三 溺れる
翌朝もむし暑い曇り空だった。
教室へ入るとすでに女子群が久備梨さんを囲んでいて、オレが入ると騒ぎはじめる。
「久備梨さん、おはよう」
「うわー」
「なにがうわーだアホカニ子」
重そうなアクセサリー束をつけた赤毛女子にひやかされ、オレの表面的な人のよさもついほころぶ。
「おはよう久根くん。でもわたしのことは『わぎりちゃん』と呼んでほしいな。呼び捨てでもいいけど、それだと名前っぽくないし……」
もじもじと頬を赤らめる青白スレンダー巨乳の怪女子にどう答えていいのかわからない。
こわばった笑顔であいまいにうなずいておく。
一時限目は体育のプール授業だった。
まさかと思ったけど、わぎりちゃんは水着に胸を押しこめてプールサイドに立っていた。
首には水着と似たような素材の黒いバンド。
「いやあ、思った以上にかっこよかったわー。男子は見れなくて損だねー」
「久根くんにはちょっと見られちゃった……」
向かいの女子群になじんだふりをしているけど、青白く細長い肢体は紺色の地味なスクール水着がまったく似合わない。
そして……あんなでも泳げるらしい。
背泳ぎになると胸のゆれが男子の視線を集める。
ゆったりと水面に浮かぶ風情は、もはや水着を着てないほうが自然な気もした。
「久根っち、わぎりちゃんだけガン見しすぎ~」
なぜオレだけ名指し。
目をそらしたら、隣接する校舎から落下してくる麻江先生が見えた。
プールサイドへ頭が激突する前に白衣をひるがえし、スリッパできれいな着地を決める。
「解剖の授業中に少々、足をすべらせてしまった」
棒読みで体育教師をにらみつけ、こちらへズカズカと迫ってくる。
ビシリとしたスーツと髪型と顔つきがそろった長身モデル体型。
「おや? わぎりちゃんはなにをしているのかな? 背泳ぎかそうか……」
ほほえむ久備梨さんはオレの目の前に浮かんだまま止まっていた。
「久根ー! そうか助けてくれるかあ!?」
人をプールヘ蹴落としながら、なにを言ってるんですか先生。
「久備梨が足をつったからつれてこい」
「え? そうなの? だいじょうぶ?」
どこを持っていいのか迷ったけど、近づいたら長い手足で全身にからみつかれていた。
「迷惑をかけてごめんなさい」
耳へ触れたくちびるの感触にあせってバランスを崩し、足がつく水深で溺れそうになる。
しがみつかれてうまく泳げなくて、首まで絞まっている気がした。
もがいてプールサイドへ届く寸前で沈みかけ、麻江先生に片手でひっぱり上げられる。
「はい久根くんの勇気に拍手~。あとわたしは授業にもどるから、そのまま保健室に連れて行け。ありがとう」
まるで通りがかりのように去ってしまう。
青白い腕脚にしがみつかれたまま呆然としているオレに、友人がバスタオルをかけてくれた。
「おい筒一、おまえこういう日のためだけに保健委員になったんだろ?」
「大人になったんだよ。そんな野暮をできるか」
悟ったような目はオレの背中に押しつけられた胸ばかり見ていた。
マッチョ中年の体育教師に助けを求めようとしたら、すでにすがるような目で見られていた。
疑念と恥辱をこらえ、濡れた水着のまま校舎内の廊下を歩くはめになる。
保健室の扉にあった貼り紙は麻江先生の字に見えた。
『養護教諭は急病だ』
緊急連絡先の携帯番号も、担任のものとして見覚えがある。
「だいじょうぶ。許可はもらっているから、入って、閉じて、鍵をかけて……」
ささやく時に耳へくちびるをかすらせないでください。
入ってみる。もちろん鍵はかけない。
ベッドに下ろしても手足をほどいてくれない。
「わぎりちゃん? 早く体をふかないと」
「ごめんなさい。緊張で固まっちゃって……ほどいてくれる?」
反論は無駄な気がして手首をつかむと、あらためて驚く細さだった。
「あ、ああっ、ああん」
変な声だすな。
「うああ、折れるっ、もげる~う!」
「生々しいからやめて!?」
「ごめんなさい。お礼のつもりで……」
「そういうのは一切いらないから」
手足はあっさりほどかれていた。
「わたしのこと……嫌いになった?」
しおらしいおびえ顔はずるいだろ。
「そんなことないよ。でも、もっと普通の友だちづきあいからはじめたいだけ」
「そんなっ!? 久根くんが首斬り死体に興奮する性分でないなら、なんでこんなに優しくしてくれるの?」
「誰がそんなことを」
あと今、自分で死体と言ったか?
「というか麻江先生の横暴で、選択肢はなかったし……」
「麻江ちゃんに、言われたから?」
よどんだ大きな瞳が逃がしてくれない。
「ちがうよ……オレも前に、学校へ行かない時期があったから」
別にたいした理由はない。
「学校に行くのがバカらしくなって、ふらふらしていた時がある。それでひさしぶりに登校してみたら、同級生がもう他人というか、別の生き物みたいに見えて。なにか話そうと思っていたのに、どう話していいかもわからなくなっていた」
ふと触れている体の冷えかたに気がついて、細い肩へ毛布をかぶせる。
わぎりちゃんは当たり前のようにそれをオレの肩にもかけた。
「それから卒業までずっとひとりで、ここにも同じ学校出身のやつはいるけど、いまだに話してない。だから筒一みたいに騒がしいやつが前の席にいて、けっこう助かった」
じっと見つめられていた。
ふたりきりでベッドの上だと、水着姿はいっそう穏やかではない。
「だ、だからまあ、くだらない雑談とか、ありきたりな学校行事とか、そういう当たり前なことのほうが、わぎりちゃんには大事な気がして……」
今のこの状況、当たり前かあ?
「久根くん、そんなに考えてくれていたんだ?」
わぎりちゃんはうつむいて、ひざをくりくりとにじる。
「そういう前ふりを積み重ねたほうが、盛り上がるよね……こだわるほう?」
なにを?
「じゃ、オレはもう……」
立ち上がろうとしたら、腕にすがりつかれた。
押しつけないで。谷間に埋めないで。
「久根くんに、あやまらなくてはいけないことがあるの」
「な……なに?」
「ここ、つかんでみてくれる?」
両手をにぎられて、チョーカーより少し上へ誘導される。
もし首の傷が高度な特殊メイクだったら、笑って許してあげよう。
「両手でバランスよく、一秒に一ミリずつ上へ……」
これ、いったいなにをやらされているの?
高度な死体呪術だったら笑って聞かなかったことにするから、もう許して。
両手に黒髪おかっぱ頭の、そして青白い全身の体重がかかってくる。
思ったより首の伸びる感触があったけど、このまま続けたら、まさか縫い目が……
「ねえ久根くん、どんな感じ?」
「どんなって……これ以上は、首を絞めちゃうから怖いよ」
長いまつ毛が伏せられる。
「怖いだけ? わたしはいい気持ち……」
背筋がぞわりとして、そっと手を下ろす。
深く暗い瞳がゆっくりと開いてほほえんだ。
「さっきプールで、ちょっと首を絞めたくなったの。許してくれる?」
心を見透かされている気がして、目をそむける。
「溺れているわりに正確にくいこんでいた気はしたけど……本当に苦しかったから、もうそういう悪ふざけはやめてほしい」
「悪ふざけではなくて……久根くん、もう一度やってみない?」
おかっぱの黒髪を上げて、細い首をさらに長く見せつけてきた。
どろりとねだる視線をからみつけ、耳にも細い声を忍びこませてくる。
「わたし、もう一度、やってみてほしい」
無防備なうなじを向けて、ふたたび目を伏せた。
オレは息を飲む。
体温がある。体臭がある。
幽霊やゾンビには思えないのに、怪物に喰われる気配を感じていた。
白すぎる首筋を見つめたまま、身動きできなかった。
どうにか声をしぼる。
「なん……で?」
久備梨さんの目が開いて、さびしそうにひざを見つめる。
「引っぱってみたくならない?」
「久備梨さんは……いや、わぎりちゃんは、引っぱられたいの?」
ゆっくりと視線を向けてくる。
湿度を上げるほほえみ。
「腕の中に久根くんの首があった時『このままはずせたらいいのに』って思ったの」
思わず想像して、恐怖ではない感覚を抱いた自分にとまどう。
「久根くんがわたしの首に同じことを感じてくれたら、しあわせになれる気がして」
どちらの首がどちらの腕の中にあっても、たがいに安らいでいる姿が浮かんでしまった。