106話 Mr.
俺の人生は仕事と恋とカス(圭次)だけで完結しているわけではない。
しっかり英語の勉強も継続中である。紙の上でも、実際の会話でも。
ネイティブの会話とは恐ろしいもので、俺たちがせっせと学校で習った英文はほぼ使われない。文法は役に立つが、慣用表現や「マジ?」のような口語は一ミリも知らないものがポンポン飛び出してくる。
また、同じアメリカでも州によって使う単語にクセがあったり、同じ言葉でもニュアンスが違ってくる。当然ながら、国が違えばそこに訛りも加わってくる。個人的にイギリス訛りが一番聞き取りづらく、アジア系は聞き取りやすい。
夏が終わってから三ヶ月。
リスニング、スピーキング共に、かつてないほどの仕上がりを見せていた。
クリスさんの紹介で入ったゲームのグループでは、すっかり「日本の性格悪いやつ」として定着している。皮肉大好きアメリカ人の言う「性格悪いやつ」は、「ゲームの上手いやつ」という意味で言ってくれているらしい。
最初に始めた戦略ゲームを筆頭に、頭を使う対人ゲームは軒並み得意だった。
おかげでオンラインの友人も増え、悠羽のいないタイミングでぼちぼち遊んでいる。
圭次ともそこそこ会っていることを考えると、今の俺は人生で一番遊んでいるかもしれない。
仕事もあるし、悠羽とも話したりするし、暇だと思う瞬間はほとんどない。
今日もまた、集まったメンバーと対戦をした。
「うわぁ……全然駄目だったな」
二時間のゲームを終えて、椅子の上で一人呟く。
見たことのない戦術をぶつけられて、見事にかき乱された。対策を思いつくこともできず、綺麗に全敗。非常に悔しい結果だ。
悠羽はバイト中で家にいない。それをいいことに、動画サイトで上手い人のプレーを漁る。ちゃんと英語で説明しているのを選んで、罪悪感を減らすのも忘れない。
……誰に対して罪悪感を感じているかは、よくわからないが。
動画をいくつか見て、気がついたことをメモにまとめておく。強くなりたすぎて、わりと真剣に考えてしまう。考えること自体が好きだから、余計にやめられない。
そんなことをしていると、ゲーム用のSNSにメッセージが届いた。
送り人は、さっきまで遊んでいた中の一人だった。まだ2、3回しか遊んでいないのでお互いにちゃんと話したことはない。
『今、少し話せますか』
しかもメッセージは日本語だ。
あのグループに、俺とクリスさん以外に日本語が使える人がいるとは知らなかった。驚きつつ、
『大丈夫ですよ。通話かけます』
と返信する。
相手はデーモンと呼ばれている男だ。顔は見たことがないので、相手の年齢はわからない。日本語なら喋り方で想像がつくのだが、英語はそうもいかない。それも難しいところだ。
通話がつながり、向こう側から咳払いが聞こえる。
「おほん……もしもし、Mr.三条。聞こえているかい」
想像よりずっと流暢な日本語と、さっきまで聞いていた英語とのギャップに数秒思考してしまう。遅れて、こちらも挨拶を返す。
「はい。聞こえますよ、デーモンさん」
クリスさんよりずっと自然な発音。アクセントの少ない、平坦な日本語だ。だが、さっきまで彼は完璧に英語を話していた。この日本語と、同じくらいの精度で。
「時間を頂いてすまないね。ゲーム後すぐにと思ったんだが、家内に呼ばれてしまって」
「問題ありませんよ。……もしかして、日本人ですか」
「そんな時代もあったが、今はアメリカ人だ。数年前に帰化してね。ちなみに私はデーモンと呼ばれているが、名前の表記は『Daimon』だろう。大門という名前だが、読み間違えが広まってしまった。というわけだ」
「ほんとですね。『Daemon』だと思ってました」
「先入観、というものだな」
デーモン、もとい大門さんはくつくつと笑う。
柔和な話し方だが、言葉がずっしりと据わっている。ゲーム中とは打って変わって、貫禄を感じさせる話し方。どこか楽しげで、こちらの出方を伺うような間の取り方で、彼は続ける。
「クリスから何度か話は聞いているよ。と言えば、なにを話すか伝わるかい」
「仕事の話ですか?」
「その通り。察しの良さも聞いていた通りだ」
「偶然ですよ」
「能ある鷹は爪を隠す、か。……すまんね、久しぶりの日本語だから、ことわざも使いたくなる」
軽やかにかわそうとするが、電話越しに感じる視線は真っ直ぐこちらを捉えている。
積み重ねた年季の差は、俺の誤魔化しをものともしない。天敵というほど相性が悪いわけではないだろうが、純粋に積み重ねたものに差がありすぎる。
大人しく真面目に答えたほうが楽そうだ。息を吐いて姿勢を正す。
「英語を使って仕事がしたい、と言っていたそうじゃないか」
「はい。正直まだ、金になるレベルではないと思いますが。いずれそれで生きていきたいと思ってます」
「なるほど。それであのグループに?」
「そうですね。そうなります」
なにかを考えるような、しばしの沈黙。やがて結論が出たのか、大門さんが声を発する。
「時間を作って、何度か君と話がしたい。固い話だけではなく、砕けた話も。ゲームをしながらでも、どうかね」
「はい。ぜひお願いします」
「仕事の話はお互いに信頼関係を築いてからにしよう」
「念のため、どんなものか聞いてもいいですか? 自分にできることか、わからないのはお互い不安だと思うので」
期待してもらっても、できないことは受けられない。俺を過大評価して被害を被るのは、むしろ大門さんの方だ。
「力量の心配はしていないが、そうだな。確かに伝えておくべきだ。すまない、私もこういうことは慣れていなくてね」
「いえ」
再度咳払いをして、大門さんは端的に言った。
「もしも我々がビジネスパートナーとして合意できるなら、アメリカに来て、私の元で働く気はないかね」
それは――俺が予想していたどんな仕事よりも規模の大きなもので。
瞬時に頭で「無理だ」という結論が導き出されるのに、心臓が力強く脈打つ。
未来への不安だとか、現実的な話とか。そんなもの全てを吹っ飛ばして、どうしようもなく脳に焼き付いた。
本屋に行ったとき、ふと目についた海外旅行の本を手に取ってしまった。新婚旅行をするなら、外国がいいと思った。
日常の些細な部分に現れるほど、心は海の外へ焦がれていたのだ。
そのことをやっと自覚して、激しく混乱する。
俺は……どうすればいい?
「驚くのも無理はない。話をして、お互いにそれがいいと思ったらそうしよう。という話だ。もっとも、君に興味がなければこの時点で断っても構わない」
「…………現時点では、なにも言えません」
「そうかい。ならば話をしよう。お互いを知ってから結論を出しても、遅くはないのだから」
「はい。ありがとうございます」
「こちらこそ。君のような若者に会えて嬉しいよ」
短いやり取りをして、通話が終わる。
椅子から滑り落ちて、布団に寝転がった。無表情な天井を見つめて、頭を押さえる。
夏にクリスさんと出会った。外国人で、動画投稿者で、面白い人だと思った。英語の勉強をしたいこともあって、彼と友人になった。クリスさんから仕事をもらった。四苦八苦しながらも、上達していると思う。
そして今、クリスさんの友人から連絡が来て、かつてないチャンスが舞い込んだ。
生まれて初めて、夢に出会った。
けれど俺にはもう、大切な人がいる。この体が荒波に飛び込むことで、傷つくのは俺一人ではない。
「どうすりゃいいんだ、これ……」
顔を手で覆って、大きく息を吐き出す。
ひとまず悠羽には言わないでおこう。無駄な心配はかけたくないし、俺自身まだ飲み込めていないから。