/4
今から十八年と少し前、防衛事務次官の父と科学者の母の間に、和葉が一人娘として生まれ落ちた。
父の方は今までにクドいぐらい話の上に出ているから割愛するとして、もう一方。和葉の母――――園崎優子は二十代も前半の若さで天才の一人に数えられるほどに優秀な科学者だったらしい。母の研究していた内容に関し詳しいことまでは言わなかったものの、嘗て自分がそういう存在だったということは、幼き和葉も母から何度も聞かされたことだった。
優秀な科学者だった母とまるで別方面、防衛省――和葉が生まれた頃は、まだ省ではなく防衛"庁"だった――の官僚としてエリートコースを駆け上っていた父。そんなまるで接点が無さそうな二人が何をどう転んで夫婦の形にくっ付いたのかは娘の和葉自身も未だに不思議に思っていることだったが、しかし彼女が幼かった頃は、それはそれは仲の良い暖かな家庭だった。
科学者として一線を退き、時折在宅で何かをする以外は基本的に家で小さな和葉に付きっきりだった母と、多忙ながらも合間を見ては一人娘との時間を無理してひねり出しては、よく遊んでくれた父。今でこそ和葉は父のことを良く思っていないが、しかし幼かった頃、過去の楽しかった思い出だけに嘘はないと、それだけは今でも信じている。
「楽しかったな……。ママが元気で生きてて、パパがマトモだった頃は」
冷えた珈琲を啜りながら、郷愁を誘うように眼を細めながら。遠い過去から記憶の糸を手繰り寄せるように、和葉が少しずつ口を開く。
――――小学校に上がり、そして中学に入学し。その頃までは、確かに和葉の暮らしていた家庭環境は幸せの一言に尽きていた。何不自由なく、そして溢れんばかりの愛情に満ちた家庭が、確かにそこにはあったのだ。
「でも、中二に上がった頃だったかな。交通事故に遭って、ママが死んじゃったのって」
そこから、和葉の全てが狂い始めたのだ。
母の……優子の死因は、言い方は悪いがありふれたモノだった。買い物帰りに道を歩いている最中、居眠りで突っ込んできたダンプカーに撥ねられたのだ。超重量級のダンプの直撃を喰らった母の遺体は原形を留めないまでに損壊していて、完全に即死だったと聞いている。
「そこからだったわね、パパがおかしくなったのは」
母の死を契機に、父までもがヒトが変わったみたいに冷たくなってしまった。
葬式を終えた後の父は、それ以来連日の徹夜やら何やらで家を空けることが多くなり、そして傷心の和葉を独りきりで家に残すのも厭わず連日仕事に向かっていった。まるで、八つ当たりでもするかのように。
母を喪い傷付いた中、父は自分のことなんかまるで気にせず仕事に出掛け、家には常に和葉が独りきり。もしあの頃に朱音が何かにつけては傍に居て慰めてくれなければ、和葉はそれこそ、今こうして生きていたかも分からないとすら思う。それぐらいまでに、和葉の精神は追い詰められていたのだ。
「中学を卒業したら、私は適当な私立――今の美代学園に放り込まれたってワケ。ついでに、強制的な独り暮らしもセットでね」
自嘲するみたいに卑屈な笑みをその端正な横顔に浮かばせながら、和葉が小さく呟いた。
私立学園への進学に、強制的な独り暮らし。正直言って、完全な厄介払いなんだろうと和葉は当時から感じていた。あの時点で、既に父からは昔の面影は欠片も残さず消え失せていて。ただ氷のように冷たい冷血な仕事人間という側面だけが、父には残されていたのだから。
だが、和葉としては逆にそれが救いとなったのかもしれない。母の残り香がまだ残る空っぽの広すぎた家に独り取り残されるよりも、心機一転、自分だけの城で暮らした方が余程良かった。実際、美代学園に入り独り暮らしを始めさせられてから、和葉の精神状況は中学の頃よりもずっと良好になっていた。
「……冷静に考えてみたら、だからなのかもね。私が、こんな性分になっちゃったのも」
和葉がポツリと呟く言葉の意図が、彼女の性格――――己のルールのみに従い、他者から押し付けられる法に反発する自由奔放な性分のことを言っているのだとハリーは暗黙の内に察する。
「ま、元々ってのも十分にあるんだけれどね。あくまで、タガが外れた切っ掛けってだけかな」
続けてそう呟きながら、和葉は半分無意識の内に胸のペンダントに触れていた。首からTシャツの胸元に吊す、小振りなペンダントにそっと手を触れる。
「……それは?」
そんな彼女の仕草が、妙にペンダントを拠り所のように扱うみたく見えたものだから。少しばかり気になったハリーが何の気無しに訊くと、和葉は「ん、これのこと?」とそのペンダントを小さく掲げながら苦く笑う。
「昔ね、ママが死んじゃうちょっと前に、ママから貰った物なの」
母の遺品、いや形見ということか。
「……済まなかった」
和葉が答えると、マズいことを訊いてしまったかと思いハリーが小さく詫びる。すると和葉は「良いわよ、気にしないでハリー」と微笑み、軽く流してくれた。
「どうして、こんな風になっちゃったんだろうね…………」
華奢な掌の中、ぎゅっとその形見のペンダントを握り締めつつ、和葉が誰に向けるでもなくひとりごちた。ひどく寂しげで、そして哀しい声音で…………。




