2話 勇気の在処
お酒は甘いのしか飲めない。コーヒーの良さも、結局よくわからないまま。二十歳になっても、悠羽は依然として大人になった実感がなかった。
それでも、仕事は徐々に身についてきた。高校を卒業してから、女蛇村の町おこしに奮闘すること一年。SNSの運用をはじめとする広報を任されるようになり、その点に関しては以前よりも進んだ気はする。
総合すると、大人もどき。かつて六郎が自分を称していた言葉が、やけにしっくりくる。
氷の浮かんだグラスを傾けて、正面に座った加苅美凉が口を開いた。
「悠羽っちは明日からいないんだっけ」
「はい。来週には戻ってきます」
美凉もこの春に社会人となり、宣言した会社の設立に向けて奔走している。連日の激務で倒れそうなはずだが、そこは彼女のバイタリティ。どんなに忙しいときでも、持ち前の明るさが消えることはない。
「うわぁー、いいねえ結婚式。夢が広がるねえ。私もそろそろ利一さんと挙げたいなぁ」
わざとらしい大きな声で、カウンターの向こうを眺める美凉。受け止めるのは、人の良さそうな苦笑い。茶髪の利一が肩をすくめて悠羽を見る。
「まだ僕ら、プロポーズも終わってないんだけどね」
「利一さんと結婚する!」
高らかに宣言する美凉に、利一はまんざらでもなさそうな苦笑い。
「こんな調子で、話にならなくてさ」
運ばれてきたピザは、最近になって一層美味しくなった気がする。小麦を変えたのか、焼き方を工夫したのか、とにかくレベルアップしたことは間違いない。女蛇村という田舎にありながらも、常に一定の客数を確保している。
カウンターの向こうに戻った利一は、手際よく仕事を進めていく。その姿を見つめる美凉は、憧れを追いかける少女の頃と変わらない。しばし堪能してから、美凉は視線を戻した。
「ロクくんは最近どう?」
「相変わらずです。仕事ばっかりしてるみたいで」
「仕事好きだもんねー。生きるためとか言ってたけど、あれは絶対に仕事が好きなだけだよ。じゃなきゃあんなに朝から晩まで働けないもん」
女蛇村に初めて訪れた頃から、その働きぶりは目立っていた。朝にゲストハウスの清掃をして、車で老人の通院を手伝って、畑仕事をして、ゲストハウスのチェックインをして、夜にはパソコンを弄っていた。
冷静に考えるほど、その体力は化物染みている。
美凉が思うに、三条六郎の強みは頭脳や会話術ではなく、あの並外れた体力にこそある。
「悠羽っちはあの質問したことある?」
「あの質問、とは」
「『仕事と私、どっちが大事なんだー』ってやつ」
「ないですよ。だってそんなこと聞いても、六郎は適当なことしか言わないですから」
「それもそっか」
美凉はけろっと笑って、ピザを一口。満足そうに目を細める。
あの嘘つきがたった一つだけ抱えていた本当のこと。それは悠羽のことを大切に想っていること。どんな場面を振り返っても、そこが矛盾することはなかった。痛いくらい切実に、痛みすらも踏み越えて、二人は手を取り合った。
今さらそれを、疑うことはない。
「ロクくんによろしくね」
「はい。伝えておきます」
◇
汗だくのスーツ姿で入ってきた男に対して、俺はラフな姿。片手を挙げ、なるべく爽やかに挨拶する。
「よう圭次! 久しぶりだな」
「その声は我が友サブ」
「俺は虎になってねえよ」
一瞬で瓦解する爽やか。我ながら単調な声でツッコんでしまった。
圭次はバッグを落とすように置くと、掘りごたつに腰を下ろした。チェーン店の居酒屋の個室で、一年と少しぶりに顔を突き合わせる。
「どっせい。あー疲れた疲れた。やっぱ会社員ってのは過酷だぜえ」
ぜんっぜん変わんねえなこいつ。もう帰ろうかな。
「久しぶりだなサブ。ちょっと見ない間に……なんも変わってねえな」
「お互い様だろ」
男同士でじっと顔を見つめ合って、ほとんど同時に顔をしかめる。なにが悲しくて、こんなカス人間の顔を見つめなきゃならんのだ。
タッチパネルを取って、適当にパネルを押す。
「で、奈子さんとはいつ別れたんだ?」
「別れてねえよ!?」
「早く現実を受け容れた方がいいぞ。あんな美人とお前が、そんな長い間付き合えるわけないだろ」
「いやいや、明日だってデートするし。そういうサブこそ、遠距離で悠羽ちゃんに愛想尽かされてるんだろう。そうに決まっている!」
「残念ながら俺たちはアツアツだ」
「アツアツとか自分で言うなよキショいなー!」
「お前と奈子さんは?」
「激アツ!」
運ばれてきたビールを持ち上げ、乾杯。一気に呷る。
「「ぷはーっ」」
ジョッキを置いて目の前の悪友に苦笑い。非常に残念ながら、俺の親友はこいつにしか務まらない。くだらない人間としか交わせない言葉がある。
「社会はどうだい、圭次くんよ」
「まあ聞けサブ太郎。死ぬほど嫌。さっさとFIREするか奈子ちゃんに養われたい」
「別れ話が現実味を帯びてきたな」
ヒモ宣言を許してくれるほど、甘い人じゃなかったはずだ。それは圭次もよくわかっているらしく、がっくりと頷く。
「だよなぁ……」
それから焦点の合わない瞳を俺に向けると、唇を尖らせる。
「サブは――いいや黙れ。聞きたくない」
「営業のエース候補」
「ぎゃあああっ!」
身をよじって絶命する圭次。
「なんでっ、お前はっ、アメリカで通用しちゃってんだよ!」
「ビッグになってこいって言われたからな」
「はええんだよ! もっと時間を掛けろ! 苦労しろ!」
「注文の多いやつめ」
やれやれとため息交じりに返せば、圭次は指先で酒を追加する。
「ったく、サブは変なところで律儀なんだよ」
「性格が良いからな」
「ハゲろクズめ」
そのクズと長年親友をやってるのは、どこのどいつなんだか。笑ってしまう口元をジョッキで隠す。
俺が教室で疎まれていたことを気にも留めず、家庭環境について明かさずとも力を貸し、悠羽と血縁関係がないことも簡単に受け容れた。これほどお人好しなやつもそういない。
ありがとな。とか、これからもよろしく。みたいなことは言わない。
言っちゃいけないのが、俺たちの暗黙の了解だ。
◆
客としてその店を訪れるのは、思えば初めてのことだった。
カランコロンと可愛らしく鳴るベル。ふんわりとした甘やかな小麦の匂い。奥から出てくる三つ編みで眼鏡の女性に、悠羽は丁寧にお辞儀をした。
「お久しぶりです。紗良さん」
「あら。悠羽ちゃんじゃない」
一年ぶりの再会に、二人はひしと抱き合って顔を見合わせる。
「ご結婚おめでとうございます」
「ありがと。なんだか変な気分ね」
クスリと笑って、紗良は悠羽の後ろに目を移す。
「サブローくんは一緒じゃないのかしら」
「今はホテルで仕事中みたいです。私もまだ会ってなくて」
「ふうん。重忠さんとは昨日会ったらしいのに、私は後回しなのねぇ」
口元を邪悪に歪める紗良の横で、悠羽は首を傾げる。
「重忠……あっ、熊谷先生のことですか」
クマというのが印象に残りすぎて、下の名前に反応が遅れた。悠羽は思い出しながら続ける。
「重いに忠義の忠って、いかにも熊谷先生ですよね」
「名は体を表すとは言うけれど、ねえ」
目を細めるその姿には、確かに人を愛おしむ温もりがあった。悠羽の中で二人の結婚が、確かな実感を帯びる。
「悠羽ちゃんは最近どう? 元気にやってる?」
「はい。充実してます」
「そう。それはなによりね」
「紗良さんのおかげです。紗良さんが気がつかせてくれたから、私は自分も頑張ろうって思えたんです」
「選んだのはあなたよ」
首を左右に振った紗良は、思い出すように視線を持ち上げる。
悠羽が日本に残ると言ったとき、紗良は少なからず罪悪感を抱いた。意図せずとも、結果として六郎と引き裂いてしまったような気がして。
アメリカに行く前、六郎は一人でサラブレッドを訪れた。悠羽の背中を押したのが、紗良だと勘づいたのだろう。そしておそらくは、紗良が罪悪感を抱いていることまで見透かして。
六郎はなにも聞かなかった。ただ 簡潔に、
「悠羽はいつも、俺に勇気をくれるんです」
それからあの、人を騙すような笑みで告げた。
「ありがとうございます」
紗良はなにも言えなかった。
悠羽を信じ抜く六郎の姿に、息が詰まった。嘘だらけで口の悪い青年の中に、なにより美しいものを見た気がしたから。
だから、今ここにいる悠羽に伝える。
「勇気をもらったのは、私のほうよ」