130話 女心とハプニング
その後もしばらく外を歩いて、部屋に戻る頃には悠羽はくたくただった。
朝からの移動と、一日中はしゃいでいたこと。満足な食事に、腹ごなしの散歩。眠たくなる要素は十分に揃っていた。
「……知ってた。知ってたさ」
彼女が眠った後の部屋で、布団から抜け出して窓辺の椅子に腰を下ろした。深々とため息をついて、右手で顔を押さえる。
なんとなくこうなる気はしていた。俺と圭次は似たもの同士。きっとこうやって、焦らされ続ける星の下に生まれてきたのだろう。だいたい、人の不幸を願っておいて自分たちだけさっさと幸せゴールインしようなんて甘いにもほどがある。
要するにこれは、日頃の行いによる結果。罰なのだ。そう思わないとやっていられなかった。
電気を落とした室内と、静まりきった深夜の温泉街。聞こえるのは、悠羽の安らかな寝息だけ。
上等な椅子だから、深く座るとそのまま眠ってしまいたくなる。
首の力を抜いて、ぐったりと天井を眺める。もちろん暗くてなにも見えないし、見えたところでなにもない。
暗い部屋。眠る悠羽。起きている俺。
これはもしかして、めちゃくちゃエロいことするチャンスなのでは?
ふっと浮き上がってきた考えは、ずいぶん久しぶりにクズらしい。小さく笑って、願望だけにとどめておく。
クリスマスに、俺は悠羽のことを妹のようにも想っていると言った。
けれどこの一年で、俺は徐々に彼女を妹ではない存在だと思うようになった。今残っているのは、消せない最後の一粒みたいなもの。
一方で、悠羽は俺が兄であることを認めるようになった。
同じ場所にいて、同じ景色に見てきたはずなのに。すれ違うようにお互いのことを想い、すれ違ったから側にいる。
妹だと思うことをやめた俺と、兄だと思うようになった彼女と。
「兄貴、か……」
圭次だったら「背徳感気持ちよすぎだろ!」とか言い出すんだろうが、俺としちゃ若干複雑だ。あまりにも悠羽は一緒にいたから、感覚的には実妹に近いのだろう。もちろん血は繋がっておらず、法的な問題はない。
だが、妹として彼女を見たとき、そこに義理の壁は感じない。
ええと……だから、まあ、別になにか結論を求めているわけではないのだ。
かくっと頭が揺れた。
ねみぃな。ねるか。
布団に倒れ込んで、俺もそのまま意識を放り投げた。
◇
意識が覚醒してすぐ、それがまだ早い時間であることを悟った。
部屋を満たす光の色が、淡い青。朝6時前の日光は、そういう色をしている。
枕の感触がいつもとは違って、旅行に来ているのだと思い出す。
ぼやけていた視界の焦点が徐々に合っていく。あくびで出た涙が乾燥した目を潤し、それでようやく思考が回り始める。
どうも俺は、家以外だと眠りが浅くなるらしい。
ごろんと半回転して、隣で眠っている悠羽に体を向ける。染みついた寝相か、彼女は俺の方に手を伸ばしながら眠っている。そっと手を伸ばして、髪を持ち上げる。頬と耳に触れて、耳たぶを親指で揉む。下心? そんなものはない。今の俺はたぶん、座禅を極めたときくらい凪いだ表情をしている。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに……耳たぶだから許される。おまわりさんもきっと見逃してくれるに違いない。
無心で揉み続けていると、やがて悠羽の目蓋がぴくりと動いた。
さっと手を引っ込めて、何事もなかったように眺めるだけの体勢を取る。あんまりやりすぎると怒られるからな。
少女はもぞもぞ動くと、ふにゃふにゃした動きで抱きついてくる。寝ぼけているのだ。
無言でしばらく抱き合っていると、腕の中で悠羽が、
「おはよ」
と呟く。
「おはよう」
そう返して、体を起こす。
起きて間もない悠羽は、布団に手をついてゆったりと体を起こした。目も開ききっていないし、ずいぶん眠たげだ。
布団の中で動いたせいか、浴衣の帯がほどけている。直さないまま、起き上がる動作に合わせて肩から浴衣が落ちていく。
「んー」
ぺたんと座る。その動作に合わせて、すとんと脱げた。
滑らかな肌。ほっそりした鎖骨と、首筋のライン。可愛らしいへそと、脇腹の曲線。
なにより目を引く、胸の膨らみ。
そして俺は――瞬きをやめた。
「…………」
「…………」
一秒か、あるいは永遠か。
ばっと悠羽が手で体を隠して、永遠ではなかったことを知る。
「ば、ば、ばばばば、ばかっ!」
震える声、赤い顔、涙目で叫ぶ悠羽。だが、なにも頭に入ってこない。状況は理解できるが、脳のほとんどが他のことに集中しているせいだ。
「ヘンタイ! スケベ! 六郎のエッチ!」
どうしてだろう。今はその罵声すらも心地よく感じる。
前にエッチと言われたときは、言いがかりだったからか。今は言われて正当な理由がある。十分なリターンも得た。
「そうだ。俺はヘンタイだ。めちゃくちゃエロいし、スケベと言われて然るべき人間だ」
実際はたぶんそんなことない。同い年の男に比べたら、10分の1くらいなもんだろう。だが、ここで必要なのは弁明ではなく強行突破だ。
「忘れて! 今すぐ忘れて!」
「無理だ。俺は記憶力がいいからな」
英語を一つ残らず忘れる代償に、さっきの光景を焼き付けた。ごめん熊谷先生。アルファベットから教えてください。
「うぅ……もうやだ、お嫁さんに行けない」
「いや、いやいやいや。行かれたら困るって」
頭を抱えた悠羽にツッコむと、上目遣いを向けられた。涙で濡れた瞳が、あり得ないくらいエロい。すごい。俺の知能がバカ下がってる。
「どうして?」
「だってお前は、俺が貰うんだから」
咄嗟に出た言葉は、とんでもないことのような気がしたけれど。心臓がバクバクなっていて、全身が熱くて、呼吸が浅くなる。要するになにも考えられない。
とろんとした目が、真っ直ぐに俺を捉える。
「六郎が、貰ってくれるの?」
「あ、ああ……そりゃそうだろ」
あれ。
俺なんか、勢いでとんでもないこと言ってないか。
すっと脳の奥が冷えて、圧迫されていた思考回路が息を吹き返す。
これはあれだな。普通にプロポーズしちまったな。
つっと冷たい汗が背筋を伝うが、悠羽は枕を抱きしめて赤い顔を隠して言う。
「そ、それなら……許してあげる」
「いい、のか」
なにから考えればいいかわからない。とりあえず今は、許されたことに安堵すべきだろうか。
え、っていうか。
「結婚すれば見放題?」
「調子に! 乗るなッ!」
「ぐはっ」
思いっきり枕を投げられた。顔面にクリーンヒット。いいピッチャーになるよ、お前。
布団に倒れて見上げる天井は、やっぱりなにもなかった。
◇
「悠羽さーん、そろそろ許してくれてもいいんじゃないっすか」
「ふんっ」
帰りの電車を降りてなお、悠羽の機嫌は完治せず。これはまたずいぶんと面倒な事態になってしまったなと首を振る。
やっぱり見放題はよくなかったかと反省はしつつ、被害者づらをしておくことにした。
「はぁ……。元はと言えば、お前が勝手に脱いだんだろうが」
「脱いでないし! 脱げただけだし!」
「俺目線じゃ変わらん」
「ガン見してた」
「武士たるもの、そこにある現実から目を逸らすわけにはいかない」
「武士はそんなこと言わない!」
「じゃあなんて言えばいいんだよ」
「なにも、言ってほしく、ないの!」
「わかった。もうなにも言わないから、機嫌直してくれよ」
「むぅぅ……」
なおも不満げにつかつかと歩いていく。面倒くさいことこの上ない。これはもう、向こうが落ち着くまで待つしかないのだろうか。
それともあれか。
「俺が脱ぐしかないのか……?」
「なんでそうなるの!?」
「冗談に決まってんだろ」
口ではそう言いつつも、なるほど違うのかと納得する。違ってよかった。あいにく俺には、見せびらかすほどの筋肉はない。
もう打つ手無しだ。頭をかいて、降参だと両手を挙げる。
「で、なんでそんなに怒ってるんだ。頼む。教えてくれなきゃ俺はわからん」
「…………可愛い下着、着てなかった」
「は?」
ぽかんとして立ち止まった俺を置いて、悠羽は歩くペースを上げる。
瞬きを三回。どんどん遠ざかっていく背中。
「待て待て待て! わからん、全然わからん!」
「バカうるさい! 女心のわからない鈍感!」
「だからこそ学ぶ必要があるんだろうが!」
「自分で調べろばーか!」
思いっきり怒られると、さすがにちょっとへこむ。俺、そんなに女心わかんないやつだったのか。
「……わかった、調べてから帰る。合鍵持ってるな」
「うん。そうして」
ため息をついて俺は道ばたで足を止める。悠羽の背中が見えなくなってから、スマホを開いて『可愛い下着 理由』と調べてみる。
その場にふらふらと座り込んだのは、数十秒後のことだった。