第十話
……そして。
ナッツ少年はその直感が背中を押すままに腰を上げ、半ば無意識のまま、右足の裏に傾いた【聖盾】を生み出し、息を吸い出しながら己の身体に【軽量】の魔術をかけ……
「……ぁああっ!」
肺胞の奥から全てを吐き出し、全身の力を使って身体を前に蹴り出すと同時に、【爆破】の魔術で全身を加速する。
全身にかかる凄まじい加重によって、ナッツの身体中は悲鳴を上げ、そればかりか彼の視界は真っ暗に染まっていたが……それもこの数日で何度も味わったものであり、その程度の問題で少年の動作が鈍ることなどありはしない。
「……ナッ?」
眼前の小動物を嬲り殺すことしか考えていなかったブラデッドが、その凄まじい加速に反応した時には、既に少年の……いや、小柄な戦士のその身体は凶器である十指の懐へと潜り込んでいる。
直後にナッツは【増量】の魔術をかけて自重を数倍へと変えると同時に、大きく踏み込みながら【防護】の魔術で覆った拳を真正面に突き出し、その勢いを殺さないままに直撃の瞬間に身体を硬直させて全体重を拳に込める。
そうして放たれた最強の一撃である【牙突打】は、完全なタイミングで魔王軍六魔将ブラデッドの胸骨を捉えていた。
直後に、パァンという乾いた音が鳴り響いたかと思うと、黒き衣を身に纏った骸骨は胸を中心に完全に破壊されており……実は頑強な胸骨に護られたその中に、ブラデッドを構成する闇のオーブが隠されていたのだ。
湧き上がる魔力の核であり、一度は死した闇の屍操術師の意識を埋め込んだ中枢でもあるそのオーブを破壊された以上……不死を名乗るブラデッドであろうとも、その偽りの生命を維持することは叶わない。
「馬鹿……ナ……」
それが、闇の屍操術師ブラデッドの最期の言葉、だった。
勇者の光の剣や聖女の聖魔術、至近距離で放たれた老師の魔術さえも防ぎ切ったブラデッドが誇る『闇の衣』も、勇者も聖女も老師をも倒した『闇の魔術』すらもその拳の前では無意味でしかない。
事実、その一撃はただの拳でしかなかったが……如何なる行動よりも早い神速の、如何なる防御をも貫く一撃必殺の拳だったのだから。
そして、闇の屍操術師が失われたことにより、城塞都市ガーディアを襲っていた七千余りのアンデッドは即座にただの屍へと戻り……つまり今この瞬間に、城塞都市ガーディアはただの少年であるナッツの【牙突打】によって救われたのだ。
……だけど。
「……ぁああっ?」
それほどの一撃を放って、少年自身の拳が無事である筈もない。
事実、先ほどの一撃を放った瞬間、周囲にはパァンという乾いた音が響いていたが……拳を放ったナッツ自身の耳には、肩口辺りからグシャリという鈍い潰れた音が響き渡っていたのだ。
だと言うのに痛みどころか全く感覚のない……腕そのものが消えてなくなったかのような感覚の無さにナッツは己の右手へと視線を向け、その腕の無惨さにただ絶句することしか出来なかった。
「オレの、拳が、腕がぁああああああっ?」
魔王軍六魔将を一撃で葬り去った少年の腕は、それはもう酷い有様だった。
一撃必殺という武術家の本懐を実現したその小さな拳は完全に潰れ……手の甲にある中手骨は完全にへし折れて手の甲を突き破ってはみ出しているし、指を形作る基節骨も砕け四指全てがあり得ない方向を向いている。
それどころか、前腕の尺骨と橈骨とが折れて皮膚を突き破っている上に、右腕の肘関節までもが折れて上腕がぷらぷらと固定されないままとなり、更に右肩までもが脱臼している始末だった。
「ぅぐ、ゃぁあああああああああああああああぁぁぁぁっ!」
道場でそれなりに怪我をする機会はあったにしろ、骨折などの大怪我など一度も経験したことのなかった少年は、生まれて初めて味わう激痛に悲鳴を上げ、ただ涙を流しながらその場でのたうち回ることしか出来ないのだった。
「……何だ、今の、は」
そうして少年が悲鳴を上げてのたうち回っている中、眼前の光景を全く理解できない勇者は静かにそう呟いていた。
少年が出てきたことは、分かる。
少年が土下座したことも……理解は出来る。
だけど、次の瞬間……何やら爆発音が響いたかと思うと、土下座していた筈の少年が消え去り、魔王軍六魔将が一人ブラデッドが滅び去っていたのだ。
光の勇者と呼ばれたカシュー王子が全力で光の聖剣を何度も何度も叩き込んでもダメージすらろくに与えられなかったあのブラデッドが、たったの一撃で、だ。
「……化け、物……」
そのあり得ない事態を実現する存在を勇者カシューはその一言以外には知らなかったし……そもそもあの少年がどういう経緯でこの場所に出てきたのかも、何故魔王軍六魔将と敵対したのかも、その挙句、どんな技術を用いて闇の屍操術師を一撃で葬り去る快挙を成し遂げたのかも、何一つとして知る術を持ち合わせていない。
ただ一つだけ分かるのは……幸いにしてその常識を殴り壊すほどの化け物は、王国に従い魔王軍と戦ってくれた、ということだった。
だからこそ、カシュー王子は決断を下す。
あの少年を……人類を救うことになるだろうあの規格外の存在を、国際情勢すら理解できず権力争いばかりしている兄たちや貴族共から秘匿し、何としても手元に置かなければと。
「……真の、勇者様」
勇者の隣で同じ光景を眺めている聖女ヘーゼルの口からは、同母兄とは真逆の言葉が呟かれていた。
絶望の最中にあった彼女を、我が身を犠牲にして救ってくれた……恐怖に震えながら、怯えながら、それでもなおあの少年は、死が具現化したとしか表現できないあの六魔将を相手に立ち塞がってくれたのだ。
……屍の群れに純潔どころか魂までも穢されそうになった、自分のために。
だからこそ……神に選ばれた筈の自らの兄ではなく、眼前の少年こそ「真の勇気ある者」であると認め、そう呟いたのだ。
そもそも神託があった当初から、「聖女は勇者と結ばれる」という初代勇者の伝説に憧れていた彼女は、実の兄が勇者という事実から目を背け……そんな神託などシーズ王家によるでっち上げのプロパガンダ、もしくはカシュー王子など本当の勇者様を隠すために神によって選ばれた「道化役」でしかないと考えていた。
そんな背景があったからこそ、聖女ヘーゼルの口からそんな呟きが毀れたのだが……生憎と奇跡が実現したこの瞬間、その場にいた誰一人として彼女の小さな呟きを意に介す者はいなかったのである。
「何だ、あれは。
何だ、あれはっ?」
時を同じくして、上空から弟子という名の被害者を眺めていた月という名の妖精は、言葉を荒げながらそう叫んでいた。
実際……彼には武術を学んだこともなければ、武術のいろはすら知らなかったのだ。
要するに彼は、口から出まかせで適当なことを吐き、それっぽい理論で一人の少年から食料をだまし取っただけでしかない。
だけど、その出まかせは何処で何をどう間違えたのか、うっかりと少年の才能を開花させてしまったのだ。
だからこそ、この結果は自称「武の妖精」から見てもあり得ない出来損ないの冗談のようにしか見えず……月という名の妖精はただそんな困惑を呟くことしか出来やしない。
「……やべぇ。
騙したことがバレたら、確実に殺されるぞ、俺」
そして、その一撃の凄まじさに完全に腰が引けた月は、この場から早急に離れ、この辺り一帯には二度と近づかないように心に刻み込む。
もしアレが自分へと向けられた場合……跡形すらも残らずに砕け散る自分が幻視出来てしまったから、だ。
そうして動いていた死者が操り手を失ったことにより崩れ落ち、一面の死体の山となった地獄ような戦場から、小さな妖精が一匹、飛び去っていったのだった。
「……見事、だ」
全身を襲う灼熱に苛まれながらも、ウォーナットが弟子の一撃を目の当たりにした時に零れ出たのは、そんな賞賛の一言だった。
勿論、彼の弟子が体現した「一撃必殺」は技というには未熟過ぎ、武術というには稚拙過ぎる代物だった。
本来の武術とは、如何なる状況にあっても、様々な攻撃を受けたとしても、たとえ不意を打たれたとしても、己の身を守り切る……そういう技術であるべきなのだから。
だが、しかし……武術の本質が「不意の暴力から身を守り生き延びるための技術」である以上、相手が何もさせない内に一撃で葬り去るその技は武の本懐にして集大成とも言える。
しかも自分自身が教えることのなかった技を……いや、己自身が理想として思い描きながらも形にすら出来なかった技を、僅か数日の間に、弟子が考え鍛え上げ実現してしまったのだ。
「今日をもって……お前は、免許、皆伝、だな」
遥か格下の弟子に追い抜かれたというのに……老師の胸にあったのは一抹の安堵だった。
武術を学び続け、最強にして無敵の技などという理想を夢見ながらも実現には遠く、歳と共に衰えて来た身体を嘆き、それでも積み上げてきた技を捨てられず弟子へと教え……そうして続けてきた日々を、努力を、弟子が一瞥もせずに駆け抜けていってしまう。
今まで積み上げて行った全てが水泡と帰した徒労感と、それでも理想の足掛かりとなったことで無駄にはならなかった安堵。
その両者の狭間で老師は大きく息を吐き出し……最期に弟子の輝ける未来を予見して微かに笑みを浮かべると、全身の力を抜いて瞳を閉じたのだった。
この日、この時こそ、【一撃必殺】の英雄が歴史に名を連ねた瞬間だった。
魔王軍を退け、勇者や聖女と共に人類を救った最強の英雄。
だけど、その少年は未だ自らを襲い続ける激痛に泣き喚き、ただ草原を転がり続けることしか出来なかったのである。
2020/10/22 20:58投稿時
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