128話 なにかが変
夕方まであちこちぶらぶらして、俺たちは旅館に戻った。
歩き回った疲れで、部屋に入ってそのまま座り込む。旅館の高くて柔らかい座布団は気持ちが良くて、ほっとため息が出る。
緑茶を淹れて、お茶菓子の干し柿を食べる。
「落ち着く……」
「お爺ちゃんみたい」
「悠羽もお婆ちゃんみたいになっていいぞ」
「やだ」
「それはそれで可愛いと思うんだけどな」
軽い調子で言うと、ぴくっと反応して検討を始める。だがすぐに気がついて、ぶるぶる首を振ってこっちを睨んできた。
「騙されないんだから」
「だいぶ怪しかったぞ」
「むぅ」
頬を膨らませる悠羽が面白くて、笑ってしまう。ますます不満げな顔で見られるが、それすら面白い。
立ち上がって、のびをする。
「浴衣に着替えるか。俺はこっちで着替えるから、洗面所使うか?」
「うん」
「帯の結び方、難しいからスマホ持ってくといいぞ」
「あ、そうだね」
一旦別れて、さっと着替える。脱いで着るだけなので時間はかからず、帯だけ調べながら上手い具合にまとめる。
服をたたんで、座して待つ。緑茶の苦みで心を整える。
しばししてから襖が開き、浴衣姿の悠羽が現れた。
「じゃーん!」
「うっ」
ゆったりした生地の間からのぞく、細い首と腕。髪も後ろでお団子にまとめていて、さっきまでとは印象がまるで違う。少し大人びた雰囲気の中に、まだあどけない可愛らしさも残っている。
心の準備はできていた。できていたが、耐えきれるとは言っていない。
「どう? 可愛い?」
「…………」
「あ、固まっちゃった」
手を顔の前でひらひらされて、はっと我に返る。
頭が上手く回らないので、とりあえず俺も立ち上がって浴衣を見せる。
「はぅ」
今度は悠羽がたじろいで固まる番だった。
お互いがお互いの浴衣姿に衝撃を受け、膠着すること約一分。そういえば俺たち、温泉に来たのも、夏祭りも10年くらい前だ。
「……とりあえず、あれだ。風呂行くか。大浴場」
「……そ、そうだね。うん。そうしよっか」
このまま見つめ合っていたら、普通に抱きしめたりいろいろしたくなる。最近ちょっと忙しくて、前より穏やかな生活を送っている反動だろうか。
とにかく今は、一旦冷静になる時間を取らないと。
タオルを持って部屋を出て、淡々と脱衣所で服を脱ぎ、体を洗って温泉に浸かる。この時間帯は夕飯の客が多いようで、俺以外には誰もいない。
それでも周囲に気を遣って、両手で顔を覆い隠して呻く。
「浴衣エロすぎんだろ……」
特段露出が激しいわけではない。ないのだが、いつもよりゆったりした首元に、ここぞとばかりに纏め上げた髪。そのせいでうなじがはっきり見える。
だいたい、なぜ浴衣はあんなに脱がせやすそうなんだ。ああやってこうやれば一発じゃないか。日本人、変態過ぎだろ!
「まさか俺が、エチエチお姉さん以外にこんな目に遭わされるとは……」
シンプルな好みで言えば、バインバインな年上お姉さん一択なのが俺という人間だ。性癖という観点から見れば、むしろ年下は外れている。ゆえにこれまで、なんとか一線は越えずにいられた。
だが、今日のあいつは易々とエロの国境線を越えてきやがった。警備隊はなにをしてるんだ。ちくしょう全滅してやがる。
頭の中の天使が笑顔でグッドサイン。「やるしかなくね?」
なんで天使がそっち側なんだよ。でもって悪魔は。俺自身だから出る必要がないのか。なるほどな。
とかやってる場合じゃなくて、こういうときはあいつだ。圭次に助けを求めるしかない。
だが、あいつに電話したらどうだ。今からでも草津に駆けつけて、全てを破壊しかねない。なぜってあいつは、今後数年のお預けをくらっているところなのだから。
逆の立場なら俺もそうする。新幹線の値段だって怖くない。
ため息を吐いて、ぼんやりと上を見る。露天風呂には雪が降ってきて、湯の外に出した肩が冷たくて気持ちいい。
「ふー」
深呼吸したら少しは落ち着いた。大丈夫、俺は冷静だ。
湯船から上がって、部屋に戻る。
悠羽が戻ってくるまで、スマホで海外のニュースを流し読みする。続けているおかげで、だいたい向こうの情勢も掴めるようになってきた。
なにより知的活動は、荒ぶった精神を落ち着ける効能がある。自発的に賢者タイムへ突入できる俺って柔軟。
しばらくして、かなり脳内が英語一色になってきたところで部屋のドアがノックされた。鍵は一つしかないので、先に上がるであろう俺が持っていたのだ。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「そうでもない」
「ご飯の時間ってそろそろだよね。行こっか」
「おう」
冷静にはなった。が、それはそうとして緊張はする。なんだこのドキドキ。女子の湯上がりに興奮するとか、思春期かよ。
「どうしたの?」
「ああ――いや、別にたいしたことはないんだがな」
相変わらずこういうのは小っ恥ずかしいが、言わないと言わないで拗ねられて面倒だ。
「綺麗だな」
「……なにが?」
目をぱちぱちさせ、悠羽が問う。どうしてこんなに鈍感なんだろうな。
「お前」
ぶっきらぼうに言うと、数秒遅れて顔を赤くする少女。見慣れたはずの照れた顔も、なぜか今日は特別だ。だが、悠羽の反応も普段より顕著だ。
「いつも言ってることと変わんないだろ」
「だ、だって、綺麗って言われたのは初めてだし!」
「……そうか?」
「そうなの! 全部覚えてるんだから!」
「全部?」
驚いて聞き返すと、こくこくと力強く頷かれた。こいつ、受験勉強がないからってそんなところに記憶容量を……。
「別に、勉強してないからじゃないし」
「心を読むな」
「顔に出てるもん」
「鋭すぎだろ」
「だいたい、子供の頃のことまで覚えてる六郎に言われたくないですぅー」
「確かに」
海水浴でパラソルを張った場所まで覚えていたときは、さすがに我ながら引いた。思い出モンスターだよ、俺は。
完全に論破もされてしまったので、さっさと飯を食いに行こう。夕飯の会場は別室。帰って来る頃には布団の準備もされているというのだから、至れり尽くせりだ。一生をここで過ごしたい。
電気を消して、鍵を小さく振る。
「忘れ物ないか?」
「――あの」
「どうした」
暗い空間で、袖を掴まれた。彼女の息づかいと、温度だけがはっきりとわかる。
囁くように、甘い声が告げた。
「六郎も、格好いいよ」
「……それは…………、忘れちまってもよかったんだけどな」
やっぱり今日は、なにかが変だ。