傍観者
用意されたベッドに潜り込みたいが、せめて汗は流しておきたい。二十年近くお世話になった体だから。酷使して、ごめんな。
熱湯を頭から被り、石鹸を泡立てる。
体は悲鳴を上げている。そのはずだけれど、何も感じない。動くのさえ、辛いはず。でも、一人でこうして風呂に入ることも全く苦ではない。裸体を見下ろしても、肉体労働でついた筋肉がうっすらと見えるだけで、外傷など無いに等しい。
「食欲はあるかい?」
脱衣所の外にいるのだろう医者が朗らかな声で問うてくる。タオルで髪の毛の水気を拭き取っていた俺はぶっきらぼうに返事した。
「ない。知ってて聞くな」
医者としては善意のつもり。それでもそれをまともに受け取れるほど、俺の心は強くなかった。
ひどい態度をとっても、彼はへこたれない。医者なんだから、こんなことでいちいち傷ついたり、機嫌を悪くしたりなんてしないよ。彼はそう言って笑っていたっけ。
「悪かったね、機嫌を損ねたようだ。ところでさっき、君の家へ電話をしたのだけど」
笑みは絶やさないが、言いにくそうに言葉を切る。
俺は脱衣所から出て医者と向き合う。
「?なんか不都合でも?」
誰も出なかったのだろうか。それはそれで好都合だが。
「なんというか…妹かな、君の。何処にいるのか教えろってうるさくてさあ。此処は基本的にお見舞いを禁止しているし、来られたら他の子たちにも悪影響を及ぼしかねないんだよねえ。ま、会わせられないって言ったらそんな反応になるのが普通だから無理もないね」
「教えたのか?」
不安に思って聞いてみるが、医者はあっけらかんとして答えた。
「全く違う住所をね。君だって死にゆく自分の姿なんてみっともなくてみせられないだろう?」
「あー…まあ」
みっともないのは否定しないが、かれこれ二十年近くともに生きてきたわけだから彼らの障害にならないか心配ってだけかな。
「鬼電かかってきそうだけど、彼らがお見舞いに来る権利をこちらが勝手に奪うことなんてできないからねえ…君、なんかしたの?」
「さあ…金ヅルがいなくなって困ってんのかもしんないなあ」
まだ封筒には百枚以上ある。銀行にはその何倍もある。だが不労で生きていくにはまあ、足りない。不労でも生きていけるほど稼げとでも言いたいのだろうか、愛しい妹は。
「君金ヅルなんてやってたの?」
医者の目が丸くなる。
「やることなかったからな。趣味でも持てりゃよかったんだが、未完の作品の終わりを知ることは叶わないし、どんな活動も最後までできない。せめて役に立ちたくて」
医者はさも自分が傷ついたかのように服の上から胸あたりを掴む。
「…だから、無茶したの?」
「そう、だね」
白衣が皴になるよ、と手をほどかせてそう返した。
「いいんだ、こう生きる以外に道を見つけられなかったのは俺だから」
「…とりあえず、眠るといい。そうじゃなきゃ無理矢理睡眠導入剤を投与させてもらうからね」
容赦ない言葉で彼は会話を切り上げる。無力な患者は苦笑して、観念したようにベッドに潜った。