125話 あの場所で
初詣から帰ってきて、くたくたになった俺たちはすぐに寝る準備を済ませた。
入ったばかりの布団は冷たくて、風呂上がりの悠羽は温かかった。お互いを湯たんぽ代わりにして、溶け合うように抱きしめる。心地よい疲労と穏やかな気持ちであっという間に意識が途絶えた。
夢を見る。
眠っている最中にではない。
ふと意識が覚醒した、青白い光の差し込む部屋で。遙か未来のことを、夢に見る。
それはどこか遠く、心地よい風の吹く草原。ブルーシートを敷いて、二人並んで腰を下ろす。ずっと向こうまで空と緑が広がっていて、俺たちの他には誰もいない。
そんな場所で、最後の瞬間を迎えることができたなら。
きっと俺は、なんの悔いもなく笑える。
大切だと思った人。幸せになってほしいと願った人。
大切にすると決めた人。幸せにすると誓った人。
悠羽がずっとこの先も俺の隣にいて、ふにゃっとした笑みを浮かべてくれること。
それが俺にとって、なにより幸福な結末なのだ。
起こさないようにそっと、指先で彼女の髪をすくう。隠れていた顔が見えて、そのあどけなさに泣きたくなる。
きっとこれから、彼女はたくさんの辛い思いをする。それはもしかしたら、俺がこれまで通ってきた道より険しいかもしれない。多くの傷を負って、変わってしまうものもあるのだろう。
それでも、進むと決めた君のために。
俺ができることはなにもないけれど。
何度だって願おう。どうか君が、なりたい自分になれますように。その目に宿す光が、曇ってしまいませんように。不器用なこの俺の思いが、ほんの少しでも伝わっていますように。
そんなことを思いながら、また眠りにつく。
◆
1月2日から、六郎はまたゆっくりと仕事を始めた。4日からは完全に通常運転になり、悠羽にも登校日がやってくる。
悠羽にとって、もはや高校生活はほとんど無いに等しい。
大学受験を控えた三年生たちは、一次試験が終わると自由登校になる。自由なので学校へ行ってもいいのだが、受験をしない悠羽がすることはない。
熊谷先生からは「いつでも来ていいからな」と言われているが、基本は家か図書館あたりで過ごすことになるだろう。
「ゆはー、受験終わったらぜっっったい遊ぼ!」
「うん。楽しみにしてるから。頑張って!」
志穂と三月以降の約束をして、悠羽は一人になった。
ずっとやることもなく公園にいた、あの頃と同じである。違うのはこれが合法的なものであり、今はやることを探す意志があること。行く場所だって、公園じゃなくていい。
「私も頑張らなきゃ」
四月に向けて、ぎゅっと拳を握りしめる。自転車で風を切って図書館まで。
まだ昼過ぎなので、六郎は仕事中だ。すぐに帰ると、邪魔になるかもしれないので、他の場所で時間を潰すことにしたのだ。
鬼気迫った受験生で溢れる自習室は避け、書架から本を取って近くの椅子に座る。
元は苦手だった読書だが、この一年で少しは好きになれた。苦痛に感じることが少なくなり、面白いと思える部分までたどり着くようになったのだ。
外が暗くなってきたのを確認して、家に帰る。
玄関を開ければ六郎が出てきて、迎えてくれる。
なんでもない話をして、家事に取りかかって、2人の時間だ。
残り3ヶ月を噛みしめていると、ふとした瞬間に頭をよぎる弱い自分。
今からでも訂正して、六郎についていきたいという心の声。もっといえば、六郎に行ってほしくない。ずっとこの街で、このまま暮らしていたい。なんて言葉すら湧き上がってくる。
それをぐっと噛みしめて、笑顔を作る。背中を押すと決めたのだ。自分も自分の道を見つけると誓った。
六郎がアメリカの話をするときの、キラキラした目が好きだから。生まれて初めて自分の意思でなにかを成し遂げたいと思う人の、あの輝きを失ってほしくないから。
この痛みが、自分を大人にするのだと信じて。
「最近は英語、どんな感じ?」
「日本でやれることは全部やったんじゃないか。あとは、向こうに行って使いまくるしかないって感じだ」
「帰ってきたらペラペラだね」
「さすがにそうだろうな。仕事で使ったら、ならざるを得ない」
「海外旅行するとき、六郎がいたら安心ってこと?」
「行く国によるけどな」
「オーロラみたい!」
「さっそく英語使えなさそうなとこきたよ……。あれってフィンランドとかだろ」
「フィヨルド!」
「そのうち行きたいな」
穏やかな表情で話をする六郎は、ふと思い出したように瞬きをする。僅かな動作だが、悠羽は気がついて口を閉じる。
「海外旅行で思い出したんだけど……俺の仕事、旅行関係になりそうなんだよな」
「アメリカで?」
「そう。大門さんって人が旅行者向けのサービスを展開してるらしくてさ。俺もそこで働くことになりそうなんだ」
「へぇぇ。楽しそうだね」
「だよな。だから今はとりあえず、アメリカの地理とか文化を勉強しとこうかと思っててさ。英語も結構読めるから、向こうの人が書いてるブログとか面白くて――なんだよ」
無意識のうちにニヤニヤしていた悠羽に、六郎が眉をひそめる。
「ふふ。六郎、夢中なんだね」
「…………」
黙り込んで目を逸らす。悪戯のバレた子供みたいなその表情に、少女は面白くてますます笑ってしまう。
「ねえ、もっと聞かせてよその話」
「別に面白くはないだろ」
「ううん。面白い面白い」
「また今度な」
「えー。泣く」
「泣くんじゃねえ。彼女だろ」
「すごい角度からパワハラ始まった! じゃあ六郎も、彼氏なんだから話をしないとだめですー」
「いいえ」
「機械みたいな否定しない!」
じっと睨み合って、ぱっと悠羽が目を逸らす。六郎は安堵したように、小さくため息を吐いた。
「もう。照れ屋なんだから」
「柄じゃないだろ」
「そんなこと気にしてるの、おかしいよ」
「気になるんだよ。俺は」
自分が人からどう見られているか。それをずっと気にして、コントロールしてきたから、六郎はまだ自分の話をするのが苦手だ。相手の想像と違う姿を見せて、その結果どう思われるか。少しでも予測できるように、不規則な行動はしない。それもまた、染みついた生き方である。
「じゃあ、気にならなくなったら話してね」
「そうなったらな」
「なので今日は罰として、私の話を聞いてもらいます」
「罰じゃないだろ、それ」
「男の人は話を聞かされるのが嫌って言うじゃん」
「お前の話はつまらなくても嫌じゃないよ」
「つまんないって言った!?」
「仮定の話だ」
「つまんない時もあるってことでしょ」
「それはそう」
「もー!」
わざとらしく拗ねると、六郎は頬杖をついて息を吐く。それから少しだけ真面目な表情になって、尋ねた。
「で、話ってなんだ」
「……えっと。4月からなんだけど、私、女蛇村に行こうと思ってる」
「知ってるぞ」
「え!?」
「嘘だけど」
「ええっ!?」
「予想はついてたからな」
「え、え、どういうこと!?」
あまりに落ち着いた六郎から繰り出される、連続の揺さぶりに動揺する悠羽。
「お前はそうするだろうなと思ってたよ。だって好きじゃん、あの村が」
悠羽はぱちぱちと瞬きして、それから恥ずかしげに目を伏せる。六郎が自分のことをちゃんと理解していることが、嬉しくて照れてしまうのだ。
「利一さんのところか? 最近ますます人気になってるらしいもんな」
「そう。あとは美凉さんと一緒に、村おこしもやりたいなって」
「屋台も頑張ってたもんな。俺はすごくいい選択だと思うぞ」
「うん。六郎ならそう言ってくれると思ってた」
かつて六郎がいた村で。彼ではなく、自分にできることを探したいと思った。
それに、女蛇村なら六郎も安心してアメリカにいける。いきなり一人暮らしをする余裕もないし、現実的な手段でもある。
「でね、私もなにかできることがほしいなって思ってるんだけど……パソコンの使い方、ちょっと教えてくれる?」
「確かに、加苅の力になるなら覚えといた方がいいよな。――よし、パソコン買おう。悠羽のやつ」
「え?」
「スペックはどんくらいあればいいかな。動画編集ができれば最高だけど、初めてだしオーバースペックになっても勿体ないか。……つっても俺、こういうのに詳しくねえからな。よし、ゲーム仲間に聞いてみる」
「ちょっっっっと待って! パソコン買うの?」
「買わなきゃ話にならないだろ。俺のパソコンったって、仕事で使ってる時間長いし」
「そうだけど……でも、高いじゃん」
「大丈夫なんだな、それが。最終的にはお前の判断にはなるけど、金ならもう受け取ってるから」
片目を閉じて、複雑な表情で。それでも彼は前を向いて、
「お前の父さんから、早めの卒業祝いだよ」