107話 本物
三条悠羽は待っている。
自分が見つけた将来の目標を、六郎に伝えるタイミングを。
見計らっているのではなく、待っているのだ。ここと決めた条件はちゃんとあって、それが満たされたら伝える予定だ。
その条件とは――六郎が夢を見つけて、悠羽に伝えたとき。
(私が先に言ったら、六郎は絶対に自分のことを言わなくなる)
あの男は、そういう人間だ。もはや無意識に悠羽のことを最優先にしている。どれだけ大切な目標だろうと、彼女のためなら迷いなく捨ててしまうだろう。
――なにかを目指そうったって、簡単じゃねえのさ。
暗い高速道路で聞いたあの穏やかな声は、諦めることに慣れた人の言葉だった。
けれど、なにも願っていなければ六郎はあんなことは言わない。「俺にはよくわからん」と言うはずなのだ。
なにかがある。悠羽はそう睨んでいる。
そしてそのなにかを、絶対に叶えてほしい。
環境に振り回され、いったいどれだけのことを六郎は諦めてきたのだろう。最初から願うこともできなかった、夢の欠片はいくつあっただろう。
野球選手になりたい、漫画家になりたい、消防士になりたい、パティシエになりたい。そんな無垢な願いすら、彼にはなかったのだろう。世の中が甘くないことを、物心がつく頃に知っていた、彼には。
叶えてもらわなければ、困るのだ。
彼女の目標がまだ、それほど重要ではないというのもある。なれたらいいな。なれなかったら、別の道を探そう。くらいにしか思っていないので、譲ろうと思えばいくらでも譲ることができる。
そんなわけで、ここ半月ほどずっと悠羽は六郎の様子を観察していた。
ので、
(あ、なんか今日おかしい)
得意のポーカーフェイスを前にしても、変化に察することができた。
外見や話し方に大きな違いがあるわけではない。いつも通りに出迎えて、他愛ない話をする。会話のリズムも、茶化し方も普段と変わらない。
だけどなにかが違うと思う。
こればかりはもう、悠羽の特権と言わざるを得ない。六郎に嘘をつかれ続け、それを暴こうと目を懲らし、その果てに会得したある種の特殊能力である。
絶対浮気させない悠羽ちゃんの完成だ。
他の女と連絡を取ろうものなら、シャーロック・ホームズもびっくりの早さで気がつくだろう。論理ではなく直感という点を除けば、名探偵の素質がある。
とりあえず荷物を片付けて、エプロンをつけキッチンに立つ。
「今日のご飯はなんでしょう」
「黒毛和牛のステーキか」
「そんなわけないでしょー」
「じゃあ、フグとか」
「免許持ってたらもう働いてるよ!?」
「エスカルゴ」
「気持ち悪くて触れないし。……もう、全然当てる気ないじゃん」
「真面目に当てようか」
「うん。ちゃんと考えてね」
「夕飯」
「そうじゃないっ!」
いつも通りの会話で様子を見ようと思ったら、想像を超えていつも通りの返しだった。からかい上手か、からかわれ上手なのか、楽しく盛り上がってしまう。
頭の片隅に冷静な自分を残して、悠羽は唇を尖らせる。
「適当なことを言う六郎には、適当な料理しか作りませ~ん」
「適当な料理とは」
「白湯」
「料理じゃねえなそれ。お湯湧かしただけだな」
「お湯を沸かしてるじゃん。料理だよ」
「カップ麺より簡単なものは料理じゃないだろ!?」
「ク〇クパッドに作り方載ってるもん!」
「嘘だろ……」
目を見開いてスマホを操作し、愕然とする六郎。現代社会においてク〇クパッドにレシピが載っているかどうかは、料理がどうかの基準と言っても過言。普通に言い過ぎではある。
が、そこを押し切ってこその悠羽である。六郎に打ち克つために必要なのは、隙のない論理ではなく無理を通す気合いだ。
「ということで、六郎のご飯は白湯です」
「待て待て待て。せめてカロリーをくれ」
「水は重さがあるからカロリーの塊だよ」
「ゼロカロリー理論の逆……だと」
すべての有を無に帰す理論と対を為す、すべての無を有へと変える理論。それだけ聞けば格好いいが、ただカロリー計算をねつ造しているだけだ。
六郎は参ったとばかりに背もたれに寄りかかって、目を閉じる。手で口元を隠したのは、考えている証拠だろう。
「……シチュー、か?」
「正解っ」
人差し指を立てて笑うと、悠羽はくるりと六郎に背を向ける。冷蔵庫から牛乳と野菜を取り出し、調理を開始する。
(決めたのは今だけどね)
心の中でぺろっと舌を出して、ほっとした様子の六郎を横目で見る。
冷蔵庫の中身を確認しない彼は、おそらくレシートの内容から推理したのだろう。残っている食材で作ることができて、そこからはおそらく願望混じり。
要するに、作れるものの中で六郎の食べたいものを答えるだろう。
今日のメニューに迷うこともないし、なんだか幸せな気分になることもできる。
こんなふうに余裕を持って振る舞えるのも、ちゃんと心の準備ができているからだ。今回ばかりは、化かし合いでも悠羽に勝ち目がある。
まずはこの違和感が、悠羽の予想通り彼の将来に関わるものなのか。それを見極めるのだ。詳しいことは、それから決めればいい。
焦らないこと。そう心に刻んで、料理を開始する。
◇
――本物なら迷わない。
その言葉はいつも、なにかを諦めるとき自分に言い聞かせてきたものだ。
様々なリスクを鑑みて、なるべくネガティブに物事を考えて、それで迷ってしまうなら本気じゃない。本気じゃないなら、やる必要はない。
その方法でやりたい部活も、習い事も、人間関係も、欲しい物も諦めてきた。
今回もとりあえず、その手段を試そうとした。
アメリカに行って仕事をする。
まず真っ先に思い浮かぶリスクは、治安と食事、それから衛生的な面。面倒なのはパスポートの取得や就労ビザの申請、それからこの家と家具の後始末。
億劫になる理由なら、山のようにある。
それでもなぜか、迷いは生まれなかった。
たとえ大門さんと上手くいかなくても、いつかは行くだろうと思ってしまう。だって、見つけてしまったから。
俺がこれまで積み上げてきたことを、その全部を試すことができる場所を。
気がつけば、どうやって悠羽を説得するかを考えていた。彼女がいない生活など考えられない。行くなら二人で。だが、巻き込んでしまったら辛い思いをさせないだろうか。
そうさせないために、俺にできることはなんだろう。
考えても答えはでない。
だが、俺の中で方針は固まった。
まさかこんなに早く、自分の中で結論が出てしまうとは。
まさか俺が、なにかをこんなに求める日が来るとは。
「家族会議をしよう」
気がつけば、彼女にそう提案していた。
本物だから、迷えないのだ。