112話 幻
「まじでまじでまじでもういい! 痛いから! 十分痛いから! これ以上伸ばしたら千切れる……!」
「え、まだそんなに押してないよ」
「…………え?」
布団の上でストレッチ。前屈を開始した瞬間に限界がくるカッチカチな筋肉。背中に手を当ててくる悠羽は、驚いた声を上げる。
後ろを振り返ると、なるほど嘘をついている顔ではない。ただ俺が固すぎたというわけか。
「ねえ、六郎って実はけっこうヤバいんじゃない」
「いやいやまさか。これぐらいが普通だって」
「全然体倒れてないけど」
「男の骨格的にこれが限界なんだよ」
「言っとくけど私、小中高共学に通ってます」
「……」
有無を言わさぬ物言いに、返す言葉を失ってしまう。素晴らしい説得だ。我が彼女ながら誇らしい。一つ問題があるとすれば、言い負かす相手は俺じゃないほうがいい。
「こんな状態でデスクワークは良くないでしょ?」
「……うっす」
「じゃあ、これから毎日ストレッチしよ。私も手伝うから」
「……っす」
諭すように言われるのが、けっこう情けなくて辛い。しゅんとして首を縦に振る。
後ろから悠羽に頭を撫でられる。
「頑張る六郎を手伝いたいの。もしアメリカに行くことになったら、きっと今より大変でしょ。体調管理もちゃんとしないと」
「すまん、お前には迷惑掛けるな」
「いいの。はい、足伸ばして」
しれっとあぐらをかいていたのがバレて、続きをやらされる。
じっくり20分ほどのストレッチが終わったら、座った状態で悠羽が肩を揉んでくれる。
苦痛の後のリラックスタイム。悠羽の力がそこまでないので、シンプルに気持ちいいだけの時間だ。
「え……かたすぎて全然揉めないんだけど」
「いやいやまさか」
「六郎って肩こり感じたりしないの?」
「働き始めてすぐはキツかったけど、なんか途中で治ったんだよな」
「治ってない! たぶんそれ、慣れちゃっただけだから!」
「まじ?」
「うん。なんかこれ、私の手に負えるものじゃない気がする」
「うーむ」
食生活や睡眠時間は、ちゃんと気をつけていたが。肉体的な部分は意識が回っていなかった。
「わかった。なんとかする」
「出た、六郎のなんとかする」
「そんなに言ってるか?」
「よく似たようなこと言ってるよ。で、いっつもなんとかなっちゃうの」
どこか誇らしげに言ってくれるが、肩こり解消に向けて努力するだけなんだよな。いまいち格好つかないぜ。
「悠羽は大丈夫なのか?」
「んー。私はふにゃふにゃだから、平気だよ。ちょっと触ってみる?」
言われるままに肩に触れると、なるほど確かに柔らかい。
「同じ人間とは思えんな」
「六郎は人ってより岩だもんね」
「そんなにか?」
「そんなにです」
試しに自分の肩周りを揉んでみる。ゴリゴリと嫌な音がした。
……うん。まあ、ちょっとだけ悠羽の言うとおりかもな。これだけ凝っていれば、いずれ爆発することは俺にもわかる。爆発したら最後、二度と元には戻れないことも。
「ま、今日は寝るか。ありがとな」
「ん。どういたしまして」
お礼を寄越せと言わんばかりに両手を広げるので、抱きしめて耳元でささやく。
「はいはい、愛してる愛してる」
「棒読みすぎない!?」
「棒読み……? 棒読みってなんだ?」
「もっとちゃんと、心がこもってないとやだ」
「アイムラビニット」
「マックのCM!」
「純粋に不思議なんだけど、今も言われて嬉しいのか? 思いっきり態度でわかるだろうに」
「嬉しいの。そういう言葉は告白のとき限定じゃないんですー」
「ほーん。あんまピンとこねえな」
口元に手を当てて考え込む。
悠羽は布団を指先でいじりながら、恥ずかしげに上目遣いを向けてくる。
「じゃ、じゃあ……私が言うから。そしたら、わかるでしょ」
そういえば、付き合いだしてから直接的な言葉を伝えることはほとんどなかった。
重々しく頷いて、受け止める心の準備をする。
「……大好き」
――。
思考が完全に停止。ドライアイが痛んでやっと正気に戻り、胸に手を当てる。止まったかと思った心臓は、バクバクと脈打っている。
完全に誤算だ。
会話の流れを誘導して、上手いこといい思いをしようと狙ったのが間違いだった。狙い自体はドンピシャだったのだが、ここまでの威力は想定していなかったのだ。
辛うじてポーカーフェイスを保っているし、恥ずかしがる悠羽は俯いている。だが、出てくる言葉はポンコツを隠せない。
「……ど、どうも」
「どうもじゃなくて、六郎も」
ちらっと恨めしげに見つめてくるのすら可愛い。可愛いなこいつ。なんでこんなに可愛いん?
いかん。せっかく知的に攻めていたのに、可愛さごり押しでこっちがピンチだ。
深呼吸して心を整える。こういうのはサッと言ってしまうのがいい。
「好きだ」
なんだかいたたまれなくなって、頬をかく。どうしてこう、時間が経つごとにウブになっていくのだろう。付き合い始めの俺はもうちょいスマートにやってた気がする。
ともあれ、なんとかミッションはこなした。
ほっと一息していると、ぽかんとした悠羽と目が合う。なにやら嫌な予感。
「え、大好きじゃないの?」
「同じだろ」
「同じじゃないよ。もう一回、やり直し」
「いいや無理だね。これ以上言ったら体が持たん。吐血する」
「本当のこと言うとアレルギー出ちゃうの?」
「そんな切実な理由で嘘ついてねえよ」
「じゃあできるじゃん。はい、ちゃんと言って」
「大好きだ。――ってやっぱ、俺が言ってもしっくりこねえだろ」
「えへへ」
居心地悪く後頭部をかくが、少女はふにゃっと幸せそうに笑っている。
こんな言葉一つで、そんなに喜んでくれるものなのか。こんなに胸が温かく、くすぐったくなるものなのか。
……どこにも行きたくないな。
願いが叶うなら、残りの人生をずっとこのまま過ごしたい。なにも変わらぬ明日が来てほしい。掴めるかわからない、仕事の夢などなくたっていい。
少しでもリスクがあるなら、アメリカなんて行かなくていい。ずっとここにいて、静かに2人で生きていたい。
油断すればそう思ってしまうほど、目の前にある光は眩しい。
これが恋の見せる、幻覚染みた快楽であることは知っているけれど。
もう少しだけ、幸福なだけの時間に騙されていたい。
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感想いつもありがとなぁ(しみじみ)。