117話 愚者は聖夜にかく語りき 2
コートのポケットに手を入れ、白い息を吐く。
仕事が一段落して、やることもなくなってしまったので家を出た。時刻は夕方で、そろそろ悠羽の仕事も終わるはずだ。
雪の気配がない、晴れた空をぼんやり眺める。
「……落ち着かん」
ぽつりと呟いた言葉は、簡単に消えていく。
あいつが帰ってくるのを待つ。ただそれだけだ。週七回、この一年ずっと繰り返してきたことだ。
それなのに今日はそれが上手くできない。
結果、サラブレッドの近くに来てしまった。悠羽が帰りに通る道を、うろうろと歩き回る。これじゃまるでストーカーだ。
電柱に背中を預けて、片手でスマホをいじる。天気予報は明日も晴れ。ニュースは今日も世の中の暗い部分を切り取って伝える。
SNSを適当に眺めて、クリスさんからのメッセージに返信。オウム返しのたった一言。
『メリークリスマス』
たったそれだけだ。けれど、ただそれだけで優しい気持ちになってしまう。
指先で長押しして、転送。
一分も経たないうちに、返信が来た。
まず圭次から。奈子さんと二人で撮った写真付き。イルミネーションで二人仲良く笑っている。
『爆ぜろ』と返信して、次へ。
二件目は加苅から。
利一さんのレストランで、大きなケーキを大勢で囲んでいる。文月さんや利一さんの家族、他のお客さんも入っていて、結婚式にしか見えない。新郎役の利一さんは前髪を抑え、参ったように肩をすくめていた。
『利一さんに言っといてくれ。「諦めた方がいいっすよ」って』
三件目は熊谷先生。
『メリークリスマス。酒はほどほどにな』
飲む予定はないのだが、『はい。先生も』と返しておく。
なるほど。今から先生は紗良さんと酒を飲みに行くのか。あの二人なら確かに、雰囲気のいい店より酒を挟んだ方が上手くいきそうだ。提案したのは紗良さんだろうか。だろすれば店は、紗良さんが行きつけの駅の南側にあるあそこか……。
まずい俺、ちゃんとストーカーかもしれん。間違いなく才能はある。
四件目は――小牧からだ。
『こっちは彼氏持ちだぞー!』
怒れるライオンの絵文字と共に送られてきたので、『狙ってねえよ』と返す。すぐに『冗談。メリークリスマス』と送られてきた。
小さな笑いがこぼれる。
……ああ、そうか。俺は嬉しいんだ。
俺の好きな人たちが、ちゃんと幸せな日を過ごせていることが。傷ついたり悲しんだりせず、今日を笑えていることが。
そのことを素直に、喜べることが。
嬉しくてたまらない。
人の幸福が許せなくて、一度は全てを投げ捨てた。けれど今、ここに届くメッセージで胸が温かい。
たったった、と地面を蹴る音が聞こえた。
顔を上げると、坂の上に悠羽がいる。制服を入れたバッグを肩から提げて、コートをはためかせながら走って――足を止めた。丸い瞳が俺を捉えて、白い息が風に流れる。
大切な人が、そこにいた。
まだ距離があるので、声をちゃんと張って呼びかける。
「あんまり急ぐと危ないぞ」
一歩。一歩だけだった。悠羽が歩いたのは。
そこからしっかり加速して、坂道を駆け下りて――真っ直ぐに俺の胸に飛び込んでくる。
「わっ!」
「知ってた!」
抱きとめて、持ち上げる。悠羽の足が宙に浮いて、そのまま一回転。
降ろして離れる。自信満々に悠羽は言う。
「早く私に会いたかった?」
「浮気相手と遊んだ帰りに寄っただけだが」
「え――六郎にとって私より可愛い人っているの?」
「お前すごい自信だなお前な」
頬をつまんでやると、ふにーっと横に笑顔を作る。
「らってろくろーのことわかるもん」
「ほう。お前に俺のことがわかると」
「だって彼女だもん」
「彼女ってすげえな」
「でも六郎は私のことをほんの一部しか知らない」
「愛し抜けるポイントが1つあればいいってか?」
絶妙に世代じゃない知識をなんで知ってるんだよ。でもって俺の知っている数少ない音楽なあたり、理解度も示しているときた。
「ね?」
「やるな」
「だって彼女だもん」
「それしか言わんのか」
「だってまだ、ちょっと信じられないんだもん。何回も言っちゃう」
「実際、夢なのかもな」
「やだー」
わざとらしく首を横に振って、それからふっと悠羽が真面目な顔になる。
「ねえ六郎。もしも、もしもね。私が六郎のことを忘れちゃったらどうする?」
「悪い夢か?」
「ううん。ただの質問」
「俺のことを忘れたら……か。そうだな、そしたら、ここぞとばかりに記憶をねつ造して俺を素晴らしい人間だと思わせてやる」
「ゆ、油断も隙もない……」
「俺の前で記憶を無くすって、泥棒の前に財布置くようなもんだからな」
どんな適当なことでも信じさせることができる、嘘つきのボーナスタイムだ。ここぞとばかりに三条六郎聖人伝説をでっち上げるに決まっている。
砂漠に井戸掘った話とか、紛争を終わらせた話とか作ろう。
「逆にお前、俺が記憶無くしたらどうする?」
「『六郎と私はずーっと前から一緒にいる幼なじみだよ』って言う」
「面倒くさい部分をスキップしようとすんな」
義理の兄妹であることを黙っていたこと、ちゃんと根に持っているらしい。いやまあ、当然ではある。
俺があのことを隠していなければ、もっとスムーズに物事がいっていたのは確かだ。
確かだけど、たぶん、最初からわかっていたら恋なんかしなかった。
血の繋がった家族のように接していたから、お互いのことを一番近くで見ていられた。最初から距離があったら、やっぱり俺たちは違う結末になったと思う。
悠羽は指を振って、続きを考えながら話す。
「それでね、そう。小さい頃に結婚の約束をしたんだよって言うの」
「あー、したな」
「え!? もうしてたっけ?」
「したした。お前が五歳くらいのとき、『大きくなったらおにーちゃんのお嫁さんになる』って言ってた。嘘だけど」
「へぇぇ……って嘘じゃん!」
「なんで俺の言ったこと信じそうになってるんだよ……こわ」
「おかしい! その反応は絶対におかしいよね?」
あんまり素直に信じないでほしいものだ。疑ってもらえないと、おちおち嘘の1つもつけやしない。
こういうのって結局、バレるから面白い部分もあるしな。
「まったく、六郎は適当なことばっかり言うんだから」
「そこが好きなんだろ」
「……うん」
「……」
軽い調子で言ってみたが、恥ずかしそうに頷かれるとこっちが困る。
マフラーに顔を埋めて、上目遣いで悠羽が見つめてくる。
「好き」
「…………」
「大好き」
「…………」
ちゃんと言わないと許さないぞと、意思の強そうな目で射貫いてくる。
ふっと息を吐いて、余裕のある顔を作る。
「愛してる」
「…………ずるじゃん」
さっとマフラーに顔を隠して、避難するヤドカリみたいに文句を言う。
「本当だぞ」
「知ってるし」
「嘘じゃない」
「わかってるって」
「やっぱ嘘かも」
「嘘なの!?」
ころころ変わる表情に、けらけら笑う俺。やっぱり悠羽をいじってるときが一番面白いんだな。
「嘘でも本当だよ」
「意味わかんない」
「彼女なのに?」
「彼女でもわからないことはあるんですぅー」
唇をとがらせ、肩を叩いてくる悠羽。そんな彼女に、つい悪戯心が疼いた。
「じゃあ、彼女より先にいけばわかるのか」
「え?」
ぽかんとする少女に、不意打ちでキスをする。
今はまだ、多くを口にすることはできないけれど。ちゃんと考えているから。
「メリークリスマス。これからもよろしくな、悠羽」
俺たちが、幸せになれる未来のこと。