326話 嘘つきと家族の物語
三条六郎が日本を発ってから、五年が経った。
四月一日の東京。羽田空港で彼女は一人座っている。展望デッキで春の風を受け、スマホを眺めることもなく。
肩のところで切りそろえた上品な茶髪と、純粋さの残る瞳。年の割に幼げだが、それでも昔に比べれば雰囲気そのものが引き締まっている。薄いベージュのコートを着て、時折左手に視線を落とす。薬指のあたりをそっと触るのは、そこにある指輪の感触を確かめるためだった。
三条悠羽は今も変わらず三条悠羽だが、その意味は少しばかり異なる。
かつて兄妹と書いていた続柄も、今では夫婦だ。
その響きに――まだ慣れない。
メッセージは毎日。電話は週に二度。帰って来るのは半年に一回。
婚姻届を出して、指輪を買って、二人で旅行に行って、熊谷先生の結婚式に出て、そしてまた、六郎はアメリカへ戻っていった。
帰って来るのが決まったのは、年明けのことだ。向こうでの仕事を辞めて、また日本で生活するらしい。理由について聞けば、本気か冗談か「和食が食いたい……」との返答があった。
それから3ヶ月、悠羽はずっと胸を躍らせてきた。
不思議なことに、この恋は静まることを知らない。いつまでも初恋は初恋のまま、色褪せずここにある。
「――あ」
見上げた空に、飛行機のシルエットが見えた。
立ち上がって柵まで走って行く。轟音と共に滑走路を抜ける巨体。窓はあまりに小さくて、どこに彼が座っているかわからない。
いてもたってもいられなくて、悠羽は走り出す。
◇
着陸のアナウンスで目を覚ましてから、ぼんやりとスマホを取り出した。
ロック画面は圭次と並んで立っている写真。夕陽で俺たちの顔は見えず、それがいい味を出している。
パスワードを打ち込んでホーム画面には、見るも優雅な十二単を身に纏った悠羽の写真。加苅の会社で仕事をしているときに、着る機会があったらしい。その場に居合わせられなかったことは今でも悔しいが、それはそれとしてグッジョブだ。写真をもらってから一年、ホーム画面の絶対王者として君臨している。
そこから画像フォルダにうつって、適当にスクロールして眺めていく。
まさか俺が、こんなに大量の写真を撮る日が来るとは。昔はなにかを残すのが嫌いで、写真に写ることすら避けていたのに。
アメリカで出会った多国籍な友人たちとの写真に加え、悠羽や圭次たちの姿すら今では撮ってしまう。年老いて丸くなったのかね、なんて思うがまだ俺は26だ。そんな理由じゃないことは、自分が一番よくわかっている。
記憶に焼き付ければ写真はいらない。確かにそれはそうだ。俺も昔はそう思っていた。
だけど、悠羽がくれた手紙で変わった。
旅立ちの日に渡された手紙には、たくさんの写真が同封されていた。
幼い頃から、あの日に至るまで。二人で映ったものを丁寧に過去から並べていって、最後に手紙が添えられていた。
『六郎へ
ずっと一緒にいてくれてありがとう。
これから先もずっと一緒にいようね。
悠羽より』
彼女が生まれたその日から、俺たちはずっと共に歩いてきた。時間と共に薄れてしまうものを。幼すぎて覚えていられなかった記憶を。そしていつか、俺たちのことを誰かに知ってもらいたくなったとき。
写真がそこにあれば、より鮮明になる。
飛行機が高度を落とす。窓の外に空港が見える。展望デッキのどこかに、悠羽がいるのだろうか。柵の向こうはよく見えない。見えないけれど、いるとわかる。わかるだけで心臓が駆け足で脈を打つ。
ぐっと堪えてアナウンスに従い、人の列に混ざって飛行機から出る。空港内はもう完全に日本の匂いで、何度繰り返しても懐かしい。
荷物を受け取ってロビーに出る。早足になるのを止められない。両手いっぱいの荷物くらいじゃ、ペースを落とすには足りないから。
一直線に、彼女の下へ。
「悠羽」
「六郎」
名前を呼んだ。荷物から手を離す。駆け寄る足を止めないで、彼女の細い体を抱きしめる。何年経っても色褪せない。どれだけ遠くにいたって、この胸の中心には同じ人がいる。
「おかえりなさい」
腕の中で悠羽が言う。小さなその声は涙で濡れている。
「ただいま」
ゆっくりと背中を叩いて、泣き止むのを待つ。いつまでだって待つ。
頃合いを見てそっと離れて、彼女の手を取る。小さく繊細なその手を右手で包んで、その場に膝をつく。見上げる形になって、わざとらしく微笑んでみせる。
「俺と結婚してくれ」
「ふふっ。もうしてるじゃん」
するりと俺の手から抜け出して、左手に輝く指輪を示す悠羽。それはもちろん、俺の手にもある証だ。
立ち上がって膝の埃を払い、そうだったと頷く。
「あんまりにも魅力的だったもんで、ついプロポーズしたくなっちまった」
「またそんなこと言って。そのくらいで私が喜ぶと思ったら大間違いなんだからね」
「のわりにいい笑顔だな」
「うぐっ」
「ちょろい」
「ちょろい言うな」
「easy」
「英語禁止!」
「俺の五年間が……」
こんなやり取りも何年目だろうか。俺たちは笑って、荷物を持って歩きだす。
小さいのは悠羽が持ってくれて、空いた手を繋ぐ。
「ねえ六郎。今日がなんの日か知ってる?」
「さてな。四月一日になにかあった覚えはないが」
「エイプリルフール。嘘つきの日でしょ」
「俺にとっちゃ平日だ。こんな日はむしろ、本当のことしか言いたくないね」
「言ってみて」
「今日も俺の嫁が可愛い。年々可愛くなってる気がする」
「ちょっ、そういうこと急に言うのやめてよね!」
「頼まれたから言っただけだ。ほら、次は悠羽の番だ。なんか言え」
「無茶ぶりじゃん……。六郎も、前より格好いい……気がする」
俺が黙っていると、悠羽は顔を赤くして手を引っ張ってくる。
「なんか言ってよ!」
「嬉しい」
「そういうのじゃなくて、もっとこう、恥ずかしくなくなること!」
「また難しいことを」
少し考えて、それから俺はいつものように、軽薄な笑みを浮かべる。
なんたって俺は、世界で一番の嘘つきだからな。
「たぶん騙されてるぜ、お前」
◇◆
「ねえねえ、パパはどうしてママとケッコンしたの?」
「あー、おねーちゃんだけずるい! ぼくもきく!」
てってってと小さな足音を伴って、双子の足音が両脇で止まる。
「ちょっと……パパ汗で臭いから。お風呂入ってからじゃだめか?」
「「だめー!」」
ちらっと視線で助けを求めるが、マイハニーは皿洗いをしながらウィンクするだけだ。「そっちで子供を預かっといて」の顔である。
「じゃあ、着替えたらな。七海も翼も、それまで待っててくれ」
「「はーい!」」
声がピッタリ揃う。このあたりはさすが双子だ。
寝室で着替えて、スプレーで匂いを消してリビングに戻る。と同時に、二人の小さな怪獣が突進してきた。両腕で受け止めて抱きしめる。
「二人とも六郎が大好きみたい」
「ほんと、誰に似たんだかな」
濡れた手をタオルで拭いて、悠羽が歩いてくる。子供たちを後ろから抱きしめて、俺と二人で囲い込む。
「ケッコンだー!」
意味も分かっていないだろうに、七海が嬉しそうにきゃっきゃと叫ぶ。翼は瞬きをしながら、「ちゅーする?」と興味津々。我が子ながら、下世話に育ちすぎである。親にそういうのを求めるんじゃないよ。
さてさて、それじゃあどうやってこの子たちに説明しようかね。
まさか悠羽が義理の妹だったなんて言えるはずもない。子供には刺激が強すぎるからな。
ま、そこは上手い具合に嘘でもつくかね。
この子たちの人生を彩るに足る、愛に満ちた嘘を。
完結!
最後まで読んでくれてありがとう。
それでは、またどこかでお会いしましょう。