10話 サラブレッド
あのアホ (悠羽)は、返信の間隔を引き延ばせば俺が現れると学んだらしい。
五月が終わるまでに二度、その方法で呼び出された。気温が30度を超える日はけっこうあって、どうせ大丈夫だろうと思っても気になってしまうのだ。
オオカミ少年だって、最後は本当にオオカミが来たわけだし。
私服の件はというと、ひとまずカーディガンを上から羽織るという結論になったらしい。鞄を学校のものじゃなくすれば、図書館には入りやすいんだとか。
……図書館いけるなら呼ぶなよ。とは思うが、あいつも暇なのだろう。相変わらず一人でぷらぷらしているらしい。
学校に行かない理由については、聞く前にはぐらかされてしまう。まったく、誰に似たんだか。
窓の外は晴れている。
梅雨入りして、ここのところ雨続きだったから珍しい。
そんな日に、『ゆう』からこんなメッセージが来た。
『今日は学校、午前中だけなんですよ』
「お前は学校に行ってないだろうが」
つい突っ込んでしまう。リアクションさせられて、なぜか負けた気分になった。
そのまま無視してやりたい気持ちを堪えて、改めて見返す。入っている情報は、今日、午前中授業であるということだけ。
「どうしろって言うんだよ、これは」
頭を掻いて考える。
結局、あの日以降も『サブロー』と『ゆう』は会話を続けている。お互いに完全に気がついていることには触れず、今まで通りを装って。
だから、悠羽からのメッセージはひどく迂遠で、解読に手間がかかるのだ。一時間かけて考えて、結局なにもなかったときはキレそうになった。
今回のは、なにもないってことはないと思うが……。
ううむ。これはなんだ。一体全体、なにを伝えようとしてるんだこいつは。
午前中授業、四時間授業、午後はなし、13時には帰宅……すると、どうなる。
「なるほど。弁当持ってない、か」
帰宅してから昼食をとるから、母が弁当を作っていない。堂々と帰ればいいのだが、家の鍵を持っておらず、家に入れなくなった。金もないから助けてくれ。
そういう意味だろう。
「……なんか買ってってやるか」
空腹でも死にやしないが、いいこともない。
むしろ変なダイエットをしていないみたいで安心した、と納得するべきなのだろう。さすがにそれは無理があるか。
まったく、こんな姿を圭次に知られたら、過保護だと笑われてしまう。
なんてことを思っていたら、ちょうどその圭次からメールが来た。
噂をすれば影がさす、ってやつか。メールボックスから内容を確認。
『新田圭次
件名:やばい
本文:奈子ちゃんにフラれちゃいそう。相談したい。夜電話してくれ。』
「やったぁああああああ!」
じめっとした梅雨の空気を吹き飛ばすようなグッドニュースに、思わず声が出る。
両手は自然にガッツポーズになり、天井へ突きつけられる。陸上競技で新記録を達成したアスリートみたいに、上を見て最高の笑み。
落ち着いてまたメールを確認して、圭次がちゃんとフラれそうになっていることを確認。
うん。ちゃんとピンチになってる。
やばい、めっちゃ嬉しい。居酒屋での屈辱があったからか、いつもの倍以上嬉しい。
なんか恋愛をわかったふうに「サブはな、やっぱ自分からいかないとダメなんだよ。女の子ってのは、男から来てほしい生き物なんだからさぁ」とか上から講釈垂れてきたあいつがフラれそうとか、笑いが止まらん。
「ふはははは」
とか、悪の幹部みたいな声になってしまう。一人暮らしでよかった。お隣さんが昼間は仕事でいなくて本当によかった。
とんでもなく高価なプレゼントをもらったような気分だ。陰湿な喜びじゃなくて、清々しく嬉しい。やっぱり持つべきものは友達だな!
気分がすこぶる良くなったので、今日の昼は奮発しよう。
こうやって、世の中のバランスは取られていくんだ。
◇
たまに自分へのご褒美に使う店は、一年とちょっと前に働いていた場所でもある。
住宅街の中にある小さなパン屋、サラブレッド。
お世辞にも立地がいいとは言えない場所に店を構えているが、そのクオリティの高さから客足は絶えない。お値段もなかなかで、中年以降のマダムをメインターゲットにしているらしい。
入店すると、レジで会計をしていた店長、橋本紗良さんがこっちに気がつく。
黒縁の丸眼鏡をかけた、一見優しそうな三つ編みのお姉さん。
だが、その本性は競馬中毒者。仕事場から出れば競馬新聞にかじりつき、店が傾きかければ競馬で費用を補填する。
サラブレッドという店名も、紗良という名前じゃなくて馬から連想したらしいから本物だ。
前のお客さんに「ありがとうございました」と言うと、カウンターから出てきて話しかけてくる。店内の客は俺しかいない。
「どうしたのサブローくん。なにかいいことでもあった?」
「ふふっ、紗良さんはなんだと思いますか」
「そうね。仕事が上手くいったとか」
「そのくらいじゃこんな笑顔にはなれませんよ」
「あら。じゃあ、彼女ができたとかかしら」
「惜しいですね」
実に惜しい。ニアピンだ。
「俺に彼女ができたんじゃなくて、友達が彼女と別れそうなんです」
「どこが惜しいのよ」
めっちゃ冷めた声で言われた。
だが、紗良さんはすぐに表情を変えて少し考え込む。顔を上げ、
「もしかして、その友達の彼女が、サブローくんの好きな子?」
「いえ、一回会っただけの他人です」
「なんなのよもう」
純粋に俺が友人の不幸を喜んでいるやべーヤツだと伝わったらしい。紗良さんは腰に手を当て、ずり落ちた眼鏡を持ち上げる。
「そんなことしてると、その友達にも嫌われちゃうわよ」
「ああ、大丈夫です。だってあいつ、俺に彼女がいるとき毎日のように『別れろ別れろ』って囁いてきましたから」
「類は友を呼ぶってことなのね」
鷹揚に頷く。
そうだ。俺と圭次は、お互いにお互いの足を引っ張り合う運命共同体。根っこのゴミカス具合が共鳴するので、なんだかんだ長続きしている。
「そういうわけなので、今日はいい日なんです」
「ちなみに私は一ミリも理解してないわよ」
「でも紗良さん、自分が賭けた馬以外は負けろって思うでしょ」
「当然じゃない」
「そういうことですよ」
「そういうことではないでしょう」
真顔で反論されてしまった。まあいいだろう。
別に俺は、そんな話をしにきたわけじゃないし。いちおう、待たせているやつもいる。
「昼飯用のパン4個と、甘いの2個買いたいんですけど。オススメ選んでもらっていいですか」
「おかしいわね、一人分にしては量が多い」
「後輩に相談事持ちかけられてしまして。紗良さんのパン食わせてやったら、気も晴れると思うんですよね」
「相変わらず、スラスラと嘘をつくわねえ」
紗良さんは目を細め、面白そうに口元を横に広げる。俺もこんな雑な嘘で騙せるとは思っていないので、視線を逸らして半笑い。
紗良さんは俺の代わりにトレーとトングを持つと、迷いなくパンを載せていく。
「ほら、女の子が好きなの中心で選んどいたから。気合い入れていきなさい」
「や……ほんと、そういう相手じゃないんですけど」
「すーぐ嘘つくんだから」
「これが嘘じゃないってのはわかるでしょ」
まったくこの人は、俺をからかうのがよっぽど好きらしい。
会計を済ませて、袋に入れてもらう。パン屋の紙袋を抱えて歩くのが好きなのは、きっと俺だけじゃないはずだ。
紗良さんはふわっと笑った。眼鏡の奥で瞳が柔らかく曲線を描く。
「でも、大切な人なのよね」
「なんでそうなるんすか」
「だって君、予算すら言わなかったじゃない。その人が喜んでくれるなら、なんでもいいと思ってるんでしょ」
「……まったく、これだからおばさんは」
「あっ! ちょっと待てい! 料金10倍だぞ!」
「また来まーす」
トングを振り上げて襲いかかってくる紗良さんから、脱兎のごとく逃げ出す。
サラブレッドを出て、真っ直ぐな下り坂を駆け下りた。