103話 優先事項
クリスさんとの打ち合わせから少しして、悠羽が帰ってきた。
いつもより早い帰宅に驚きつつ、パソコンを畳んで玄関に出る。
「おかえり」
「ただいま」
悠羽は玄関に立ったままじいっと俺を見てくる。
「なんだよ」
「ううん。今日も六郎が家にいるなぁって」
「悪いな、引きこもりで」
「そうじゃなくって!」
手を伸ばして、髪が乱れない程度に撫でてやる。
「いなくなんねえから、安心してゆっくり帰ってこい。事故ったら元も子もないんだからな」
「……はーい」
まだどこかモヤモヤしていそうな少女は、不安そうな上目遣いを向けてくる。
悠羽が不安症なのか、あるいは俺が蒔いた種なのか。たぶん後者の比率が圧倒的に大きい。ここまできても、やっぱり自分の首を絞めるのは自分か。
よくよく考えれば俺、前にも失踪やらかしてるしなぁ……。あの時は失踪というか、勘当みたいなもんだったけれど。悠羽からすれば、どっちも変わらないのだろう。
「用事がないなら、散歩でも行くか」
「仕事終わったの?」
「まだあるけど、続きは後でやればいいから」
「そっか。じゃ、行こ」
鞄だけ廊下において、軽やかにドアを開ける。その向こう側には夕闇。すっかり日も短くなってきた。
上着だけ着て、本日初めての外出。鍵を閉めて階段を降り、住宅街の中をあてもなく歩き始める。
「今日はどうだった?」
お決まりの問いから始まる会話。学校帰りの子供に話しかける親かよ、とは思うが実際これが気になってしまうものだ。
家を出て帰って来るまで、嫌なことはなかったか、楽しかったことはあったか、なにもなくていいのだけど、なにかあったら教えてほしい。そういう諸々の思いを含めた結果が、あの問いなのである。
「今日も一日平和でした。まる」
「それはなによりです。まる」
のほほんとした返しに安心して、ついでに手を繋ぐ。寒い日だから、繋いだ手はポケットの中に。こうすれば寒くないって、ネットにも書いてあったしな。
「……」
悠羽は目を丸くして、ぱちぱちと瞬きをしている。
「どうした?」
「な、なんかこれ……ちょっとドキドキする」
マフラーで口元を隠してはいるが、目は恥ずかしげながらも笑っている。
その表情を見て、今更ながら俺も我ながら小っ恥ずかしいことをしていることに気がついた。
「……や、やめとくか。別に今日、そんな寒くねえし」
「なんで。やだやだ、このままがいい」
「ガキみてえな粘り方」
「3月までは子供でいようって決めたから」
「まあまあ面倒くさい開き直り方してるな!?」
「嘘かも」
「なんで自分でわかってないんだよ」
「ふふ。なんでだと思う?」
「うわダルっ」
「ダル言うな!」
「面倒くせえ」
「面倒くさいも禁止!」
「……はっ! くだらない、ならどうだ」
「ひらめいてそれ!? 地味に一番傷ついたんだけど!」
「可哀想で可愛いな」
「うぅぅ……この人ドSだよぉ」
しくしくと泣き真似をする悠羽は、言葉に反して楽しそうだ。手慣れた冗談の言い合いは心地よく、俺も自然と笑顔になれる。
軽口の言える空気の中で、どこか茶化すように悠羽が問う。
「六郎にとって、私は子供?」
だが、それが表情に反してしっかりした疑問であることは想像に難くない。俺と彼女の関係性なら、特に気になって仕方がないだろう。
だから、なるべく正しい言い方を模索する。
「今はまだそうかもな。だけどお前が、いつまでも子供じゃないこともわかってるよ」
この小さな手が、俺をここまで連れてきてくれたことも、救ってくれたことも忘れちゃいない。子供扱いするのは、侮っているからではないのだ。ただ大切だから、そうしているだけ。
「そっか。なら今は思う存分、年下彼女として楽しませてもらおっかな」
「いや年下は一生このまんまだからな」
「そんなことないよ。いずれ同い年彼女になって、最終的に年上彼女になるんだから」
「年上彼女……? 悠羽が?」
「あ、今絶対『こいつには無理だ』って思ったでしょ」
「無理だろ。性格的に、お前はお姉さんじゃない」
「はあぁぁ? いちおう私、長女なんですけど!」
「黙れよ末っ子」
「うぐぅ」
悔しげに唇を噛んで、それでも謎に少女は食い下がる。
「でも、できるかもしれないじゃん。私にだって、お姉さんの才能が」
「そこまで言うならやってみろよ。言っておくが、俺はお姉さんには厳しいぞ」
エチエチお姉さんドリーマーとして長年やってきたので、理想が肥大化してすごいことになってはいる。
まずボインボインのバインバインじゃないと駄目なのだが、そこは目を瞑るとしよう。将来的にそうなるかもしれないしな。知らんけど。
大事なのは、しっかりとリードしてくれる頼もしさだ。果たして悠羽に、それを再現できるだろうか。
「おほんっ、えーっと……。お姉さんがご飯作ってあげる」
「いや、ただのお前じゃん」
「ち、ちがっ! 今のは練習だから。本番は次!」
「ほう」
「お姉さんが――」
「主語を『お姉さん』にすればいいってわけじゃないからな。念のため」
「邪魔しないで!」
「へいへい」
「……ならやめるけど。おほん。わ、私が添い寝してあげる」
「いつもの願望やんけ」
「ちっ、違うし! お姉さんとして、寝れない六郎のためを思って提案してあげてるんだから。全然、意味が変わってくるの!」
「わかったわかった」
「絶対わかってないじゃん!」
「わかってないわかってない」
「適当っ!」
なにやら必死な姿が面白くて、ニヤついてしまう。彼女の目に俺は、さぞ邪悪に映っているだろう。
ポケットの中で手を繋ぎ直す。絡めた指が悠羽の不満を表すように暴れるので、手のでかさで包み込んだ。
むっと見上げてくる悠羽が、
「ずる」
と言うが、さてなんのことやら。と肩をすくめてみせる。
実際問題、ずるくはないはずだ。悠羽は可愛い。俺は手がでかい。それぞれの武器で、相手を黙らせているだけだ。世界は平等にできている。
「そういえば、例の怖い夢ってのはさ……俺がいれば見ないで済むのか?」
「……六郎は、悪夢を見ることってある?」
「あんまりないな」
首を横に振ると、悠羽は俯いて寂しそうに。静かに身を寄せて口を開く。
「嫌な夢を見るとね、いっつも変な時間に目が覚めるの。外はまだ暗くて、六郎も寝ちゃってる時間。一人でいるしかなくて、眠れなくて……怖いのが忘れられない。ほんと、私って子供だよね」
「どんな夢だ、それ」
「六郎が……いない夢」
繋いだ手に力がこもって、悠羽が儚げに笑う。
「なんて、変だよね。六郎はもうどこにも行かないのに」
「……それは、俺が横にいれば解決するのか?」
ため息を混ぜて聞いてみると、彼女はぽかんとして何度か瞬きをする。突然すぎて、頭が追いついていないらしい。
「一緒に寝ればいいのかって聞いてるんだ。それで解決するなら、そうすればいい」
「いいの?」
「……わからん」
言ってみたものの、今度は俺が眠れなくなる可能性も否定できないわけで。
まあそこのバランスは、後々考えればいいか。
優先事項は、いつだって悠羽だ。