贖罪
妹は長兄を見送ると、病室へ戻り、眠り込んだ兄の顔を覗き込む。
生気のない顔色。
働き詰めで、消えることのなかった隈。
最後にはっきりと姿を見て、まともに会話らしい会話をした記憶から明らかに悪くなった体つき。ろくにご飯も食べていないことが露呈している。
「兄さん……どうして、私たちに頼ってくれなかったの。そんなに、嫌いだった?」
見ていられない兄の姿に当然の疑問。当たり前だが、彼らは過去に彼がどんな道を歩んできたかなど知らない。知る必要もない。
兄であり、弟でもある彼はスッと目を開く。
戻ってきたのか。
妹は兄と目が合うと涙を浮かべながらも必死に笑みを作った。
兄は真っすぐ、彼女の瞳を射抜く。
不安と、恐怖と、悲愴が混じった、その瞳を。
「……ごめん」
掠れた声で、彼はまた謝った。
「ごめん、な」
鉛のように重い腕を何とか挙げて、妹の小さな頭を撫でてやる。
これが最期にしてやれる、精一杯の兄らしいこと。
妹の痛々しい問いに答えを返してやれない卑怯な兄を、兄と呼ぶならば、の話だが。
俺も、お前たちと向き合おうと思わなかった。今までは、一方的に思いをぶつけて、一方的にいなくなるだけでよかった。それじゃ、ダメなんだな。
俺たち矯正者は言葉足らずだ。よく指摘される。お前たちと向き合っていたら、俺は少しだけでも自分を許すことができただろうか。
お前たちが悪いわけでも、誰かが悪いわけでもない。それは定められたことだから。
ひとつ言うなら、俺はこの世界に何も期待をしていない。そうやって、自分を守っている。自分を守れるのは、自分だけだから。でも、お前たちに背中を預けていれば、俺は人間に戻れたかもなあ。
俺やお前たちがどれほど乞うても、死への歩みは止められない。
誰か、お前たちに守りたいものができたら。俺のことを思い出して、その人を大切にしてほしい。
俺が願うのは、それだけ。
刹那、力が抜ける。撫でていた妹の頭から、手が落ちた。
この家だけが、この家族だけが生きる理由だった。されど、慣れ親しんだ死は、すぐそこまでやってきている。
誰かの一番になりたい。
かつては望んだその願いは、もう永遠に叶わない。
けれど。あんなに優しい彼ら兄妹の幸せのために置かれた存在が、俺だというのなら。
彼らのストレス発散の矛先が俺で、そうすることで彼らが人として成長できたのだというのなら。
それで、十分なのだ。
目の前のレールは、もう途切れている。その先は、奈落の闇。
今世の旅は、此処で終わり。
かっこいい兄さん。可愛い妹。どうか俺を、生きている間だけでも忘れてくれ。お前たちの最期に、俺は迎えに行ってやれないけれど、俺はお前たちが俺に愛情を向けてくれたこと、忘れないから。
お前たちじゃなくて、よかった。こんな辛い役目を、負わされなくて。
俺で、よかった。
僅かに開いていた瞼を下ろし、彼は意識の彼方へ旅立つ。
こうなることが分かっていたから、俺は命を、人間を。嫌いになれずにはいられない。だって、どれほど足搔いても幸せなど望めない。自分が幸せになれないならば、もう周りの人間の幸せを願うしかない。誰かの幸せの糧になることしか願えない。
でもそれが彼らなら、この死もきっと、無駄ではないと信じられる。
確かに俺は彼らを愛し、愛されていた。それだけわかれば、満足だ。
『ホント人間って、馬鹿だよねえ』
彼は矯正者。
家庭にとって優先度の低い立場に生まれ、周囲への献身を任務とし、短命でその生を終えることで残された多人間の心に傷を与える。
そうすることで、愚かな人間は心を入れ替え他人を慈しみ、結果的には世界の救済へ繋がるのだとか。
彼ら矯正者は歪みを作った張本人。贖罪が終われば、彼らは此岸と彼岸の狭間にて、安らかな眠りにつくことになるだろう。
拙い小説を読んでくださった方、ありがとうございます。
この小説はこれで完結です。
次は異世界長編を書こうと考えています。どうぞよろしくお願いします。