かないな」
「……ね」
知り合いが本当にいない。新郎新婦しか知らない。逆に珍しいタイプの参列者だろう。
大丈夫かなこれ。俺が挨拶行って、すっごい空気しらけるんじゃないだろうか。自信なんてものは最初からないが、プレッシャーが半端じゃない。
まあ、プレッシャーだけならいいか。よくあることだ。
結婚式と披露宴はどちらも同じ会場で、俺たちは両方参列する。木製の長いすに座ると、一気に現実感が押し寄せてくる。正面の十字架、ステンドグラス。すべてに焦点が合う。こんな形式的な式に出るのは、卒業式ぶりだ。
ちらっと横を見ると、悠羽は背筋を伸ばして目を大きくしていた。黒い瞳は、わかりやすく憧れで輝いている。
やがて会場は静寂に包まれ、厳かに式が始まった。
牧師さんに先導され、岩のような大男の熊谷先生が続く。いつにもまして引き締まった表情は、新郎というよりも武士のそれに近い。そのあとに入場した紗良さんは、父親と一緒だった。
――俺たちは、どうしようか。
そんなことをふと思う。
難しい問題だ。もしかすると、悠羽は内心で呼びたいと思っているかもしれない。だが、あの男が耐えられるだろうか。自分の大切な娘が、俺の嫁という事実に。胃に穴があいて倒れられたら、実に迷惑な話だ。
誰かに代役を頼むか、なしで押し通すか。
ま、その時になってから考えるか。
「きれい……」
小さくつぶやいたのは悠羽だ。紗良さんのウェディングドレス姿に見惚れている。
紗良さんは、まるで紗良さんではないみたいだった。着飾った彼女からは、小麦の匂いも賭博の匂いもしない。ドレスは人間性を漂白し、神聖さを与えている。神様も、今日ばかりは彼女を祝福しているようだ。
粛々と式は進む。
熊谷先生と紗良さんの人生の、忘れられない一ページが刻まれていく。
式が終わるころには、俺の覚悟もようやく決まっていた。
◇
披露宴になっても、俺と悠羽はずっと二人で固まっているしかなかった。仕方がない。ほかに知り合いがいないのだから。周りからのあの人たちは新郎新婦のなんなのかしら? もしかしてエキストラ? みたいに思われても仕方がない。誤解は直に解ける。
ケーキ入刀。明らかに人間の一口よりもデカい塊を、満面の笑みで熊谷先生の口に押し込む紗良さん。女王様の無茶ぶりに答える忠実な家臣みたいな構図に、参列者も笑いに包まれる。
俺は内心で、これからの熊谷先生の無事を祈った。紗良さんは暴れ馬だからな。
「そろそろだね、六郎。大丈夫そう?」
「ま、やることやってくるよ。俺は――」
悠羽が微笑む。この先は、彼女には言わなくても伝わる。
笑いの波が引いたところで、司会がプログラムを次に進める。ゲストの挨拶だ。
熊谷先生が教員をしていることに触れたうえで、生徒代表の挨拶と紹介される。前に出てマイクを受け取り、新郎新婦へ一礼。会場にも一礼。
「熊谷先生、紗良さん。この度はご結婚おめでとうございます。
スピーチという大役を任せていただき、誠に光栄です。
会場の皆さん、はじめまして。熊谷先生の教え子、三条六郎です。
熊谷先生と出会ったのは、高校二年生のときでした。当時の担当はほかの先生でしたが、臨時で授業をしてくれたことがありました。先生の解説は非常にわかりやすく、それから俺は、熊谷先生にばかり質問をするようになりました。先生は、進路についても寄り添った提案をしてくれました。誰より尊敬できる大人だと、卒業した今でも思っています。
そんな先生に、一つだけ隠していたことがあります」
俺の言葉に、紗良さんがにやりと笑った。口の動きで「悪ガキ」と言われたことがわかる。
熊谷先生はなんのことだかわからないといった顔をしている。
「先生が臨時で授業をしたクラスに――俺はいませんでした。
俺が熊谷先生を選んで質問したのは、言ってしまえばただの直観です。長い間、だましていて申し訳ありません」
視線が重なって、その先で強面の先生は柔らかく微笑んだ。そんなことは、とっくに気が付いていたとでも言うふうに。
「噓つきは泥棒のもと、という言葉があります。
それが本当なら、私は今頃、世紀の大泥棒でしょう。ですが違います。熊谷先生から教わった英語が、仕事につながりました。
あの日嘘をついたから、足りない勇気を補って踏み出したから、先生に出会えました。だから今、こうして胸を張って社会人ができています。その選択に、後悔はありません。
私は嘘が好きです。
造花が枯れないのは、嘘でできているから。
そんな嘘に、私自身も、守られてきのだと思います。
これからの二人の生活で、嘘をつかねばならないときは――
素敵な嘘を、たくさんついてください。
熊谷先生。紗良さん。
お二人の幸福が末永く続くことを、心より祈っています」
深く頭を下げて、司会にマイクを返した。
拍手の音に迎えられて、俺は悠羽の隣に戻った。
「嘘つきだね」
彼女が笑う。それに応じて、俺は頷いた。
「だろ?」
これまでも、これからも、ずっと。
◇
「やあロクロ―、日本はどうだった?」
「空気がヘルシーだったよ。それに比べてこの国は、ファストフード店のフライヤーの中にいるみたいだ」
ムキムキマッチョの黒人同僚、ダニエルと渾身のハイタッチを決める。手のひらがじんじんする威力。一切手加減をしないのが俺たちのスタイル。
ダニエルがアメリカンスマイルで俺の背中をたたく。
「さてロクロ―、チョロい仕事の時間だ。君の意見が聞きたい」
「どのくらいチョロい?」
「なに、アメリカでトップ百に入る程度の小さな会社との商談さ」
「それはずいぶんと……ミニマムな仕事だな」
やれやれと肩を落とす。この国の冗談は、ちとキツイ。