I Shall Return!
09'
脳内を駆けゆく僕の一生に涙がこぼれた。
僕はそれでも必死に笑顔を作り、右手を横にまっすぐ伸ばし、親指を立ててから言った。
アイルビーバック
できる限り流暢な発音を心掛けて。いつか役立つかもしれないなんて、ついぞ役立つことのなかった英語が死後約一日で役に立った。もっとも学校教育で学んだフレーズではなかったけれど。シリーズの二作目ではどんなタイミングで放たれたセリフだったろうか。あの鋼鉄の男が溶鋼炉に沈むとき、親指を立てていたことだけは覚えている。
だから僕は親指をしっかり立てて、何があっても形が崩れないように願って、地獄の穴へ足を踏みいれた。
またね、――ちゃん
10
穏やかな顔をした死体がそこには残った。
01
僕が死んだという単純にして明快な事実に何か理由があるのならば、それもやはり単純にして明快極まりない。僕が死を選んだ。ただそれだけのこと。
死ぬというのはもっと何か特別なことかと、重大なことかと、簡単なことではないのではないかと思っていた。だがなかなかどうして、順を追って少しずつ準備をしたならば意外にもきっかけというのはなんでもないことだった。
僕の死生観においては、死というのは自らの肉体に生物学的な死が訪れることを指すだけではなく、自意識というやつだったり、魂とかいうやつだったりの消失を指していた。幽霊になってこの世に留まろうと思って自殺するやつはいないだろう。だからこそ僕は死ぬことに失敗した。半分ほど死ぬことに失敗した。
鼻は湿った土の香を感じていた。清潔感は欠けらもないが安心はできる。これから土と同レベルの物質になる。人権なんてものに守られず意識なんて宿さない物質になるのだ。悪意も善意をも同等に拒絶する、そんな存在になるのだ。そう考えて僕は図らずも高揚していた。
腐った葉っぱの柔らかな感触を踏みしめて、僕は夜の森の奥へ入っていった。月明かりが差し込み、足元はよく見える。振り返れば僕の刻む最期だろう足跡があった。あらかじめ下見をしてちょうどよさそうだと思った木までは、迷っていなければそろそろだ。
見つけた。昼間置いてきたリュックサックだ。あれがなかったならば、自殺もやめようかと思ってきたけれど、どうやら天は僕の自殺にゴーサインを出してくれたらしい。
僕は懐中電灯で木を照らす。幸い、虫が木に群がっているなんてこともなく、僕は試しに木へ登ってみた。僕の背丈より数十センチ高い位置にある枝に座り、遠くを見る。ただ欝蒼とした木々があるだけ。空を見上げても葉にさえぎられて星も見えない。月光は差さない。
星も月も太陽も、見えなければ存在しないのと一緒だ。
ここは暗闇だ。
死ぬには相応しい、かな。きっと太陽が燦々と煌々と炯々と照らすところでは死ねない。眩しくて死者も目を開けてしまいそうだ。月光だと流石に眩しいということはないかもしれないけれど、それでも何か死とはまた違った印象が僕にはある。どちらかと言えば死よりも再生。死なんか一般的なものよりももっと神々しくて神秘的な……そんな現象が相応しいような。
僕は木から飛び下りた。それからリュックサックからロープを掴んでもう一度登る。枝に結んで長さを調整。およそこんなもんだろう。納得がいったところでもう一度降りた。何だろうこの達成感は。もし来世で機会があれば、子どものためにブランコでも作ってあげよう。そんなことを決意する。いつか、いつか、いつか……僕は上手いこと幸せになってやろう。
念仏ひとつ唱えたことはないけれど極楽にはいけるだろうか。教会にいったこともないけれど、天国にはいけるだろうか。神様に感謝の言葉を掛けたこともないけれど黄泉の国にはいけるだろうか。いけないならば、またこの世で暮らすのかな。
ありがとうの一言も言ったことはない気もするけれど、家族は泣いてくれるかな。自殺する友達のことを、彼らはいつまで覚えてくれているかな。好きだと結局言うこともなかったけれど、彼女は僕を悼んでくれるかな。
これも人生の一幕。こういうこともあるもんさ。
僕は脚立を使って首を縄の輪に入れて、思いっきり足元を蹴った。
呆気なく――、
僕の首に縄が食い込んで――。
02
思考は混乱の極致。
感覚という感覚がひたすらに死にたくないと脳味噌に緊急信号を出して、僕の意識は僕の人生を一瞬で追体験した。
そして、僕は顔中から液体を流しながら大笑いしていた。湿った土の冷たさを全身で感じながら、仰向けに転がって。
俗に言う走馬灯現象というのは死に瀕した人間が死なないために経験から解決策を探るために見るらしい。どこかで聞いたか読んだ。僕の場合は走馬灯現象についての豆知識しか呼び起こされなかったが、自分から死のうとしている人間が、自分でお膳立てた死刑場から逃れようなんて……そんな甘いことできないようにしてるに決まってるだろうが。
全く、僕の本能というのは何と愚かなことか。
全く、どうして、僕の意識は一時は幽体離脱なんて愉快な現象を引き起こしたにも関わらず、相も変わらず馴れ親しんだ肉体に帰って来ているのだろう。
不可能を可能にした? 誰も望んじゃねえんだよ。
馬鹿げてる。ふざけてる。意味がわかんねえよ。どういうことだよ。
僕は大笑いしながら、心の中で毒突くのだ。
何で、僕の心臓の鼓動が、興奮して高らかに鳴っているはずのそれが、血液の脈動が、全く――感じられないのだろう。
まるで僕が生きていないかのようではないか。
僕は鼻水と涙とよだれでぐちゃぐちゃになった顔を拭って、僕の首に繋がるロープを調べた。鋭利な刃物で切られているよう。これは事件だ。
僕は土の中に手を突いて、必死の思いで立ち上がる。首は絞まっているけれど、さして辛くもない。苛立ち混じりに木の幹を打ん殴ってみたけれど、痛覚だけは全くない。
冗談みたい。
「ねえ、ひとつ訊いていいかな」
僕は、月明かりに輝く少女を見た。月の光を浴びて美しく輝く女の子。眩しいくらいに、古文的に言えば目覚ましいほどに、不快な輝きをした――。神々しい――。神秘的な――。女神かと見紛うような――。
死なんか一般的なものを吹きとばす、神秘的な再生を司るような――。
月の輝きを纏った少女――少女の形をしたものがそこにはいた。
「君は何だ? 何をした?」
その問いは自然に僕の口を衝いて出たけれど、動揺したのは投げ掛けられた彼女ではなく僕自身だった。何をした? という質問には違和感はない。だが、君は何だ? とはどういうことだ。誰だ、ではなく何だ。僕は彼女を、それを何だと思った?
「君は神かなんかか? 天使か悪魔か死神か、妖怪変化、魍魎の類なのか?」
言えば言うほど泥沼に嵌まっていく、そんな予感がした。
月光を浴びて腰ほどもある髪は銀の光を放っている。風にたなびいた毛先が陰に入っても色はやはり銀。月由来の輝きがわずかにくすんでも、それは白髪というだけではなくやはり人外の輝きを持っているように思えた。年齢は二十歳の僕より四つは下に見える。年齢があるのならば。魔女のように黒いローブのようなものを羽織っているが、足はニーソックスがちらりと見えている。下はホットパンツか何かだろうか。
「二つ目以外の質問は、まあどれも正解みたいなものですよ。何をした……というのはどう説明しましょうか」
小さな口から出た言葉が理解できるということに少しだけ安心する。
「簡単に言えば、そこにあった死体とそこにあった魂をリサイクルさせてもらったというようなもので……幽霊が自分の身体に取り憑いたと考えてもらえば概ね間違いないですね」
それから申し訳無さそうに目を伏せて、彼女は僕に頼んだ。
「少しだけ私の手伝いをしてもらいます、勝手でごめんなさい」
というかそれは命令で、よく分からん中途半端な人外にさせられてしまった僕には、拒否権はなさそうに思える。だが冷静に考えれば人生を捨てた世捨て人、脅されたって殺されたって怖くない。地獄行きなんて自殺前の予定の範疇である。だから断っても構わなかったのだ。それでも僕が断らなかったのは、どうにも彼女の可愛らしい目には超常の圧力があるのか、無視すると酷く後悔をするような気がしたからだ。いつかやり残したことがあるような気がしたのだ。
03
少しだけ生前の僕、僕の幼なじみのことを考える。
名前は牧原華凛。年齢は僕と同じ。無論、生前の僕と。死後に年齢がどうなるかなんて考えたことはないが、まぁ考える価値もないか。ここ数ヶ月、年上の恋人ができたらしく、料理とお菓子作りのスキルを遺憾なく発揮しているらしい。
最近は会っていなかったし、声も聞いていない。彼女が使っているSNSのアカウントを持ってはいたけれど、教えなかった。連絡は専らメール。それもここ二、三週間は送っていなかったっけ。
死んだからにはもう会うこともないだろうと思っていた。名前を聞くことすらないだろうと。だがその予想は外れた。
「貴方の自殺というのは予定外の死なのです」
だから、と続ける声を僕は遮った。
「君の名前は?」
「はい?」
キョトンとした声は可愛いが、そんなものは求めていない。
「君を何て呼べばいいのかなって。ああ、僕の名前は――」
「その貴方の名前はいいのですけど……だから、私のことも自由に呼んで構いませんよ」
んん、困る。それでは呼びにくい。僕の幼なじみと目の前の彼女の呼び分けが自分でもよく分からなくなる。気まぐれに銀髪に注目したり、幼さの残る顔に注目したり、そんなことをしたらイメージが定まらない。呼称で文字数を奪われるなんて尺が足りなくなる。貴重な人生なのに。あれ? もう死んでたか。
「分かりやすく死神とかでいいんじゃないです? 一度卍解したいですよね」
おや、上手い。漫画からの借用で自らの正体を煙に巻かれてしまった。まぁ呼び名が死神ちゃんに決まったので満足だけれど。
軽く咳払いをして死神ちゃんは話を再開する。
「貴方の死のせいで、彼女が死んじゃいますよ」
「何で彼女が」
「釣り合いを取るためです。彼女は遠くない未来自殺します」
「自殺ってのは予定外って言ってなかった?」
つい二十数行くらい前に。
「貴方のは、ですよ」
まじかよ、僕は特別らしい。死神ちゃんの刺すような視線が僕を襲う。
「で、何をすれば」
とまぁ、僕は死神ちゃんから眼鏡を受け取ったのだが、何の変哲もない眼鏡だ。掛けてみるがやはり普通。僕が弦を触っていると急に目の前が真っ暗になった。慌てて外すとサングラスになっている。ボタンで切り替わるようだ。
「で、この赤いペンライトみたいなものを使うと……」
おやまさか、それは黒ずくめ、アルファベット三文字対エイリアン機関の……。
「夜道を明るく照らせます」
何だか茶目っけがあるようで。
ちなみに僕が死んで約一時間。森から出て僕の住む町にいた。月明かりも街灯もある。
僕の期待を裏切った彼女は釈明するように言う。
「何だかあの組織男尊女卑な名前じゃないです? ここは思いきって時代に合わせてWIBとすべきでしょう。なんですっけ、ホワイトインベイドブラックでしたっけ」
時代を遡ってる。KKKみたいになってる。
閑話休題。
「この眼鏡は死体の目の濁りを誤魔化すだけでなく、使用者が目を合わせているときに相手と約束事を結ばせることができます。三回だけ。およそそんなものだと思ってください」
ちなみに度は入っていないらしい。曰く地獄の技術でそんな緻密にレンズを削れないと。出身は地獄らしいね。それと主要な機能は目の濁りを隠すことにあるらしいね。
「じゃあ、僕は華凛と約束すればいいのか。死なないでねって」
迷っている様子ながらもこくりと頷く死神ちゃん。
「死後硬直が始まる前に急いだ方がいいですよ」
ぞくりと背筋が凍る思いがした。凍っても痛くないんだろうなぁ。
04
華凛には恋人がいる。何度か先輩には会ったことがあるが、正直なところ反りが合わない。確かに、僕の社交性の欠如と彼の人間力の低さは否定できない。だからこそ、僕は大人の広い心で歩み寄り……。
まぁ、何だ。単に脳内で妄想系アウトドア派と脳筋系アウトドア派では月とすっぴんの差があったということだ。月もすっぴんも近付いたら汚そうだし、大差ないのだ。月に全裸で近付いたら微塵に弾けるしすっぴんに全裸で近付いたら社会的に木端になるし、やっぱ大差ない。
華凛が僕ではなく彼を選んだのは、彼が脳の髄まで金に支配された金持ちで――なんてことはなく。およそ僕のように人を不当に貶めるような人格ではなかったというだけだ。僕のような人格者でなかったという一点のみだろう。僕のような生き仏でないという点もあるだろうか。確かに僕は生前から目が濁っていた。あるいは彼の方が積極的にアピールしたというだけか。
死んだからか随分と素直に思えるのだけど、結局僕は彼に嫉妬していただけなのだろう。一応は僕も後輩として仲良くさせてもらい、彼の恋愛の成就の前日には告白していいかと確認されたくらいだ。
ともかく普通なら見守るだけしか死者にはできないのだから、人生のボーナスステージで大好きだった人を救えるというのは幸運なのだろう。いま大切なのはそういうことだ。
05
急いだ方が良いと急かされたが、そもそも丑三つ時では何もしようがない。僕は大人しく帰って死後硬直のままならなさに呻きながら、長いネットサーフィンをして過ごした。何でも死後硬直は死んで二、三時間で始まり半日で全身に、二、三日掛けて解けるらしかったが、リビングデッドでは大分異なるらしかった。都合の良いことだ。七時に家族に飯は要らぬと言い置いて外に出る。昨夜置いていた遺書は、『僕は満足して往きました』と書き換えた。有言実行を目指そうじゃないか。
外に出ると、銀髪の女の子が待っていた。
「行きましょうか」
迷いなく歩き出す彼女に従って、僕は時間を三十分ばかし無駄にした。前に来たことがあるからと自信満々だったので任せたが、僕だってこの町在住。僕もだいぶ、死んだことでぼんやりとしているらしい。死神ちゃんは本当に悲しそうにしていた。何か大事なものを失ったような顔をして。
死神ちゃんに指示された場所は墓だった。そこに華凛はいるらしい。
訝しみながらも辿り着くと、確かに華凛は墓に花を手向けていた。僕らは墓地の入口から確認する。そして僕は腕時計を確認する。ああ、懐かしい。僕は不謹慎にもそう思ってしまった。今日は華凛の妹、春花ちゃんの命日だった。
優しくない思い出だ。多少甘やかではあるけれど、基本苦い。
僕が華凛に恋したのは、七年前の今日だ。長らく忘れていたけれど。僕は春花ちゃんの死が切っ掛けで華凛に恋をした。いや、その時は守らなければと決意したのだったか。
九歳の春花ちゃんの小さな体が車にひかれる様子を僕は見ていた。体がくの字に折れて、首が曲がってはならない方向に曲がって、足から小さな体が車の下に吸い込まれてって、アスファルトに赤いペンキをブラシで無雑作に塗ったような跡ができた。
可愛らしいきょとんとした眼が僕を不思議そうに見ていた。顎が千切れて声も出ないようだったけど、空気が漏れるような音を僕は聞いた。やっと死が追いついたのか、ゆっくりと閉じられた眼からは血液混じりの涙が一筋だけ流れていた。
僕はそばにいた華凛を抱き締めた。幸い、彼女は何も見ていなかった。妹の凄惨な解体シーンも残骸も運転手の酒に酔った間抜け面も。僕は彼女に何も見せてはならないと思った。死神がそこにいるのではなんて思った。だから彼女を守らなければと義務感に駆られたのだ。逆に僕は見過ぎていた。今思えばその時から死神に魅了されていたのだろうなんて言うのは、いささか虚言が混じるか。
「本来ならば、彼女は午後にあなたの訃報を聞き、何を罷り間違ったか自殺に走ります」
辛辣な言葉だが、それに僕は同意する。何をどう間違えたら友人の死に際して後を追おうなんて思うのだ。それは恋人だとかに許されるべき特権だ。どちらにせよ、されたら迷惑だと思うけれど。
ただ、華凛にとって春花ちゃんの命日というのは一年でも特別に憂鬱になる日なのだろう。僕はとんだ日に訃報を聞かせてしまったわけだ。ただ僕も今日が憂鬱に思えたからこそ、昨日を命日に選んだのかもしれない。よって僕は悪くない。
さて、それで――。
「僕が彼女に自殺するなって約束すれば僕は安寧の永眠に入れるわけか?」
死神ちゃんは眉を上げて難色を示したようだった。死神ちゃんは何かを言おうとしたのをやめて、代わりに周囲を気にする素振りをすると、僕を冷たい手で引っ張って草むらへと誘導した。
青姦ですか、と小さくはしゃいだ声を出してみると、地獄の冷気を纏ったような声でキモいと一言、同時に頬を殴られた。青たんできちゃうぜ、ドヤッ。はぁまあ痛くはないけど、心はちょっと痛いかも。ついでに体は遺体かも。僕がメタを意識した高度で稚拙な駄洒落を連発していると、死神ちゃんは心底見下したような目で僕を見つめていた。まったく死にたくなってくる。
声が聞こえて、僕は仕方なしに顔を動かす。
「なぁまだ、あいつのこと気にしてるのか?」
男の声だ。僕が今最も聞きたくない先輩の声。恋敵の声。僕は彼と争う土俵に乗ったことはないのだから恋敵と言うほどではないのかな。戦うことさえ諦めた相手の声。
「そりゃ幼なじみだしさ。ずっと連絡取ってくれないんじゃ気になるよ」
「あいつ、華凛のこと好きだったみたいだしな」
あいつ、華凛のこと名前で呼んでらっしゃるぜ。図々しい、なんて思う僕が図々しいか。
「いやぁ、そんなんじゃないよ。どっちかっていうと家族というか。そうか、なら姉離れかな。ちょっと寂しいね」
本当に寂しそうに彼女は笑う。僕の横で死神ちゃんは感情移入してしまったらしく僕をげしげしと蹴っていた。
「姉ならあんまり男子を束縛すんなよ。うざい母ちゃんは嫌われるからな」
「ちょっと、母ちゃんじゃないし」
姉でもないさ。ただの幼なじみだ。片恋をしていたけれどそれも今じゃ良い思い出。
そう、良い思い出……にしたいからさ、あんまり目の前でいちゃつくんじゃねえ、こら殺すぞ。
「春花、お姉ちゃんもう二十にもなってさ。彼氏もできてさ、幸せだから、できればこれからも見守って欲しいなって。今日はちょっとそんなことを言おうと思って」
僕はそれから、先輩からの結婚を本当に前提とした云々と、二人のキスシーンをたっぷりと見せつけられた。一回、死んでくれ。死に方ならいくらでもレクチャーしてやるからさぁ。
「それで、幸せの絶頂のヒロインにどんな悲劇が訪れんだよ」
僕は死人に相応しい声音をしていた。
「彼を追えば分かりますよ」
死神ちゃんは泣きそうな顔をしているように見えた。そこまで感受性豊かなら、僕の気持ちも慮ってくれないかな。
06
先輩を追って、いくらか歩き、死神ちゃんに従ってまた迷ったところで僕はある二人組を見た。少しばかり暗い路地裏。怪しい通り。角を曲がったところで、その突き当たりに。
そこには彼と彼の彼氏がいた。つまりモブA、BあるいはゲイA、Bあるいはゲイのカップルと表現すべき二人がいた。男色というものに難色を示すわけではないが、まあその同性愛というのは自然じゃないというか、人為と書いて偽というか、人工というか人口の減少に拍車を掛けるというか、そりゃ性向は個人の自由だけれど性交に成功はないだろうなぁとか、まあ人間である以上自然ではないのだから自然じゃないのは自然というか。不自然というのは僕の存在の方だ、とか。
結局僕は混乱していた。大混乱である。改めて僕は男色を否定するつもりはない。人為を否定するわけではない。偽というのにも寛容であるつもりだ。僕は偽善者として末長く生きていたい。
ただ浮気というのは承服できない。僕は流石にそれには男色を示し、もとい難色を示した。なぜここで興奮するんだ。いや確かに興奮はしているんだけど。
改めて、そこには彼女の彼氏と彼女の彼氏の彼氏がいた。
おいおい嫌だぜ。親愛なる先輩が男と乳繰り合っている姿を見ることになるなんて。グラウンドとかだけでなく衆道までひた走っていたなんて。不可思議な危険を、つまり議論すべからずな危険をひしひしと感じた。そんなもの不可知で良かったぜ、一生。墓場まで持っていけるかなこれ。知らぬが仏で済ませるかな。
あれ、何の話だっけ?
僕が少し考えていると後ろから、
「もしかして記憶飛びました? 脳は動いてないんですから気を付けた方が良いですよ」
と死神ちゃんの声が聞こえた。
えっ、知らんかったぜ。
「ちなみに私の姿はあなた以外に見えていません」
えっ、知らんかったぜ。
「ちなみにHe is gay」
えっ、知らんかったぜ。今時の英語の教科書、そんなとち狂った例文載ってんの? つーか目の前の状況じゃねえか。心底知りたくなかったぜ。
「ちなみにYou are ロリコンマゾヒスト」
えっ、知らんかったぜ。死後に他人から明かされる驚愕の真実。って違うわ。
「性癖をやめろなんて言ったって聞きませんよ。馬の耳に念仏です」
「おいおい、怖いな念仏なんて」
馬には効果はないようだが、僕には効果は抜群だ。昇天してしまう。というか僕の話か彼の話か。
「あなたは馬鹿だから効きませんよ」
さいですか。で、どっちの性癖の話?
こりゃ確かに悲劇だ。いつばれるのかは知らないが、僕の死に多少なりともショックを受けている時だったなら自殺も選ぶかもしれない。
「あなたの死で彼女は酷く動揺します。あの彼氏が彼女を面倒臭いな、と思う程度には」
最悪だ。最も支えが欲しい時に支えが男を選んじまったよ。
僕が全面的に悪いじゃないか。僕が先輩と華凛を素直に祝福できてさえいたならばこんな悲劇は起こらなかった。
07
だから僕のやるべきことはひとつだった。
「おいそこのホモ免疫不全ウイルス保菌者予備軍」
ヒトだけラテン語なのに他意はない。別にゲイの二人組に言ったのも他意はなく、性交すれば誰しも菌を持っている可能性があるからだ。
「死ね」
大分心の声が漏れて、僕は少しだけ冷静になった。
「てめえ何だいきなりって、……お前、何で俺と華凛からの連絡に反応しねえんだよ。ふざけんな。眼鏡なんて掛けやがって、心配したんだからな」
先輩も大分混乱している様子。隣の男は僕と先輩の間で視線を彷徨わせている。
「先輩、喧嘩をしましょう」
「おい、俺の話――」
「状況分かってます? 僕の心配をしてくださったのは嬉しいですけど。あなたはやっぱり僕の恋敵になってもらいます」
「これはだな、待てよ。今説明するから」
先輩の声から焦りと恐怖が見えて僕は少しだけ嬉しくなる。やっぱり先輩もさ、まともにやりあおうと思えば同じ土俵には立てるもんなんだ。どっちも等しく最低だ。ただ華凛を最低に落とすことだけはしたらいけない。彼氏なら、彼女を支えるもんだぜ。
「いや、無理か。やっぱさ別れてくれよ」
先輩が傍らの男に言った。頭をほとんど腰の高さまで下げて、そのまま地面に膝と頭をつけて土下座までして。そして僕はやっぱさという単語が気に掛かる。
「嫌、だって」
「本当に頼む」
後ろからひっそりと死神ちゃんが僕に近寄った。曰く、彼は彼女の心が弱っている時にパチンコに逃げます、と。それから続けて、僕が死んだことで華凛を支えなければと、先輩は爛れた関係を断ち切ることになるのだ、ということを教えてくれた。
「僕の行動無駄じゃん」
思わず小声でぼやいた。
「本当に別れてくれ。俺には大切な女がいるんだ。誰よりも大切な女が」
そこまで言われた男は先輩を立たせた。そして女のように思いっきり頬を張った。僕だったら死ねると思うほどの威力だった。男は去っていく。去り際に僕に思いっきり腹パンして去っていった。死んで一番良かったのは痛覚がなくなっていることだろうと僕は確信した。
「おい……ありがとな。これで華凛には自分から謝れる」
腹立つなぁ、本当。男らしいもんだ。潔いもんだ。僕は自分から死んでも未練たらたらなのに。生まれ変わってもまた華凛の傍にいたいなんて思っちまうんだぜ。まだずっと想っているんだぜ。あんたと戦わないで、どんだけ枕を濡らしたと思ってるんだ。
「喧嘩しようぜ。糞後輩。高校から今までずっとお前は本当に癪に障る奴だった。俺かお前以外に華凛に相応しい奴は絶対いないからな」
彼は清々しささえ醸し出して、言った。それに答えるのは僕。
「どっちも不適格だ、糞野郎。あんた勘違いしてんだよ。華凛の素晴らしさに比べたら男なんて全員無価値で不釣り合いに決まってんだろうが」
本当に悔しいなぁ。僕は自分が死んだことで、彼の恋路を絶対的なものにしてしまった。運命の恋人っていうのは二人を言うのだろう。そして僕はただの狂言回し、単なる道化だ。
「僕が勝ったら簡単な約束を二つばかりしてもらいますよ」
「そうだな、俺もそうするよ」
何も訊かないんだな。僕なら訊くか、自分の出す約束を言ってしまうところだ。
ちょっとずるいかなとは思ってしまう。痛みがないのは本当に有利だ。死の恐怖がないのは本当に不公平だ。でもさ、僕程度じゃそれでやっと彼と同じ土俵に立てるのだ。彼は最低だけど、僕は生きてた時からリビングデッドみたいなものだった。土に埋まってても文句は言えない。大体、負けを認めた勝負を、もう一度なんて、たとえ模擬戦に過ぎなくても虫が良すぎるから、きっと僕くらい図々しいゴミじゃないとできない勝負。胸を借りるつもりでやりましょうか。
僕の背を年下の手が叩いた。四歳下の女の子の手が僕を後押しする。
うおおおっっ、なんて雄叫びを恥も外聞もなく上げて走る。僕の頬に拳が、彼の頬に拳が突き刺さり、泥臭い殴り合いが始まった。我がままな子どもの理不尽な喧嘩だった。
痛かった。痛くあるべしと思えば思うほど痛かった。
子どもの喧嘩は長くは続かない。
もみくちゃになって、二人して力尽きた。大の字になって倒れた。僕は文字通り死んでも敵わなかった。だけれど――。
「僕の勝ちですね」
図々しく、僕は言った。
「そうだな」
先輩は少しだけ泣きそうな声になったのを誤魔化すように咳きこんだ。
「確かにお前の勝ちだ」
先輩は寝転んだ僕を尻目に立ち上がった。
「約束ってのは?」
僕の顔をまっすぐ見下ろして、先輩は訊いた。訊きたくなかったろうに、僕の言葉を促した。彼は僕が死ぬまで華凛を守れるのは浮気者の先輩より僕だと勘違いしたままなのだ。きっと、それは愉快だ。それに気付くと僕は涙を流した。嬉し涙だ。間違いなくそうだ。だって僕は勝ったんだ。世界一の女の彼氏を叩きのめしたんだぜ。
「ひとつ、先輩はずっと一途に愛し続けてください」
「おいおい、残酷だなぁ。はぁ……分かったよ。お前が勝手に死んだら奪い取ってやるよ、あいつがおばあちゃんになっても。覚悟しろ」
彼は僕の目を眼鏡越しにまっすぐ見つめて、約束した。悲しそうに笑いながら。涙を堪えながら。
「もうひとつ。心して聴いてください」
僕はそう前置きした。今、僕は人生で一番良い表情をしているのだ。だって好きな人の人生を薔薇色に染めるんだ。最高だ。
「先輩は、牧原華凛と幸せな家庭を築いて、好き勝手二人で幸せになってください」
「お、おい。そりゃ約束が三つになっちまうし、意味分かんねえし」
なに、この魔法の眼鏡は同意の回数でカウントするらしい。問題ないさ。
「先輩って頭悪くないでしょ。体育会系だとしても成績はトップクラスだったでしょ。約束なんて全部同じような意味じゃないですか」
「まあ、そうだけど」
僕は立ち上がる。筋肉が悲鳴を上げているのは魂の錯覚だ。僕は先輩の目の奥をじっと見て、涙を堪えて告げる。
「約束ですよ。男と男の」
「お、おう」
彼は頷いた。僕はそれで満足だった。
08
そして僕は華凛に電話をした。静かな声で墓で待ってるとだけ告げて、やはり静かに何も答えず電話を切った。
幸い、僕の方が先に着いた。だから手紙をひとつ。春花ちゃんの墓に置いて、墓地の入口で大好きな人を待った。
「久しぶり」
華凛は急いだようで息を荒らげていた。それが少し嬉しい。彼女の怒ったような安心したような、そんな表情も涙が出そうなほど嬉しかった。
「心配したんだよ。その怪我、どうしたの?」
「何でだよ、母ちゃんでもないのに」
華凛は予想通り、怒る。
「そりゃ母ちゃんじゃないけど、私は姉弟みたいに――」
「ただの幼なじみだ」
彼女は酷く傷つけられたような顔をした。それもやはり予想通り。人生のボーナスステージ、好きな人を手玉に取っている。
「僕の大好きな初恋の相手で、今もずっと大好きな女の子だ」
「なっ」
動揺した顔も、その気がないにしろでもやはり恥ずかしいのか赤く染まるその様子も愛おしい。そしてそれも悲しいかな、予想通り。生前なら、できなかったこと。する勇気がなかったこと。
「冗談だよ。春花ちゃんに会って来たからさ。ただ華凛に会いたくなっただけだ。悪い、変なこと言って」
「え、あ、うん。別に良いけど」
困った様子、不思議そうな様子。
「ちょっと待ってね。逃げないでね」
「こっちこそちょっと待って」
手を掴んで僕は目を見て言うのだ。
「何があっても強く生きろよ。幸せに。約束だ」
当然彼女は気圧されて、予想通りに――え、うん――と頷いた。表情も呼吸のタイミングさえ予想通り。だが彼女が次に言ったのは予定外だった。
「あ、あんたもね」
「おう」
と僕らは眼鏡越しに約束を交わした。残念なことに眼鏡の効果は三回まで。これはただの口約束だ。
そして華凛は春花ちゃんの墓に走った。逃げんなよと言いながら、逃げるような足取りで。
それにしても華凛は僕のことを全く分かっていない。子どもの恋心をこじらせて、子どものような喧嘩をする人間が、逃げるななんて言われても十中八九逃げるもんだし、子どもってのは好きな人を困らせるもんなんだ。
手紙にはそう中身があることが書かれているわけではない。
ただの恋文。そして最後におやすみと書いてあるだけ。
僕の一生を掛けたなんて言うと大袈裟だけど、およそそういう恋はこうして終わった。
09
そして森で、僕は死神ちゃんと夜を待った。
これから死んでもらうというようなことを、悲しそうな声を隠すこともなく死神ちゃんは僕に伝えた。
夜はすぐに来た。一生を思い返すのに太陽が沈むまでは短かった。
「なぁ、春花ちゃん。華凛は幸せになれるよな」
死神ちゃんは目を大きく開いたが、すぐに素知らぬ顔を作るとわざとらしく言った。
「もしかして私に訊いてます? 私は春花ちゃんじゃないですから知りませんけど……幸せになれるんじゃないですか」
声は震えていた。
「なあ、春花ちゃん」
「だから、私は――」
「あの時、君を助けられなくてごめん」
春花ちゃんは一瞬何も言えず、ただ目を伏せた。
「――別に、気にしてませんよ。大体、お兄ちゃんは――っ」
もう、隠そうとしない。そういえば、あの頃確かに僕らは兄弟姉妹だったのだ。そういや映画も好きだったなぁと今更ながら思い出す。まったくもう遅いよ。
「お兄ちゃんは何も悪くないって」
いや、悪いのは全部僕だ。
「なんで、私だって分かったんですか?」
「幼なじみだからね」
僕は空を見た。星と月が奇麗に見えた。少し眩しいけれど、死ぬにはちょうどいい。僕は春花ちゃんに死なせてくれと頼んだ。春花ちゃんは感情を殺したように、事務的なことだけを喋って、真っ暗闇の穴を作った。
「じゃあ」
と言っても僕はまだ飛びこまない。忘れものだ。眼鏡を僕はまだ掛けていた。
「形見だと思って」
なんて冗談めかして春花ちゃんの耳に掛けた。ついでに髪を撫でる。
「お姉ちゃんの髪撫でたことあります?」
「ないね。じゃあ誓おう。来世じゃ僕は欲望に忠実になる」
僕は月明かりに誓った。
「それと春花ちゃんとはまた会いたいな。いやむしろ、また会おうぜ」
勢いだ。流石姉妹というべきか、彼女も勢いに流されてこくんと頷いた。さらに駄目押しの、はい、なんて言葉。君、ちゃんと眼鏡掛けてんだぜ。使用者変われば、回数だってリセットだろ、きっと。実際のところ知らないさ。ただ僕は死んでから今までが人生で一番上手いことやってきたんだ。
「アイルビーバック」
僕はふざけて親指を上げた。
地獄で会おうぜ、ベイビー。まったくあのシリーズは名言が多い。
11
さあここからは僕の言葉で。
僕は満足していきました。
またいつか、幸せなあなたたちに会えますように。
おやすみ。