第一話
「反射が遅いっ!」
そんな叫びと共に放たれた師の右拳は、まだ十代半ばという歳の頃の茶髪の少年……ナッツの必死の防御を意にも介さずに滑り込み、左頬へと叩き込まれる。
「身体能力が足りんっ!
魔術の練りも悪いっ!」
その手加減されているだろう一撃でふらついたナッツは、追撃とばかりに師に体当たりを軽く喰らっただけでぐらつき、慌てて姿勢を正そうとしている隙に頭部を掴まれ、至近距離で【爆破】の魔術を叩き込まれる。
勿論、それらの攻撃は十分に手加減されており……細身の少年が師の体当たりで吹っ飛ばなかったことや、【爆破】の魔術でナッツの頭蓋が柘榴のように砕け散らなかったことがその証拠である。
とは言え、身体がまだ出来上がっていない少年にとって、その衝撃は大男から全力でぶん殴られたのと同等のダメージがあり、とても耐えられるものではなく……
「そもそもの才能がないっ!
貴様のようなクズは破門とするっ!
二度と道場に顔を出すでないわっ!
この街からもとっとと出て行けっ!」
突如豹変した師の連撃と罵倒を前に、ナッツ少年の意識はそこで途切れ……そのまま兄弟子たちの手によって、無情にも道場から放り出されることとなる。
それが、この道場……一時代前に魔王軍と戦い、英雄として名を馳せたこともある、ウォーナット老師が開いた、魔術と武術との融合である『魔闘法』を教える道場からナッツ少年が追放された経緯だった。
「……畜生。
あのクソ爺……」
意識を取り戻したナッツは、街の中を歩きながらそうぼやいていた。
ここ2年間は道場に通っていると言うのに筋骨共に発達していない細見の身体は全身痣だらけで痛む上に、最後の【爆破】によって脳が揺すられたらしく、周囲の景色も揺れて定まらない。
いや、視界がぼやけるのは少年の瞳から流れる汗の所為だろう。
「手加減しやがって。
……そんなこと、分かってるんだよ、クソ師匠。
それでも、オレは……」
そうぼやきながらも、ナッツは師を恨むことなんて出来やしない。
その理由は周囲を見れば一目瞭然で……街の周囲で人々が慌しく右往左往し、ボロボロの少年に誰も見向きをしない有様を見ればすぐに分かる。
「魔王軍、あと5日で到着するってよっ!」
「くそっ、準備は間に合うのかっ!」
「逃げようぜ、戦争なんて無理だっ!」
「馬鹿野郎っ!
相手は人類を皆殺しにしようとする連中だっ!
この城塞都市から逃げてどうするってんだっ!」
……そう。
戦争……しかも、人類を滅ぼそうとして王国へと攻め込んで来ている、悪名高き魔王軍との大決戦が近づいているのだ。
だからこそ、英雄として名の売れたウォーナット師は戦場に出向くことは確実であり、その弟子たちも師に準じた戦働きを期待されている。
そんな師と兄弟子たちの中で、才能がなく年も若く……そして未だに未熟なナッツはバレバレの嘘と手加減だらけの師の拳を喰らい、道場から放逐されてしまったのだ。
それら全てが年若い末弟子を死地へと向かわせたくない、だけど人を率いて戦場に向かう以上、身内を贔屓することも出来ない……先ほどの追放劇は、不器用な師が精一杯頑張って演じた下手くそな道化芝居だなんてことくらい、ナッツも十分に理解している。
それでも、「自分が弱い」という事実から目を逸らせないナッツは、屈辱に歯噛みしながら……自分がどうするべきかを街を彷徨いながら考え、煙を吐くほど考え、考えた末にようやく閃く。
「特訓だっ!
あのクソ爺が驚くような新技を編み出して、見返してやるっ!」
最高のタイミングで横合いから入り込み、強敵と戦ってピンチになった師を助けることで、自分が雑魚ではないことを証明する。
あれだけボコられて、弱さに歯噛みし、悩んで考えた挙句の答えが「特訓して師を助ける」という時点で、ナッツ少年が如何にお人好しで脳筋かを物語っていた訳だが……それでも、未だに人生経験を積み上げている最中の少年には、それが最善にして唯一の道だと思えたのだ。
そして、魔王軍というタイムリミットが迫っているのを知っていたナッツは、今日の内に城塞都市ガーディナを出て、近くの山に籠ろうと決める。
「まずは、食糧だっ!」
思い立ったが吉日とばかりに、ナッツ少年は勝手知ったる自分の家へと飛び込むと、地下にある食糧庫をひっくり返す。
母親が早逝し、行商人の父親も滅多に帰って来ない彼は一人暮らしに近く、日々の食事は屋台での立ち食いばかりで……家に置いてあるのは日持ちのする保存食中心だった。
そんな生活必需品とも言える保存食……硬パンや干し肉、塩漬け野菜などのありったけを、少年はバック一杯に詰め込む。
山籠もりと言えど生活するのであれば、衣食住は必須であり……食料の確保を終えた後に、ナッツが衣類へと意識を向けるのは当然だった。
「着替えは……下着の替え以外はどうでも良いか」
とは言え、この辺りは自分の身なりに全く意識を向けない、がさつな少年ならではだろう。
事実、一人暮らしに近い生活はしていても山籠もりなどしたことのないナッツ少年は山籠もりの手順など知る訳もなく、適当に衣類の問題を流す。
「寝るのなんて、毛布一枚あれば十分だ。
意外と荷物は軽いもんだな?」
当たり前の話ではあるが、山籠もりで一番気を付けなければならないのは雨風を防ぐことと、水の確保……そして食料の確保である。
だけど、山籠もりどころか遠出すらしたことのない街育ちの少年は、それらの常識を全く理解しないまま、家を飛び出してしまう。
「さぁっ、待ってろよ、魔王軍っ!
このオレの新必殺技で、蹴散らしてやるからなっ!」
そんな叫びを上げながら……少年は城塞都市の中を走り、近くの山の方角へと突っ走っていった。
幸か不幸か、城塞都市は近づく戦争を前にして逃げ出す人たちばかりであり……食料をまとめて都市を出ていくという少年の行動はさほど目立つことなく……
結果としてナッツ少年は誰にも咎められることなく城塞都市ガーディナを飛び出してしまったのだった。
……そんな発展途上で才能のない、未熟で考えなしのナッツ少年が英雄と謳われるようになるまで、あと10日を要することとなる。