116話 愚者は聖夜にかく語りき 1
幸せだと口にするのは、あまり好きではない。
その言葉はあまりに大雑把で、どこか不誠実な気がするから苦手だ。
生きていればそりゃあ当然、嫌なことだってある。仕事で言えば嫌な客に当たったり、生活なら物価の高騰だったり。悠羽に怒られて落ち込むことだってしばしばある。
その反面、自分の仕事が高く評価されたり、恩師に気に掛けてもらえたり、あとはまあ、悠羽はいろいろありすぎて纏められないが。いいことだって数え切れないぐらいにあって。
その総量でバランスを比べたとき、いい方に傾いているから幸せだと感じるわけで。
なにも考えずただ「幸せだ」と言ってしまうのは、違う気がする。口に出してしまうと、なんだか言い聞かせているみたいだし。
だから代わりに、噛みしめて目を閉じる。
朝。悠羽よりも少し目が覚めて、彼女の無邪気な寝顔を見たとき。
心を落ち着けて、そっと心で祈るのだ。
どうか彼女が、今日も良い日を過ごせますように。
恋が相手を求める衝動なら、愛は相手を想う願いだ。
片方しかなかった俺は、この一年で両方の意味を知った。
スマホのロック画面が12月24日を表示する。時刻は5時半。彼女が起きるまで、もう少し時間がある。
寝るのも億劫なので、隣で寝顔を見ていることにした。
あんまり気持ちよさそうに寝ているから、つい悪戯してしまいたくなる。試しに頬を突いてみるが、寝ているので反応がない。ちょっと嫌がるのが面白いのに……これでは意味がない。
やれやれと息を吐いて、うつ伏せになりスマホを触る。イヤホンを刺して音楽を流し、アメリカの観光地や食事について眺める。
どうせ日本食が恋しくなるんだろうな。と思いつつ、それでも心は浮き足立つ。
修学旅行前の心情によく似ている。
浮かれている場合でもないのが、実際のところだ。準備すべきことは多いし、いろいろと面倒なのは確かだ。今の話が順調に進むなら、年明けから行動し始めないといけない。
けれど、そういったノイズも今日と明日は隅に追いやっておこう。
◆
24日とはいえ、サラブレッドは営業だ。土日シフトの悠羽は当然のごとく出勤である。
紗良からは「無理しなくていいのよ」と言われているが、悠羽は変わらず仕事をすることにした。
その理由で休むのは、なんだか子供じみていると思ったから。子供なのは事実だとしても、せめて行動は大人の真似をしていたい。
別段帰りが遅くなるわけでもないので、予定に影響はないし。
だから今日も明日も、バイトをしてからデートである。
よく働き、よく遊ぶ。平日に燻っているぶん、仕事中の悠羽は充実感に満ちている。
「帰ったらサブローくんとなにかするの?」
「はい。料理を作って、2人で食べるんです。六郎がケーキを買ってくれるので、それも。それからプレゼントも準備してあって」
「楽しそうね」
にこにこで予定を話す悠羽に、紗良は眩しそうに笑う。
「あ、紗良さんはなにかあるんですか?」
「んー。どうかしらね」
「その反応、ありますね。デート」
「なーんにもないわよ。今年も親とケーキ食べて終わり」
「紗良さんって、嘘つくとき右手をひらひらさせますよね」
「む――サブローくんの入れ知恵か」
目を細める紗良に、悠羽は首を振った。
「いえ……すいません。こういうの、癖になってしまって」
「キ〇アみたいなこと言ってるわね」
首を傾げる少女に、紗良は三つ編みを手でいじって困り顔。六郎を彼氏にしている悠羽に、下手な嘘は通じない。筋は通っているが、なんと厄介なことだろうか。
「まったくサブローくんは……困った子なんだから」
「デートですか?」
「そうとも言うかもしれないわね」
「そうとしか言わないですよ。クリスマスなんですから」
紗良が半目で睨んでも、悠羽はふわふわニコニコしているだけだ。ある意味、彼女は六郎より逞しいのかもしれない。
ふっと息を吐いて、紗良は開き直ることにした。
「ええそうよ。おかげで親からの『お前もそろそろ結婚を……』みたいな視線に痛みを感じずに済むわ」
「そんな、紗良さんってまだ若いですよね」
「化粧の力よ……」
やけに重みのある笑みを向けられて、悠羽は胸がきゅっとなる。それは来たる将来への、言いようのない不安であった。
「それに相手は高校教師。あの感じだったら浮気もしなそうだし。優良物件よね」
「熊谷先生、いいですよね」
「ああいうのがタイプ? サブローくんとはだいぶ違うけど」
「ち、違います! あ、ええっと……私のタイプはなんというか、あの、本当に六郎しか思いつかないっていうかそうじゃなくって! 別に六郎なんてタイプでもなんでもないんですけどっ!」
「落ち着いてー」
付き合い始めて一ヶ月は経ったはずだが、未だ慌てるとツンデレになる。長年の習慣は簡単に抜けないらしい。
「……はい」
首をすくめて反省する。耳まで赤い。
平静を取り戻すため、せかせかと手を動かす悠羽。洗ったトレーとトングを店の入り口に持っていって、戻ってくる頃にやっと落ち着いた。
「個人的な意見なんですけど、六郎と熊谷先生って似てると思うんです」
「そうかしら。サブローくんは器用で、熊谷さんは武骨って感じじゃない?」
「それはそうなんですけど。なんて言うんでしょう、優しさの質が似てるというか」
「あー、じゃあ私にはわからないわね。サブローくんに優しくされたことないから」
「そうなんですか?」
「そうよ。あの子ったら口を開けば『あんまギャンブルに入れ込まないほうがいいっすよ。運は収束しないんで』だの『趣味で賭けるのはいいですけど、店が傾くレベルでつぎ込まないでくださいね』とか言いたい放題なんだから。チクチク言葉もいいところよ」
「言いたい放題……ですか」
あの男にしては珍しく、至極真っ当なことを言っているように聞こえる。
「こういうのは、受け手がどう感じたのかが大事なのよ」
「使い方が違うような」
ぽつりと指摘すると、紗良は小刻みに首を振る。それはもはや振る、というより震えるに近い。カタカタと音が聞こえそうなほど細かく激しい。
「ナニモキコエナイ。セイロンキライ」
「でも、熊谷先生は注意とかしないですもんね」
「そうなのよねえ」
すっともとの顔に戻って、憂いを帯びた目をする。それからやや不満げに呟いた。
「一転して許されちゃうと、それはそれで落ち着かないわぁ」
「…………」
目をぱちぱちさせて、悠羽はこの話をやめることにした。大人って難しい。
六郎知恵袋ならなにか解決するだろうか。