1話 愚者の証明
――これは彼らが、前に進む決意をしたその先の物語
書籍化記念の番外編です
応援してくれた皆様へ、
この先も着いてきてくれるファンの方々へ、
最大級の感謝を込めて、もう少しだけ続きを綴ります
ジンライムの喉を貫く香りが好きだ。アメリカの脂っこい料理は味がくどくて、味覚を思いっきりリセットしたくなる。
「ロクロー、また商談を成立させたらしいじゃないか」
右隣に座った同僚のダニエルが、流し目で笑いかけてくる。ムキムキの黒人で気前が良く、仕事が一段落つくとこうして飲みに誘ってくれる。圭次とかいうカスを忘れたくなるほど、いい友人だ。
グラスを顔の高さまで持ち上げて、顔の半分だけで笑う。
「チョロいもんさ」
ダニーは深々と頷き、背中を叩いてきた。
「ああそうさ。チョロいもんだ。たくさんの準備と、たくさんの勉強と、土壇場での度胸があれば俺たちの仕事はすごくチョロい。だろう?」
「違いない」
お互いのグラスを合わせて、音を鳴らす。残ったジンライムを飲み干して、別のカクテルを注文する。なんかノリで頼んだから、どんなやつが来るかはわからん。
「皆気にしてるんだぜ。君がそのチョロい仕事を、どんなふうにやっているのか」
「企業秘密」
「同じ会社だろう?」
こんな軽い冗談だって、英語で交わせるようになった。やはり現地での経験は、面白いほどに人を成長させる。これまでちまちま成績を伸ばしていたのが嘘みたいだ。
「癖なんだ。相手がなにを考えているのか、今どんな気持ちなのかを考えるのが」
「へえ。そいつはすごいじゃないか。ちなみに、今俺が考えていることはわかるかい?」
「帰ってから、愛しのハニーとどうやって仲直りしようか――だろ?」
「やめてくれ! それを忘れるためにアルコールを頼ってるんだ」
大げさなリアクションで首を振るダニーに、こちらもつい笑ってしまう。喧嘩してるんだから早く帰れと思うが、そういうものでもないらしい。
やれやれと首を振ってから、ダニーは苦笑いでこっちを見る。
「ロクローはなにを考えてるんだ?」
「俺も同じさ。愛しの嫁さんを、どうやって笑わせようか考えてる」
カクテルを呷る。
この酒はやけに甘い。
◇
通話が繋がってから、一言目を発するまでの僅かな沈黙が好きだ。
どんなふうに切り出そうか、どんなふうに切り出してくるか。声が聞こえることの喜びと、声を伝えることの緊張と。そういったものが凝縮されたこの時間が、好きだ。
「お疲れ、悠羽」
「お疲れさま、六郎」
太平洋の向こう側。こちらはもう深夜だが、あっちは日が昇っている時間だ。
アメリカと日本。走ったって届かない距離で、俺たちはお互いの夢を追いかけている。
俺のは夢なんて大層なものじゃないかもしれない。ただ、自分がなにになれるかを知りたい。どこまで通用するかを確かめたい。その一心で、彼女を置いてここにいる。
安堵と、愛しさと、寂しさが浮かんできて、それらをぼかすように言葉を続ける。
「熊谷先生の話、もう届いたか?」
「紗良さんからね。六郎は戻ってこれそう?」
「会社潰してでも帰るよ」
「それはやめて」
物騒な冗談に、軽やかな笑い声が帰ってくる。
恩師の結婚報告があったのは、つい先日のことだ。久しぶりにメールが来たと思ったら、まさかの結婚。あの熊谷先生が、結婚。テンション上がりすぎてスマホをベッドにぶん投げた。
その結婚式に、出ないはずがない。その日のうちに社長に頭を下げて、休暇を勝ち取っている。
「結婚かぁ……」
感慨深い声で、悠羽が呟く。
「なに噛みしめてるんだよ。もうしてるだろ」
「そうだけど! でも、知ってる人同士だとドキドキするじゃん」
「ま、それはそうだな」
「圭次さんと奈子さんが結婚したら、六郎もドキドキするでしょ」
「イライラする」
俺がアメリカに行ってからも、やつらは順調に交際を続けているらしい。奈子さんが卒業するまであと二年。頼む。それまでにはなんとか別れてくれ。俺の親友には不幸が似合う。幸せは俺だけでいい。あいつも絶対にそう思ってる。
「まったく。素直じゃないんだから」
なんのことかわからないので、黙って流す。やれやれと悠羽が首を振る気配。
しばしの沈黙。電波の向こうで、何度か躊躇いの音がした。だから俺は黙って待つ。やがて、息を吸う音。次いで言葉が入ってくる。
「六郎はさ……、結婚式したい?」
「したいぞ」
「したいの!?」
「めちゃくちゃ華やかなやつ」
「めちゃくちゃ華やかにしたいの!? え、嘘?」
「ガチ」
「……」
「俺もちょっと前までは、式とかいいやって思ってたんだけどな」
「なにがあったの?」
「ウェディングドレスを着た悠羽が見たい」
今度の沈黙は長かった。
電話越しでもわかる。長年の経験から、あいつが今どんな顔をしているか。耳まで真っ赤にして、手をバタバタさせているに違いない。
「ばっ、ばか! そんなの別に、写真撮るだけでいいしっ! きゅ、急にはっきり言ってくるのほんとズルい! 嘘つきのくせに!」
「嘘じゃないぞ」
「よかった! じゃなくて、もう!」
「絶対挙げような」
「……うん。絶対ね」
くすぐったくて俺は笑った。海の向こうで、悠羽も笑った。
◇
――お前の努力は、なにひとつ無駄じゃない。いつか必ず、力になる時がくる。
その言葉に、どれだけ縋ってきたことだろう。前に進む意思が消えそうな夜に、それでも残った光は恩師の言葉だった。
無駄にしたくない。無駄にしてたまるか。
俺がこれまで培ってきたものを。こんな俺を、大切にしてくれた人がいたことを。
無駄にしないために、ただ、前へ。
勉強をしてきた。自分にあった勉強法を探して、どんな場面でも応用できるように。だから、仕事のことを覚えるのは簡単だった。
嘘をついてきた。会話を自分の理想通りに運ぶ習慣は、そのまま営業での武器になった。
人の顔色を伺ってきた。だから交渉の場で、相手が求めているもの、興味を示したタイミングを見逃さない。
なにもかもが、今の俺を形作っている。
「このままいけば、今年の営業成績一位は俺です」
「……とんでもない生徒を持ったな」
「熊谷先生のご指導のおかげです」
「そこまで指導した覚えはない」
腕組みをして、ゆっくりと首を振られてしまった。
結婚式の一週間前。長めの休みをもらって、俺は日本に戻ってきた。
最初に会ったのが、熊谷先生というわけだ。車に乗せてもらって、ゆっくりできるレストランで向かい合っている。
「しかし、入社二年目で十日も休みをとれるものなんだな」
「だいぶ頭下げてきました。オンラインでちょっと仕事するってことで、なんとか」
抱えていた案件を片付けたり、ちゃんと引き継いだり、しばらく俺がいなくても大丈夫にするのは骨が折れた。今の時代はどこでも仕事ができるので、休みといったって仕事はできてしまう。フリーター時代を思い出すね。
「三条はもう、俺より英語が上手いんだろうな」
「そうだと思います」
自信を持って頷いた。頷けるように努力してきたから。
「でも、教えるのは熊谷先生の方が上手いですよ」
苦笑いのような、もっと純粋な喜びのような、熊谷先生はそんな笑い方をする。そんな笑い方をできる大人だから、誰より信頼できる。
この人が照らしてくれた道が、共に歩んでくれた時間が、正しかったと証明したい。
それがきっと、生徒が教師にできる一番の恩返しだ。
「――で、どうやってプロポーズしたんですか?」
「んぐっ」
急な方向転換に、熊谷先生は喉を詰まらせる。水を飲んでいたわけでもないのに、むせてしまうあたり、よっぽど効いたらしい。しばらく会わないうちに、俺がどんな生徒か忘れたのか。どうしても耐性がつかないだけか。
「まさか、紗良さんからってことはないですよね」
「ああ……だが、言うわけがないだろう」
「熊谷先生のことですから、直球勝負だったと思うんですけどね」
「……」
思いっきり目を逸らされた。どうやら図星だったらしい。
食後のコーヒーで口を湿らせて、ほっと息を吐く。
「意外かもしれないですけど、俺もそういうときはシンプルなんですよ」
「そうなのか。……いや、そうなんだろうな」
いつもは捻くれたことばかり言っているけれど、本当に伝えたいこと、伝えなくてはならないことは濁さない。
真っ直ぐな言葉の価値を、俺は知っている。
そういう人たちとの出会いもあったから、俺はここにいる。
プロポーズの話は、このへんで終わりにしよう。あんまり恩師で遊ぶもんじゃない。
「改めて、おめでとうございます」
「ありがとう」
熊谷先生はほっとしたように、ぎこちなく笑った。