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薄汚れ黒く濁った雲が空を覆い隠し、濁った霧はその街を隠していた。
肌に纏わりつくこの霧は、さらに街の周囲に広がっていて、そこにはまるで街など存在しないというような薄黒い景色だけがある。
一歩、また一歩と街へと近づくにつれて、心なしか体が重く感じられる。
行きたくないと考えているのか、この不確かで淀んだ空気にあてられているのか、判断が難しい。
街の目で確認できるところまできて、溜息がでる。
まるで長い旅をしてきたような、そんな深い溜息だった。
街の外れから眺めてみても、道行く者の姿形は見えない。
緩やかに生暖かい風が吹くだけで、街は静寂に包まれている。
街全体が廃墟であるかのような風景だけがやけに印象に残る。
街に入るのを躊躇うかのように、しばしその光景に眺め立ち止まっていた。
そんな私が目にしているのは、諸国から『輝きの都』と呼び称えられた、王都としての賑わいに満ちた街ではない。
見るからに活気が失せた、陰鬱な雰囲気を漂わせる寂しげな街である。
しばらく街の様子を眺めていた私は、やがて霧の向こうへと足を進めた。
街の中に足を踏み入れても、人影は見当たらなかった。
痩せた犬が、よろめく足取りで往路を横切った姿を見ただけで、やはり廃墟ではないのかと考えてもいた。
街の中央付近にやけに大きく、そして錆びついた鉄で出来ている看板を見つける。
酒場の印であることを確認すると、厚い木の扉の中からは怒声のような狂騒的な声が聞こえてきた。
「おいっマスター、もう一杯だ!」
「てめぇ、イカサマしやがったなぁ」
「煩せぇぞてめぇらっ」
酒場の名前は生憎と錆び付いていて確認が出来ない。
目的の酒場であることを願いながら、私はその重い扉を開いた。
「いらっしゃい、何を飲みます?」
酒場に入り、カウンターへと歩み寄る。
髭が濃く、恐らくは年の割に深い皺を刻んでいる男に話し掛けられた。
「ここは、ルゴンの酒場で合っているか?」
酷く冷めた声色ながらも、やけに通りの良い低い声。
体つきは上場、身なりはボロ、年齢は若め。
酒場の男は、にこやかな笑顔の裏で男を観察していた。
「えぇ、そうですよ。表に書いてあったでしょう?見ま――」
酒場の男の言葉を遮り、私は続けて言葉をかける。
「――そうか、では、ここで冒険者を募っていると聞いたが?」
それが、私の始まりを告げる最初の出来事だった。
騒々しいまでの雑音が周囲から聞こえている。
グラスを開ける音、酒を飲み込む音。
酒場の女に手を出す声、カード用のテーブルの喧騒。
そして、あちらこちらから聞こえて来る揉め事の怒声。
そんな中、酒場の男は一瞬だけ目を伏せ、そして静かに答えを返してきた。
「えぇ、確かに……」
酒場内で聞こえつづけていた騒音が少しずつ遠くなっていく。
此方を見つめる酒場の男の眼光は鋭く。
こちらの意図を確認しようとしているようだ。
「…登録をお願いしたい」
僅かな沈黙の後、私は、そう答えた。
(どう返事を返したら良いものか……)
酒場の男は、断るための口実を考えていた。
なぜなら今まで登録してきた冒険者の内、約7割もが悲惨な最期を迎えている。
体つきはともかく、このような見窄らしい形姿をした男は、とてもじゃないが登録する価値を見出せない。
「……お客さん、申し訳な――」
「――断る理由と余裕が…そちらには無いのではないか?」
断りを入れようとした時、目の前の妙な男はすかさず切り返してきた。
確かに断れる余裕は無い…だが、だからと言って誰でも良いと言う訳じゃない。
遥か東方の戦士団や強国の騎士団連中だって、ここに登録している。
そんな奴らでさえ、入っては死に死んでは補充してを繰り返している。
(やはりここは、はっきりと言ってやんねぇとな……)
「あ~、お客――」
「――これを見てくれ」
「っ、ぁん?」
(いちいち、むかつく若造だ)
酒場の男は、そう思わずに居られなかった。
此方が話し出すのを待ってから、それを遮り言葉を放つ。
(会話の上を取るには悪くはねぇが……客商売だと舐められても気にいらねぇ)
内心の苛つきを表情に出す事なく、テーブルの上に置かれた一枚の紙を見る。
それは、一時代前の洋皮紙で角は所々破け、変色の度合いも酷い。
しかし、そこに書かれている内容に、酒場の男は酷く動揺した。
「あぁ?……こっこりゃぁ、おめえ…こっこれ、どう――ー」
手に取って見た紙は、今は亡き冒険者達の連盟で書かれた推薦状だった。
「――貰い物だ」
「………そうっそうかよ…そうか」
酒場の男は、紙を手に取り、自分の目の前でヒラヒラと振りながら、
こちらには目を向けず、片手で頭を掻きつつ、そう答えてくれた。
「こいつがあるなら、確かに断る理由はねぇな、
それに、これを見せられて断る事もできなぇし……な」
「そうか」
「あぁ、ここに書かれてる奴らは、まぁ、長い付き合いだったしな……」
酒場の男は少し寂しげに目を伏せた。
過ぎ去った過去に思いを巡らしている姿はどこか憐れみを感じさせる。
ほんの僅かの間だが、遠ざかっていた酒場の騒音が戻ってくる。
酒場の男は、閉じていた目をゆるりと開き、しっかりと此方を見据えながら尋ねてきた。
「……ふぅ、んで、おめぇの名前は?」
酒場の男は、目の前の洋皮紙に書かれた内容に目を通している。
名を聞かれ答えた後に差し出されたのは、冒険者登録のための用紙だった。
適当に欄を埋め、酒場の男の前に差し出すと、どれどれ、などと言い。
まるで子供の答案を見る親のような態度で受け取った。
「……ふむ……」
それほどの内容を書いたつもりはない。
名前、性別、職業、年齢。
これらが必須事項。
住所、履歴、報酬要望、死亡時の連絡場所。
これらが選択事項。
一応は埋めて置いたが、それほどに書き込んだ覚えはやはりない。
他にも、どのような冒険者と組みたいか、リーダーとして登録するのか、
冒険の目的、禁止事項の欄などもあった。
書き込んだ内容に不備でも合ったのだろうか、あまりに長く目を通している。
私は、たまらずに酒場の男に話し掛けた。
「すまない、なにか不備でもあったのだろうか?」
すると、酒場の男は、
「……ん?、あぁ、いやいや……そうじゃねーんだが…
あーいや、ちょっと待っててくれや」
そう言うと酒場の男は、店の奥の扉へと去って行った。
私は溜息をそっと吐き出し、踵を軸にくるりと回転する。
カウンターに両肘と背を預けるようにして、酒場の中央へと目を向ける。
中央のテーブルには、ドワーフのグループだろう、大声で騒ぎながら酒を飲んでいる。
「今日の稼ぎは、最高っだ!」
「あぁ、あの時の一撃は痺れたぜぇ」
「おぅおぅ、危なかったが、上手く入ったもんよぉ」
どうやら、今日の冒険談を語り合っているようだ。
かなりの稼ぎになったらしい事は、テーブルにこれでもかと置かれた、様々な料理と、
酒の瓶の多さで見て取れる。
しばらくその様子を眺めていると、左側から陽気な声で呼びかけられた。
「ねぇ、お飲み物は何か要ります?」
「ん?」
顔のみを声の方向に向けてみれば、派手な衣装を身に纏った酒場の女が、其処にいた。
「要らないの?さっきからマスターと話していたみたいだけど……冒険者なんでしょ?」
胸元の大きく開いた衣装でありながら、その言葉遣いは丁寧なものだ。
しかし、冒険者かと聞かれ、返答には詰まったものの、確かに喉は渇いてきている。
「っん、あぁ。……いや、貰おうか。何がある」
酒場の女から、エールを受け取る。
私はジョッキで彼女はグラス。
特に祝う事も無いのだが、杯を合わせる。
高い硬質な音が聞こえ、ジョッキのエールが少しだけ零れ、カウンターを濡らしていく。
彼女の分も私が払うのだろうかと、苦笑いを胸の奥に秘め、ジョッキを勢い良く煽った。
「………ちっ」
酒場の奥、固く大きなテーブルに頬杖をつき、小さく舌打ちする音だけが響いた。
石壁で囲まれた部屋の中、グラスに入れた水は一滴も減っていない。
長年、冒険者を募り、その登録をこなし、自身もまた以前は冒険者であった男。
冒険者ギルドである「ルゴンの酒場」のマスター。
彼は今、久しぶりに悩みというものにぶつかっていた。
「戦士か……けどなぁ…」
無作法に伸びた髭をさすり、誰も居ない部屋にて問いかけをし続ける。
彼を今悩ましている問題は、先ほど店に来た男。
懐かしい仲間達の名前の書いてある洋皮紙を持ち、そして少しばかり無礼な男。
登録用紙に書き込まれた内容には、特別な問題は見当たらない。
だが、今は亡き仲間達が、何時、どうして、こんな紙を残したのか……。
彼らが亡くなったのは、もう三年も前だ。
迷宮の最下層を目指していた彼らは、忽然とその姿を消した。
同じく最下層を目指していた、別のパーティから恐らくは全滅だろうとの報告を聞くまでは、彼自身、信じられないし、信じたくもなかった。
それほどに各々の腕が立ち、パーティとしての錬度も高かった。
マスター自身も、最初期のパーティの一員だ。
故あってギルドを継ぐことになったが、それでも彼らとの思い出は確かに残っている。
「……ふぅ~、どうしたもんかねぇ…」
目を瞑り、過去の懐かしい顔を順に思い浮かべる。
皆一様にそれぞれの笑顔が浮んでは消え、消えては浮んでくる。
彼らが残した功績は、踏破マップとして高い値が付いている。
そして、彼らが残した数々の武具は、あのケチな「ドンターク商店」の在庫として有り余るほど残ってもいる。
「天人寺院」の強欲坊主共も、彼らからせしめた多額の寄付金で寺院は二回りは大きくなったと聞いた。
「なんで、あんなもんがある?」
呟きと共に、閉じていた目を開き、壁の一点を睨みつける。
見ているのは石の壁ではない。
彼の目には、かつての仲間達がはっきりと、その両の目に映っていた……。
自分の中で、燻っている火がある。
それは小さな、とても小さな種火のようなもの。
チロチロと時々火がついては消える。
かつて失くしたものを、洋皮紙の名前が思い出させ、消えかけの火が揺らめきまた燃えようとしている。
「………ちっ」
舌打ちをした後、マスターはゆっくりと席を立ち。
「ジュライ」と名乗った男の元へと向かって行った。
「……そうか」
「なによぉ~」
彼女と飲み始めてから、すでに一時間ほどの時間が過ぎていた。
互いに会話も進み、彼女は借金の返済のために此処にいるらしいことも判った。
後は、「シャリー」という名前と21という年齢。
「けどねぇ~」
「なんだ?」
圧倒的に彼女が話すばかり、私は殆ど話をしていない。
名前と、登録したばかりの冒険者であることを告げたのみだ。
「っで、ジュライは何を望んで此処に来たの?」
「……ん」
(こんな命の軽い場所に何をしに来たのか)
私には彼女が、あたかもそう言っているように聞こえた。
「何を…か」
「そう、何をしに来たの?」
そう聞かれ、ふと答えに詰まる。
彼らからの便りに、ここの場所と連盟での紹介状が来た。
それを持って、ただ来た。
彼らの死は行商に来たものから、噂話として聞いていた。
だからこそ、ここに来たとも言えるし、そうでないとも言える。
不確かな根拠の提示を求められ、私は答えに戸惑った。
互いに会話が無くなり、グラスを傾ける音がする。
店の喧騒はますます激しくなり、所々で叫び声すら上がっている。
彼女の問いに応えられず、ジョッキに残ったエールを一息に煽った。
「おぅ!、ジュライって言ったな、おめぇ」
飲み干したジョッキをテーブルに置くと同時に、姿の見えなかったマスターが声を掛けてきた。
濃い髭をさすりながら、どこか弾んでいて、どこか重々しい声。
「あぁ、どうだろう、登録に問題はないか」
「おぅ、問題ねぇぞ」
にやりと笑いながら、こちらを見据えてくる。
「そうか、なら――」
「――ああ、確かに登録は問題なぇな…だが……条件がある」
こちらの言葉を遮り、マスターはにやけた顔を引き締めて喋り始める。
「…条件?」
問いかけに対し、疑問で答える。
書き方に条件のつくような、なにか問題でもあったのだろうか。
「俺を入れろや」
マスターは、静かに、だが、強い口調でそう言った。
一瞬、酒場内の騒音が無くなったかのような、そんな気にさせる口調。
「なっ」
「これが、呑めねぇってんなら、おめぇの登録は…なしだ」
「っ!」
驚きの連続で、言葉も無い。
何故、そんなことをマスターが言い出すのかも解らない。
ギルドマスターであるこの男の言い分に逆らえば、ここでの登録の機会はもはや永遠に失われるだろう。
目的が明確ではない私と言えど、ここまで来てそれはあまりに意味が無い。
数瞬考え、マスターの目を見返しながら頷いた。
「はっ!決まりだなぁ」
何が嬉しいのか、マスターは上機嫌に新品のボトルを開け始める。
すると、今まで黙って成り行きを見守っていた、シャリーがマスターに問い掛ける。
「ちょっと!マスターっ」
「あぁん、なんだ?」
「こいつに付いていくってどういう事よ!」
「聞いたとおりだろ?なんか問題でもあんのか?」
「そうじゃなくて!!」
「うるせぇ!喚くなっ、気分が台無しになるだろがぁ!!」
「っ!、ここどうすんのよ!」
「知るかっ!」
シャリーは、綺麗な眉を上げ声も態度も荒く、マスターに詰め寄っている。
マスターは、濃い髭をさすり、終いにはカウンターに拳を叩きつけている。
シャリーにこいつ呼ばわりされたり、マスターひよこ呼ばわりされたり、
散々に言い争っている。
私は溜息を隠しもせずに盛大に吐くと、マスターが開けたままにしている高級そうな酒を飲み始めた。
こうして「私」の冒険は始まり、そうして「彼」の冒険も始まった。