第百七十二話「井戸の中」
「ふむ。これがペタルの言っていた例の井戸ですか…」
そう言いながら井戸を見る。
一見すれば何の変哲も無い、ただの苔むした古い井戸。
ですが中を覗きこんでみれば、長年 誰の手も入っていないにも関わらず、底が見える程の澄んだ水が張っていました。
「放置されていたのならもっと澱んでいてもおかしくないのですが…これも“出入り口”が出来ている影響なのでしょうか?」
『さぁね?分かんないけど、まぁそうなんじゃない?開いてない時は、そもそも水も入ってないしぃ』
「なるほど」
改めて井戸を見る。
大きさは一般的な井戸と同程度。
とても大きいわけでもなければ小さいわけでもない。
ワタシやラナンさん、チャロアさんとファルケさんなら、楽々と中に入れるように見えました。
しかし。
「…ギルベルトさん、入れそうですか?」
「ふむ…」
ギルベルトさんは体格が良い。
その上、全身に鎧を着込んでおり大剣まで背負っている。
正直、ギルベルトさんがそのまま井戸に入るのは、少し無理があるように思いました。
「ギルベルトさん、よろしければ大剣だけでもワタシが中に持って入りましょうか?幾分かマシになる筈です」
「そうだな…後は鎧を外せば、なんとか…」
『あら、そんな必要ないわん』
呟くギルベルトさんに、ペタルが口を挟みました。
『ギルベルトちゃんには、この井戸はちょっと小さいかもだけど、まぁそのくらいなら問題ないわよ?入りたいと思えば、入れちゃう筈だわ』
「そういうものか…?」
『そういうもんなの』
“出入り口”、“なりそこない”、“妖精の小道”等、色々な呼び方をされていますが、ようは空間に空いた穴。
当然のように空間が歪んでいますから、少しくらい穴より大きくても問題ないようです。
『で、中に入るんでしょ?薬、飲まなくていいの?」
「そうですね」
ワタシ達はペタルに促され、妖精の飲み薬を取り出しました。
互いに顔を見合わせて、頷き合い、飲み薬の入ったビンの蓋を開け、一気に飲み干す。
薬が喉を通り、胃へと入っていった端から、即座に体に馴染んでいく感覚がありました。
トニックさんから即効性のある薬だとは聞いていましたが、これ程までに素早く馴染む感触があったのは、おそらく、作り手がフィズさんだからなのでしょう。
薬を飲み干し、数十秒後。
薬が体に馴染み切った感覚の後、ペタルが口を開きました。
『…さっきも言ったけど、中に入ったらもう引き返せないからね?』
「えぇ。分かっておりますとも」
ペタルに返事をした後、ギルベルトさんに向き直る。
「ギルベルトさん、まずはワタシが中に入ります。体に何事も無ければペタルに伝えますので、その後に入ってきて下さい」
「分かった」
「では」
そう言い残し、ワタシは井戸の縁を乗り越えて、足から井戸の中へと飛び込みました。
バシャリ。
と、水の中に落ちたかと思えば、全身が落下の浮遊感に襲われる。
視界が歪み、ボヤけ、上から差し込んできていた光が反転し、足元から水面が見える。
少しすると、落下の浮遊感が徐々に無くなり、ワタシはゆらゆらと揺れる水面へと降り立ちました。
「…ふむ」
足元には、光が差し込む水面。
頭上には、井戸の底。
左右と後ろには、井戸の壁。
そしてそれらに纏わりつくように水が張り付いており、目の前には歪み続ける一本道。
向こうまで見通せる筈なのに、妙にボヤけて先が見えない。
体は濡れておらず、息も出来る。
体に異常は無い。
ワタシは無事に、井戸の中の“なりそこない”に入れたようでした。




