~No.15~
明るい光で目を覚ました。見覚えのない部屋―いつの間にか白髪男はベッドに寝かされていた。顔を横に傾けると大きな縦長の窓から三日月が顔を覗かせ白髪男の顔を照らしていた。光の正体はこれだったのだ。
「あれ、動かない」
まるで身体の上に大きな石が乗っているかのようだ。力も入らず寝返りもうてない。唯一動く首を下に向けると、眠っているシャイナが視界に入ってきた。
(シャイナさん…)
気を失った白髪男の側でずっと付き添ってくれていたのだ。その身体に薄い毛布を掛け肌寒い部屋の中で――
「あったかい……」
眠るシャイナの手はしっかりと白髪男の手を包み込んでいた。誰かに手を握ってもらうなど白髪男は初めてだった。嬉しくなって温もりあるその手を少し握り返した。と、拍子にシャイナの身体がごそりと動いた。
「…ん…気づいた?気分は?」
「大丈夫…みたい。ごめんなさい、僕倒れたんですね」
「私の抜糸が終わったと同時に。きっと疲れがたまってたのね。でも健康管理はしっかりしなきゃ駄目。あなたが倒れたら心配する人がいるのよ。そういえば…名前聞くの忘れてたわね。何て呼べばいい?」
「名前……知らないです」
「え?」
シャイナの口はそのまま固まった。
「自分の名前を知らないんです。今まで付けてくれる人なんていなかったから」
淡々と話す白髪男にシャイナの目は憂いた。
「そう……じゃあ、お母さんとお父さんの顔も知らないのね」
頷く白髪男は健気で哀れで目頭が熱くなる。
(こんなに幼いのに…親の顔を知らないなんて)
白髪男から目を逸らすと毛布を肩に羽織ったまま静かに立ち上がり月光で明るい窓辺に近づいた。
「私も、子供の顔知らないの」
「シャイナさんの子供、死んだの?」
その質問にシャイナは押し黙ったまま答えなかった。白髪男も聞き返さなかった。
窓から振り返るとシャイナはベッドにいる白髪男に聞いた。
「お腹空いたね。何か食べる?」
夕食後、子供は再びベッドへと潜り込み深い眠りに落ちた。その部屋に音を立てないよう慎重に入り気持ちよく熟睡する白髪男の寝顔をシャイナは微笑ましく眺めた。無造作に切られた白髪を優しく撫で、自分の白髪と見比べる。全く同じ色だ。
「私と同じ色。…あの子がいたらあなたみたいに育ってたのかな…あなたがあの子だったらどんなに嬉しいか」
白髪男の幼い寝顔に顔を近づけるとその頬にそっと口づけた。
ギィィィ……
誰かが入ってきた。ディナだ。
「シャイナ様、お客様です」
ドアから覗くディナの顔は嬉しげに微笑んでいるが、シャイナは訝しげに顔をしかめた。
「お客様?」
涙ぐんでいた目元を拭くと「こんな遅くに誰?」と不審を隠せないまま玄関へと続く階段をゆっくり降りていった。一段ずつ、静かに足を運ばせながら玄関の広間を窺う。
(……男?)
客の背中が見えた。その肩幅は広く背も高い。重々しい黒のコートをすらりと着こなし姿勢が良い。
なかなかこちらを向かない為、誰だか分からない。
男は玄関扉をじっと観察していた。
(何見てるの、あの人……)
ますます怪しい男にシャイナは声を掛ける気にもなれない。暫し男の監視を続けるシャイナの後ろでディナは声も出さず笑いに耐えていた。その事に気付きもしないシャイナはまた一段階段を降りた。
(あ……)
男が動いた。
コートのポケットに入れていた手を出すとその指先で扉に彫られた模様をなぞった。その指には大量の埃が付着していた。
「いつから拭いてないんだ」
男の不機嫌な声にシャイナの胸は熱く反応した。
「……セヴィル」
小さくか弱い声だったがセヴィルは聞き逃さなかった。後ろを振り向くと放心顔の妻が階段から自分を見つめていた。
「ただいま、元気に――?!」
言い終わらない内にシャイナが胸に飛び込んで来た。足を崩したセヴィルはシャイナを抱いたまま床へと倒れ込んだ。セヴィルを下敷きにそれでもシャイナはセヴィルの胸から顔をあげなかった。
「シャイナ…」
夫は大きな手で頭を優しく撫で、低く透き通る声で名前を呼んでくれた。
「お帰りなさい」
自分の下敷きになっているセヴィルに顔を近づけるとシャイナはその覆面を優しく指で剥ぎ取った。露わになった素顔は日に焼けて少し浅黒いものの鼻筋が通った端正な顔立ちをしている。初めて出逢ったあの時と変わらない。
セヴィルはゆっくりと妻の顔を引き寄せそれまでの寂しさを埋め合わせるように互いの口を重ね合わせたまま抱き合った。
「ずっと、会いたかった…」
長い口づけの後、泣き声でそう囁かれ耐え切れなくなったセヴィルは再びシャイナの唇にキスをした。
「本当に久し振りの帰省ね。そんなにお仕事忙しかったの?」
「ああ、寝る時間もないくらいな。しかし……よくもまぁ、これだけ汚せるもんだ。少しは片付けを学ぼうとか思わないのか?」
「うーん……思わない。だって気にならないもの。毎回帰ってくる度にいつも同じ事を言うのね。もう聞き飽きたわ」
大切にしまっておいたワインを取り出し酒を飲む準備をしている妻の背中にセヴィルは情けなく溜息をついた。
帰省する度に散らかったシャイナの部屋を片付けるのは既に恒例行事だ。整理整頓を欠かさないセヴィルの性格はシャイナのゴミ部屋を許さなかった。たとえ疲れ切っていたとしても、この部屋をこの状態にしたまま眠るなど有り得ないことだ。むしろ気になって眠れないのだった。
壁に積み上げられた図鑑や書籍を出来るだけ形を整え、床に散らばるゴミクズを袋へ次々突っ込むセヴィルの後ろ姿に思わず笑いが吹き出る。
(そのままにしておけば楽なのに……ごめんね、セヴィル)
心底夫に謝りつつ、シャイナは2つのワイングラスをテーブルに並べ静かにセヴィルの片付けを待ち続けた。
「ふぅ…終わった」
ようやく事を終えたセヴィルは汚れきったシャツで汗を拭いた。
「お疲れ様」
待ってました、とでもいうようにシャイナはワインをグラスに注いだ。それを差し出すとセヴィルは甘い香りを嗅ぎ、それから一口含み満足そうに喉を潤した。
「美味いな」
「でしょ。今年はブドウの出来がいいからって農家の人が樽ごと持ってきてくれたの」
「樽ごと……それは凄いな」
「もう飲んじゃってあとはこれだけなんだけどね」
「……あ、そう」
相変わらずの豪酒ぶりも健在のようだ。
それでも握力のない手で一生懸命ウォッカの蓋を開けようと奮闘しているシャイナを見ていると微笑ましく思った。横から瓶を引き取り簡単にひねって開けてやるとシャイナは嬉しそうに顔を緩ませた。
数少ない夫婦の時間、2人はいつも大好きなお酒を飲みながら愚痴や近況を語り合うのだ。それはセヴィルとシャイナにとって最も心安らぐ一時であった。
「聞いて、セヴィル。お腹の傷、今日で完全にふさがったのよ。もう大丈夫だって」
セヴィルは耳を疑った。妻が負ったあの深い傷はそうそう塞がるものではないと思っていたからだ。
「あの傷が?ファルがそう言ったのか?」
「ううん、今日のお医者さんはファルの代理の人。私みたいな白髪でとっても可愛い男の子よ」
(白髪……)
セヴィルの頭にあの白髪男がよぎったが、そんな訳はない、とすぐに消去した。
「そうか、なんて名だ?」
「ないの」
「は?」
「その子、名前がないのよ。小さい時から親もいなかったんだって。きっと寂しい思いをしながら大きくなったのよ」
「……そうか」
そこで会話は途切れた。2人は黙って酒を注ぎながら静かに飲み続けた。
(今だな…)
遂にあの事を話す時がきたようだ。シャイナはどんな反応をするのだろう、とグラスを揺らしながら躊躇しているとシャイナが勘づいた。
「なぁに?セヴィルが話を躊躇するなんて珍しいわね。もしかして…浮気?」
冷やかすように笑うシャイナにセヴィルも「ふっ」と笑みをもらした。
「馬鹿。これを聞いたら、お前はどんな反応をするんだろうと思ってね」
「だからどんな話?」
深く息を吐くセヴィルにシャイナの顔つきも少し固くなった。真面目な話らしい。
「あの子、生きてる。シャイナ、俺達の子は生きてるんだよ」
そう話すセヴィルの目は至極真面目で力強かった。




