第二話「脱出」
季節は巡り、春。
村を脱出するには丁度良い季節です。
ですがこの頃のワタシには、もうあまり時間がありませんでした。
ワタシはもはや青年期を終える間際。
ゴブリンとして成熟する直前だったのです。
ワタシに群がっていたゴブリン達は、ワタシの成熟を今か今かと待ち構え目をギラギラと光らせていました。
それだけでも気が気で無いのに、その頃にはボスゴブリンまでもが様子を見に来ていたものですから、堪ったものではありません。
もういつ襲われてもおかしくない状況。
ワタシは大いに焦りました。
決行は、次の狩りの時。
いくら魔法が使えるとはいえ、あの数のゴブリンの目を掻い潜り撒いて逃げるなんて、相当に骨が折れるに決まってましたし、そもそも魔力が持つとは思えませんでしたからね。
少しでもゴブリンが少なく、なおかつ脱出するのに適した場所にいられるのは、狩りの時だけでした。
朝も昼も夜も関係なく囲まれていたワタシには、もうそこしか残されていなかったのです。
決行当日、狩りの時。
ワタシはいつも通り数名の先輩ゴブリン達と共に、森の奥へと入り獲物を探していました。
獲物に気を取られていた方が逃げやすいと考えたからです。
村のボスゴブリンに報告されるまでの時間を稼ぐ為にも、できるだけ村から離れる必要もあったので、見つけたら奥へと追いやるように狩りをするつもりでした。
しかしそんな時に限ってどれだけ奥へ奥へと進んでも、一向に獲物が見つからなかったのです。
小さな動物の一匹さえもそこにいる気配が無く、森は妙な静けさに包まれていました。
何かおかしいと思ったのでしょう。
先輩ゴブリン達は周囲を警戒しつつ、村の方へと引き返し始めてしまいました。
ここが潮時かと思い、ワタシが逃走の準備をしようとした、
その矢先、
「ンギャアッ‼︎」
先輩ゴブリンが、吹っ飛ばされました。
死角からとんでもないスピードで突っ込んできたのは、イノシシの魔物。
通常より大きな体と牙、赤黒い体色から魔物であるのは明らかでした。
突進のスピードを見るに、背を向けて逃げられる相手では無いと判断し、武器を構えて戦闘態勢に入りました、が。
「イギッ‼︎」「ギャバッ‼︎」「ゲブッ‼︎」
先輩ゴブリン達は、一匹、また一匹と吹っ飛ばされ、遠くへと転がされていきました。
一応、狩りの主要メンバーではありましたから、突進される直前に後ろに飛んで、勢いを殺している様に見えたのは、流石です。
しかし、相手が悪かったのでしょう。
無事で済んでいないだろうとは、すぐにわかりました。
辺りを見渡し、遠くで転がっている先輩ゴブリン達を確認した後、イノシシの魔物へと向き直ります。
いよいよ、ワタシ一匹だけになってしまいました。
村の中で耐え忍び、機会を待ち、ここまで来て、まさか最後の最後でこのような事態になろうとは、ワタシは思いもよりませんでした。
当時のワタシは思います。
ワタシはなんて、なんて、
運が良いのだろう、と。
ワタシは巡ってきた運に感謝しつつ、自らに“認識阻害”の魔法をかけました。
「ゲギャギャギャギャギャギャギャギャッ‼︎」
あざ笑うように声を発し、ちょこまかと逃げ回りながら、ダメージにもならない小石を何度もぶつけ、挑発します。
現れては消え、消えては現れ、当たっている筈なのに当たらない。
揺らいで、ズレて、外れるばかり。
イノシシのボルテージはみるみる上がっていき、スピードとパワーは更に増し、なりふり構わず突っ込んでくるようになりました。
猛烈な勢いでこちらへと突進してくるイノシシ。
もうきっと、理性も欠片程しか残っていなかったでしょう。
ワタシはその最後の欠片を取り除くように、仕上げとして、イノシシに“幻覚”の魔法をかけました。
魔物は普通の動物と比べ体が丈夫で、力が強く、凶暴性が高い傾向にある為、とても危険な存在です。
怒りで我を忘れてしまっている場合などは、対象を八つ裂きにするまで、いえ、八つ裂きにしてなお暴れ散らし、凄まじい馬鹿力を発揮します。
それこそ、自らの体を破壊してしまう程の。
一直線へと駆け出したイノシシの目にはきっと、手を叩きその場を動かず大笑いする、ワタシによく似たゴブリンが映っていた事でしょう。
それが物言わぬ大岩だとも知らずに。
ドガアアアアァンッ!!!!
辺りに轟音が響きました。
大岩にはヒビが入り、イノシシの頭は割れ、おそらく首も折れていた事でしょう。
それ以降、ピクリとも動かなくなりました。
日は既に傾き、空は赤く染まっていました。
魔物の例にもれず、体が丈夫な先輩ゴブリン達は怪我こそすれど、ただ気絶しているだけのように見えました。
きっと、当たりどころも良かったのだと思います。
丈夫でしぶとい先輩ゴブリン達は、おそらく、もうすぐ起きあがってくる。
今しかない。
イノシシの魔物を村への最後の置き土産とし、ワタシは森の奥へと走りました。
先の見えない一抹の不安と、それを掻き消す晴れやか気持ち。
胸を占める高揚感に突き動かされ、
ワタシは村から、脱出したのです。