101話 甘えたいだけ
暖房をつけずに寝ているから、寝起きは顔が冷たい。それにしたって今日はやけに鼻が冷えて、つんと張るような痛みを感じる。
「今日寒いな……」
「ね」
布団から出した左手で、鼻先を温める。すると真横からがさりと音がして、耳元で蕩けるような声が聞こえた。
右腕がやけに温かいので気がついていた。やれやれとため息をついて、壁を見ながら声を出す。
「おい」
「はい」
「なんで入ってるんだよ」
「寒かったから」
「いやまあ寒いけどな」
「六郎は私が風邪を引いてもいいの?」
「それとこれとは話が違うだろ!?」
「違わないんだもんねー」
やけに上機嫌な様子で、肩に頭を乗せようとしてくる。仕方がないので腕を伸ばして、枕として貸してやる。ついでにちらっと首を向けると、ようやく目が合った。まだ制服に着替えていないらしく、無防備なパジャマ姿だ。
目を細めて、悠羽が脱力した笑みを浮かべる。
「おはよ」
「ん……おはよう」
この距離でそんな顔をされたら我慢できるはずもなく、流れで抱きしめる。三十秒ほどで満足して、のっそり起き上がる。
布団の上で座ったままぼんやりしていると、頬にそっとキスされた。目が合うとしたり顔で唇に手を添え、
「すきあり、です」
と微笑む。
そこにきてようやく、なにかがおかしいと脳が回り始める。
「待て、待て待て待て」
「なに?」
「それはこっちのセリフだよ」
「んー……別になにもないけど」
「ほんとか? 嫌なことでもあったんじゃないか」
「嫌なことがないと、甘えちゃダメなの?」
「ダメじゃないが」
「でしょ」
嬉しそうに声を弾ませて、悠羽が抱きついてくる。俺の右肩に頭を乗せているから、密着している。
さすがにもう慣れたが、こうしていると悠羽の胸が意外とあることに気がつかされる。貧かと思ってたらちゃんと存在してるんだよな。
……ああ。やっぱりまだ、悠羽でエロいことを考えると罪悪感が湧く。
この罪悪感に救われて、まだ手を出さずにいられているわけだが。いつまで持つかわかったもんじゃない。
なんとか心を無にしていると、横から甘いささやきが聞こえてくる。
「好きって、ちゃんと伝わってる?」
「伝わりすぎて混乱してる」
「ならよかった」
「お前が思ってるより、ちゃんと伝わってるぞ」
「嘘だ」
「嘘じゃねえよ」
日頃の行いのせいで以下略。
やれやれと呆れるフリをして、少女の背中に手を回す。
それからしばらくしても、一向に悠羽は離れる気配がない。
「そろそろ――」
「だめだよ」
甘く、けれどぴんと張り詰めた声に遮られる。
「六郎は、私の側にいなくちゃだめなんだから」
どこか切羽詰まった、寂しげなトーンに胸が締め付けられる。理由は知らない。俺にとってはなんの脈絡もない。けれど彼女がなにかを恐れているなら、俺はそれが許せない。
だからできるだけ平静を装って、なんでもないことのように告げる。
「なに当たり前のこと言ってんだ」
「……たまに確認しないと、忘れちゃうかなって」
「忘れねえよ」
肩をそっと掴んで、お互いの顔が見えるところまで離れる。
俯いた少女は、照れ隠しなのかどこか不服そうにしている。
「お前こそ、ちゃんとこれからも俺のところに帰ってこいよ」
手を伸ばして髪を撫でると、悠羽は小さく首を振る。
「……ごめん。ちょっと怖い夢見たの」
「もう大丈夫か?」
「うん。平気だよ。ありがと」
悠羽は立ち上がって、ドアを開ける。朝食のいい匂いが部屋に流れてきて、自分が空腹であることを自覚する。
「冷めちゃったから、温め直すね」
「ありがとな」
「いいのっ!」
ぱたぱたとキッチンに入っていく背中を見つめて、それから俺も部屋を出た。
鏡を見て、歯を磨いて、顔を洗っている間もずっと考える。だというのに、なにが彼女を不安にさせたのかわからない。
やっぱりフリーランスと結婚するのは不安なのだろうか……。