5話 個室露天風呂、二人の将来つき
途中で昼食を取ったり、小さな寄り道をして、俺たちは宿に到着した。
東京からのアクセスがいい鬼怒川温泉。ここが今回の目的地だ。
気合いを入れてそれなりの旅館を予約したので、入り口から格式高さが窺える。松の幹の伸び方一つとっても、繊細に手が加えられている気がする。
受付を済ますと、奥の部屋に通される。用意してもらったお茶と菓子に手をつけて、座布団の上で息を吐く。
ちらっと視線を外に向けて、例のあれがあることを確認。よし。ある。よしよし。
目を伏せて、深呼吸。大丈夫だ。ちゃんと事前に悠羽と話し合って取った部屋だし、悪いことをしているわけじゃない。
自信を持って、この事実を噛みしめよう。
俺は今、個室露天風呂付きの温泉にいる。今から遠い昔、あのマッチングアプリ時代に夢見た未来。エチエチお姉さんとのドキドキ旅行。あのときは床に一人で崩れ落ちたりもしたが、ついに辿り着いた。
「遠かった……」
「アメリカからだもんね。お疲れさま」
「ん。ああ、そうだな」
「どうしたの?」
「いや……別に、なんでもない」
時間的な遠さのことを振り返ってしまった。よくない兆候だ。男というのは、エロいことを考えると爆発的にIQが下がるようにできている。俺ももちろん、例外ではない。
圭次と酒を飲みながらそういう話をしているときは、二人揃って泥酔したヒヒみたいな顔をしている。一刻も早く猟友会に駆除依頼を出したほうがいい。圭次だけ。
俯いて心を落ち着けていると、悠羽が小さく首を傾げた。
「六郎、疲れてるでしょ。ちょっと休む?」
「いや、そこまで疲れてない。運転も慣れてるし、別に」
「だめ。休むの。これは決定事項です」
断言すると、そのまま悠羽は隣に移動してきて、自分の膝をぽんぽん叩く。
膝枕、とは口にせず、黙って膝を叩くあたりが彼女らしい。いじらしくて、こっちが照れてしまう。
悠羽が膝の上に置いた手を、そっと取って持ち上げる。細くしなやかな彼女の指が、優しく絡んでいく。ふれあった肌から、温もりとそれ以上のなにかが伝わってくる。ゆっくりとたぐり寄せると、彼女は微笑んでこっちに体重をかけてきた。預けられた体に手を回して、そっと抱きしめる。
この世界に二人しかいないみたいに、静かな抱擁だった。
俺の胸に顔を埋める、悠羽の頭をそっと撫でる。滑らかで、手入れの行き届いた髪に触れると、花が開いたように甘い香りがする。
どんな言葉なら、この想いを乗せるに足るだろう。そんな言葉がないことは、とうの昔に知っている。どれだけ嘘を重ねても、あるいは真実を重ねても、尽くせぬ物があることを、悠羽が教えてくれた。
だから俺は、ここに帰ってくるのだ。
「悠羽。愛してるぞ」
「私も、六郎のこと愛してる」
胸が内側から締め付けられる心地がする。大きな声で笑いたいような、あるいは泣き出してしまいたような。わからなくて、今日も結局俺は、曖昧な笑みで悠羽を見つめる。
視線を重ねて、彼女がまぶたを閉じる。唇を重ねて、それからもう一度抱きしめた。
夕飯の時間まで、俺たちはゆっくりとした時間を過ごした。
◇
山の幸をふんだんに使った夕食が済んで、布団も敷いてもらうと、しばらくのあいだは部屋でのんびりしていた。テレビをぼんやり眺めて、お茶をちびちび飲む。
ここにきて俺は、温泉付きの部屋にしたことを後悔していた。なんて言えばいいんだ、これ……。普通に男女別になってる温泉に入りに行こうか。それはだめだ。
悠羽は今年の誕生日で、二十歳になった。おまけに俺たちは、付き合ってるとかじゃなくて結婚してる。そんな状態で、この部屋を取った。それで逃げるのは――クズ。クズというか屑。漢字で書くレベルの深刻さだ。
風呂に入るだけとは思えない覚悟を決め、のっそりと立ち上がる。それとほとんど同じタイミングで、悠羽も腰を上げた。
目が合って、途端に気まずい空気が流れる。
「ど、どうしたの六郎?」
「風呂に入ろうと思ったんだが……」
「あ、そう。奇遇だね。私もそろそろ入りたいなって思ってたんだけど」
「入るか? 一緒に」
悠羽はさっと目をそらすと、頬を赤くして小さく頷いた。
そこからはもう、お互いに不出来なロボットみたいな動きしかできなかった。浴衣と替えの下着を取るときにぶつかったり、脱衣所で悠羽が視界に入らないようにしたり。
ネットにポルノが氾濫するこの時代に、どうしててこんなことで緊張してるんだ。昔から一緒に暮らしていて、通常よりもずっと強い意味で、妹のような存在だったというのに。
邪念を抱えたまま、風呂場に入って勢いよく体を洗う。隣に座って、体を洗い始めた悠羽が呟く。
「私たちって、一緒にお風呂とか入ってたっけ?」
「少なくとも、俺の記憶にはないな」
シャンプーが目に入らないように、目を閉じて頭を洗う。真っ暗がやけに落ち着く。
隣から響く水の音が、やけにリアルだ。
「……もっと、一緒に入ったりしとけばよかったのかな」
「なんだそれ」
シャワーで泡を落とす。鏡に映る自分は、さっきよりはマシな顔をしている気がした。
「だ、だって、そうすればこんなに緊張しなかったかも……って」
「緊張しなかったら、ただの兄弟だったと思うから。これでよかったんじゃないか」
「そっか。そうだよね。っていうか、六郎も緊張するんだね」
「するだろ。俺のメンタル、そんなに強くないから」
「営業なのに?」
「営業のことをなんだと思ってるんだよ」
俺たちだって人間だ。取引先がでかいとトイレに籠もりたくなるし、ミスが怖くて逃げ出したくもなる。もっとも、同期のアメリカ人たちはこんなシチュエーション、いくらでも経験済みだろうが。
体を洗って、タオルを頭に乗せる。内風呂に肩まで浸かって、ゆっくりと息を吐く。透明で柔らかい湯は、よく肌に馴染んだ。
少しして、悠羽が左隣に入ってくる。曖昧な距離を埋めるように、俺は左手を二人のあいだに置く。察した悠羽が、手を重ねる。ゆっくりと彼女の方を見ると、赤くなった悠羽がこっちを見つめていた。
どうやら彼女は、少し前からこっちを見ていたらしい。
「やっと見てくれた」
濡れた髪は後ろにまとめて、悠羽は恥ずかしそうに目を伏せる。だが、すぐに顔を上げて、満面の笑みを作り直した。
美しい曲線を描く肩と、柔らかそうな白肌。細くしなやかな鎖骨のラインと、その下にある二つの膨らみ。大人になった彼女の体を視界に収めて、そっと呟いた。
「綺麗だよ。お前が一番綺麗だ」
「えへへ。……ありがと」
ふにゃりと笑って、水の中に口元を隠す悠羽。
あまりの破壊力にくらっと来て、次の瞬間、温泉に顔面から突っ込んだ。
「六郎!?」
水の中で心を整え、顔を上げて大きく深呼吸。
「露天風呂行くか」
それから俺たちは、のんびりと話をした。
二人の将来のこと。どんな家族になるか。子供は欲しいか。
いい子供になれなかった俺が、いい親になれるだろうか。
そんな不安を、笑って否定してくれる女性がいる。その人とともに歩けることが、どれほど幸福なことか。
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