天使 アリス
気がつくと、そこはベッドだった。雪国ではない。
周囲を見渡すと部屋全体が真っ白だ。今使っているベッド以外に一切家具が存在しない。
一瞬、病院かと思ったが、どうやら違うようだ。自分の身に何が起きたのか考えていると、不意にドアをノックする音が聞こえる。
どうしよう。何だかこの部屋に入って欲しくない。ここは寝たふりをしてやりすごそう。
『コンコン……コンコンコン……ドンドンドン! ……ガンガンガンガン!』
「ええっ!?」
ホラー映画のワンシーンかよ。鍵が掛かっているわけでもなさそうだが……。
どうやら返事をしない限りは入ってこないらしい。
しかし、部屋には入って欲しくないが、今の置かれている状況もわからない。これ以上、無視するわけにもいかないか。
「……どうぞ」
「あぁーもう、起きているならさっさと返事をしてください! こっちも忙しいんですよ」
勢いよく扉を開けて、部屋に入ってくるなり文句をいう女性。あれっ? この可愛い声にどこか聞き覚えが……。
必死に思考を巡らせていると。
「初めまして……と言っても昨日お電話差し上げました。これで会話をするのは二度目ですね」
言いながら、女性は名刺をスッと差し出した。
【地球保安部 人類間引き計画課 ツアーコンダクター 天使 アリス】
「……なぁ、アリス」
「いきなり呼び捨てですか!」
「いや、申し訳ないがこの素人ドッキリはどこまで続くんだ?」
「あぁ、今日の記憶が飛んでいるのですね。」
そういうと、アリスは両手を突き出して、ブツブツと何かを唱え始める。すると、目の前に横二メートル、縦三メートル程の巨大な鏡が突然現れた。
「うぉっ! どんな手品だよ!」
「もう、手品じゃありません。鏡に触れてみてください」
手品じゃない? 魔法とでもいいたいのか? いいだろう。この茶番に最後まで付き合ってやるよ。
俺は言われるがまま、鏡にそっと手を触れた。
すると一瞬、鏡が水面のように揺らぎ……。
「これって……!?」
途端に記憶が蘇ってきた。今、鏡に写し出されているのは会社の昼休み時間。
近くのコンビニにお昼を買いに行く途中、信号待ちの交差点で……。
「そうだ……この後、確か隣にいた犬が急に飛び出して思わず助けに入ったら……」
「うん! たまたま走っていたトラックに引かれてあなたは死んじゃったの。物凄いベタな展開だよね。ウフッ」
「ウフッ……って、おい!」
「心配しないで。ワンちゃんは無事よ」
「そうか……それは良かった……とでも言うと思ったのか? アリスさんよおおおおっ!」
突然、死んだと告げられ動揺を隠しきれないが、アリスのあっけらかんとした態度にあまり現実感が伴っていない。
だってそうだろう。意識ははっきりしているし、体の異常もない。夢だと言われれば、すぐに納得できるレベルだ。
しかし、昨日の電話の内容を思い出すと、辻褄がしっかり合ってしまう。
どうやら信じざるを得ないようだ。
そうか……。
死んだのか……。
そうなると両親や会社の人たちも、多少は俺のことを偲んでくれるのだろうか?
そんなことを考えていると、俺の心中を察したように、アリスが教えてくれた。
「えっとね。便宜上、死んだとは言ったけれど……詳しく説明すると、トラックに引かれる直前にテレポートの魔法でこの空間にあなたを連れて来たの。その時に、地球でのあなたの痕跡を全て抹消したわ。つまり、地球上にあなたは初めから存在しなかった人間となりましたので、悲しむ人は誰ひとりいません。安心してくださいね。ウフッ」
「……ほう。じゃあ、何か? 俺は私立美女木学園、幻のシックスマンではなく、ワールドワイドでの幻のシックスマンにクラスチェンジしたのだと……そう言いたいのだな? アリスよ」
「うん。何を言っているのか意味不明だけど、その通りだよ」
こいつ、ちょっと可愛いからって、いいたい放題ぬかしやがって! 大体さっきから上から目線でしゃべるこの女は何者だ。
そこまで思ってふとあることに気づいた俺は、手に握られている名刺を改めて見た。
天使アリス……天使だと?
今までのごたごたで満足に姿を見ていなかったが……まじまじとアリスを見てみる。
おいおい、ちょっとどころの可愛さではないぞ。
髪が揺れるたびに淡い光が洩れてきそうな美しい金髪のセミロング。
力強さがありながらも全てを包み込む慈愛に満ちた碧眼の瞳。
濡れた桜色の薄い唇。
身長は俺より十センチ程低いので、百六十センチぐらいだろうか?
どこまでも白く透明感に満ちた肌。
服の上からでもわかる形が整った胸。
一切の無駄を感じさせないスラリと伸びた足。
そして……背中から生える純白の翼。
「あのー今さらですが、人間がいうところの天使ってことで間違いないですか?」
「そうですよ? 地球保安部、人類間引き計画課所属、ツアーコンダクター、天使アリスです」
アリスは今頃気づいたのか、と言わんばかりに答えた。
「……ツアーコンダクターを名乗っているってことは、アリスが異世界を案内していただけると?」
「はい、もちろんその通りです。」
勝った! 俺は自分で言うのも憚られるが、そこそこのイケメンである。頭の回転も悪くないと思う。にもかかわらず、なぜか二十年間一人も彼女ができない。
そして、最近のプライベートはエロサイトの巡回業務ばかり。もしかして俺は人生の負け組なのでは? と、思っていたが、まさか天使とお近づきになれるとは。
お願いすればアリス経由で素敵な女性を紹介してもらえるのだろうか?
もしくはアリス自身が、あんなことや、こんなことを……。
仮にも天使に対して不謹慎なことを夢想していると、アリスが何かを察したように大きく溜息をついた。
「はぁー。これだから童貞はすぐ夢見がちになるのよね」
こいつ、テレパシストか? それに、実はとんでもなく猫かぶりではないだろうか。
「鏑木良介さん」
「はい」
「念のため忠告しておきますが、私に対して不埒なことを企んだ場合……」
「企んだ場合?」
「殺します。滅殺です」
アリスは天使の微笑でそう教えてくれた。
「良介さん、質問がなければ異世界に案内したいと思いますが?」
「いや、いくつか質問してもいいか?」
俺は情報を整理するため、気になっている点を聞いてみることにした。
「この名刺に書いてある地球保安部? これに関しては何となく意味はわかるけれど、人類間引き課って具体的には何をするの?」
「良介さんはガイア理論をご存じですか?」
「あぁ、何となくだけど。要するに地球自体を一個の生命体として考える。みたいなやつだろ?」
「まぁ、そうですね。極論を言うと人類は増えすぎて、地球の一部として認められない存在までに膨れ上がり、がん細胞のように地球の生命を犯し始めたの。危機を感じた私たちは地球が生命活動を終わらせてしまう前に、人類を異世界に間引きして地球本来の正常な生命体に戻す。それが人類間引き課の仕事です。」
ほう。神らしい理屈だな。無論、納得はしないが。
「二つ目の質問。なぜ俺が異世界ツアーに選ばれた?」
「今は試験運用中なので通常の条件とは異なりますが……第一に、十代後半から二十代前半までの健康な人間であること。第二に、第一を踏まえて、事故等で死亡することが確定している人間。第三に、この人なら存在を抹消しても問題ないだろうとの個人的主観が入ったり……その条件をクリアしたのが、あなただったわけ」
「おい! 何だ、その第三の適当な条件は」
こいつ、俺なら世界から存在を消しても問題ないと思ったのか? なんて腹立たしいがここは我慢だ。
俺も一応、二十歳の大人だ。
「最後の質問だ」
「ねぇ、もういいでしょう? 説明するのも疲れるのよ」
言いながら、アリスは俺が寝ていたベッドにけだるそうに腰掛けると『ふあぁー』と退屈そうなあくびを……。
……こいつ、だんだん地が出てきていないか?
「もし、異世界で死んだ場合はどうなる?」
まぁ、一回死んだようなものだから、そこまで気にしてはいないのだが。すると、アリスは待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「あなたは死なないわ……私が守るもの」
アリスはドヤ顔でガッツポーズを決めていた。
こいつあれだ。ただのアニメ好きの天使だ。しかもネタが相当に古い。
「まぁ、先程も申し上げた通り、まだ試験運用の段階です。異世界に送った人間が死亡した場合の処置をどうするか等、詳しいことは決めていません。実際に死んだら考えると思います」
アリスはそんな適当なことをさらりと言いやがった。
× × ×
アリスは先程と同じように両手を突き出すと、ブツブツと何かを唱え始める。すると、大きな白い扉が現れた。
「さあ良介さん、いざ参りましょう。異世界へ!」
アリスは意気揚々と告げると、純白の翼を思い切り左右に広げ、扉に向かって進んでいく。これから始まる異世界ツアーにドキドキしつつ、俺もアリスの後に続いた。
しかし、数歩進んだ後、なぜか先に進もうとしない。よくよく見ると、先程広げた翼が扉のふちにひっかかり中に入れないらしい。
この天使、ギャグでやっているのか。そう思っていると、顔を赤くしたアリスは『コホン』と小さく咳払いをしながら、そっと翼を折りたたんでいった。
「何だ、天然か」
「っ………………!!」
俺のつぶやきに鬼の形相を向けるアリス。だが、反論ができないのか、すごすごと扉の中に進んでいった。先程のドキドキ感がなくなり、一抹の不安を感じながらも扉の中へと進む。
「本当、大丈夫かなぁー」
体が光に包まれた。