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一生嫌命  作者: 水綴
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兄と妹

「ちょっと待って、帰らないって言ったの兄さんでしょ!」

病室を飛び出した長兄はさっさと歩を進め、あとを追いかける妹との距離はどんどん広がっていく。一応病棟なのだ、妹の叫び声は控えめである。

だが兄は振り返りもしない。妹は姿を見失わぬよう必死に追いかける。彼は人気のない談話コーナーでようやく足を止めた。

「兄、さん」

両者は息を切らし、肩を揺らす。

兄は呼び声に反応しないが、その肩の震えは酸素不足のせいだけではない気がした。

「聞いたか?あいつの、答え」

言葉に詰まる。兄さんのあの言葉はどれも嘘ではないのだろう。自分の行動を目の前の長兄の言葉一つで否定されても、兄は反論一つしなかった。全部お前たちのためにしたことなのに、と遠回しに私たち兄妹を責めるでもなく、俺の好きにやってるんだ、と意見を拒否したりするでもない。兄の言葉を肯定して、自分が間違っていたと謝った。聞いていてこちらの心が壊れそうな声で。

「兄さんは、いつからあんなふうになっちゃったんだろうね」

もとから明るい性格ではない。幼少期からどこか大人びていて、ほかの同級生や下手すると目の前の長兄より精神年齢が上に思えた。

過去を探しても、意味などない。だから兄の答えに期待しなかった。

「お前、あいつからもらった金使ったか?」

兄からの問いに、思わず真っ向否定する。

「一銭も使ってないよ……兄さんは、私たちのことなんだと思ってるんだろ」

話しかけに行くたび、彼はお小遣いというには多すぎるお金をくれた。お金がほしい、など一度も口にしたことはない。まるで、それをやるから俺にかかわるな、と壁を作られているようだった。だから、彼ら兄妹は本人の意思を尊重し、受け取りはするが使わないことに決めた。だが。

「俺たちの知らないところで、たぶんあいつは一人傷ついてきた。あいつは誰にも頼ろうとしないから、俺は早く、それに気づいてやるべきだった」

共働きで忙しい両親の代わりに、ずっと弟妹の面倒を見てきた兄が言うのだ、彼はきっと、癒えない傷を抱えている。

「もう、十分大人だから大丈夫だと、思ったんだが…あいつはちっとも大人じゃない…まるで、誰かに生かされている人形みたいだ」

「人形?」

意外な言葉に問いかける。言われるまでそれをやめない、子供だと思ったが。

「あいつは、人間のはずなのに時々人間らしくないことを言って行動しちまう。今回もそうだ。理由が何であれ、死ぬまで働き続けるなんて正気とは思えない。誰かがあいつに、そうするよう仕向けている気がしてならない」

だから、人形。

「そんな……考えすぎだよ、兄さん」

「俺は、人間らしくないことをやってのけちまうあいつが怖かった。誰かが関与している、そうでも考えないと、俺はあいつに向き合えないと思った」

その結果がこれじゃ、兄貴失格だよな、と長兄は自虐的に笑う。脱力したのか、兄はカクンと膝を折って談話コーナーのソファに沈んだ。

「……今朝、あいつを止めていたら。こんな現実、受け入れずに済んだかもしれねえなあ」

俯いて頭を抱えた彼の声は悲痛だ。かけるべき言葉も見つからず、彼女もまた己の無力さをいやでも自覚させられた。

(兄さんがこんなに苦しんでるの、初めて見た)

いつでも完璧で自信に満ち溢れていて、弟妹を大事に思ってくれる兄さん。

次兄がこんな弱々しい兄を見たら、彼は自分のことをもっと大事に思ってくれるだろうか。

(でも、すべてが遅すぎた?)

医者は、退院は望めないと言った。もう、彼があの家に帰って来ることはない?

「兄さん、戻ろう?今からでもいい、兄さんにちゃんと伝えなきゃ」

私たち兄妹が、お金をもらうためだけに早起きなんてするわけがない。本当にお金だけが目的なら、わざわざあなたに声なんてかけずに全部もらっていく。人間ってそういう醜い面も持っているんだよ。でも私たちはそうしなかった。違和感を覚えなかったの?

でも、私たちは兄さんと向き合うことから逃げてしまった。努力をしなかった。だから、これは罰なんだよね。あなたというかけがえのない人を失うことが、こんなにも怖くて悲しい。

「無理だ……こんなにも早く、弟の死を受け入れられねえよ」

先ほどまでの強気な態度はどこへやら。でも、誰よりも彼を思うあなただから、逃げたいと願ってしまっている。ならば、最後の辛い役目は私が引き受けよう。そんなことは償いにならないとわかっている。でも、何もしなかったら私はきっと後悔する。

「そこまで言うなら、いいよ。もう、会えないからね?」

「俺は……元気だったあいつを覚えていたい」

すべてが終わったら、全力で兄を支えよう。鬱病で死んでしまいそうな勢いだから、絶対に阻止してみせる。兄さんも、そんなこと望まないはずだから。

「あとのこと、お願いね」

もう、彼は長くない。明日を迎えることもできないだろう。

兄のアルバイト先や両親への連絡を、兄はせめてもの、といった感じで二つ返事で承諾した。

もう二度と、会えない。無邪気に笑う兄には、もう。

死んだように生きる兄は死んでしまったほうが楽なのかもしれない。

あんなに優しい兄さんは、この世界では生きていられない。

その現実に、怒りが込み上げた。それがたとえ、世界のせいではなかったとしても、彼らは自分自身以外の悪を見出さなければ、やりきれなかった。


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