篠山優香の奮闘記(前)
前日の放課後、篠山優花は木檜高校の図書館に籠もっていた。といっても、幽霊などという虚構を信じていたわけではなく、一応は調べると言った手前引けなかっただけである。
「ふぅ…………」
ため息をつく。案の定、大した収穫は得られなかった。
わざわざ部活を休み、司書に無理を言い、数年前の卒業アルバムまで引っ張り出してもらったのに、全くの無駄であったのだからため息も出る。
存外に調べる量が少なくて済んだことも、落胆に拍車を掛けていた。
というのもこの高校、五年前に制服のデザインが一新されており、これ以前の生徒を調べても高浜の見た幽霊もどきとは繋がらないのだ。
何冊かアルバムを捲り、そのことに気付いた瞬間彼女の探求心は急激に萎えていた。
いかに仕方なく、と言っても調べ物をするならばせめて数時間は机に向かい続けなければいけないくらいの規模が欲しい。
たかだか三十分では甲斐もないというものである。
元より能力が高く、速読も会得している篠山にとって、五冊のアルバムというのは薄い紙と大差がなかった。
奇跡的に同姓同名でもいれば、さらに深く調べる楽しみも出来るがそれもない。
完璧な不完全燃焼。この十倍でも調べる量があれば、たとえ無駄足であってもここまでひどい気分にはならないだろうと、篠山は思った。
「在校生でも調べてみるかな……」
ぽつり、呟く。
部活に戻る、という選択肢もあるがどうせコンクールも終わっているしこんな気分で作品を作るのは難しいだろう、という判断である。
また、今行くと部員達に当たってしまいかねないという不安もあった。
八つ当たりの言葉責めを受け切れるほど、彼らは強靱ではなかったし、こんな下らないことで後輩との関係を失うのは惜しかった。
「そうと決まれば、一年か三年か」
特に調べ甲斐がありそうなのは一年だ。二年は自分の学年だし全員の顔と名前を一致させている自信はある。三年は去年一年間で大体の顔ぶれが知れている。
単純に半年しか付き合っていない一年が、一番ブラックボックスの量も多い。
ただ、期待はしない。死人が出れば校内で噂にくらいなるだろう。
交友能力の低い高浜ならばまだしも、彼女の耳に入らないことはまずありえない。
「隠してるってことも……ないか」
何かやましいことがあれば別だが。
もっとも、人の口に戸は建てられない。全く噂にならないのは不可能だろう。
……まぁ、全ては名簿を見てからだ。下らない邪推は、それからでも遅くない。
そう結論づけて、篠山は席を立った。
「名簿は——————職員室か」
篠山は司書に礼を言って、名簿を見るための適当な言い訳を考えながら、図書室を後にした。
「? 在学中に亡くなったんなら、卒業アルバムには載ってないんじゃないか?」
「いや、実際数年に一人は、何らかの原因で亡くなっているんだが、きちんと名簿には載っていたよ」
俺の疑問に、篠山は明確な答えを返した。なるほど、そういう方針でこの学校はアルバムを作っているらしい。
ちなみに原田は、先ほど篠山から大まかな経過、俺からモデルを頼んだときに分かったことを聞き、大体の事情が飲み込めたらしい。
最初の方こそ、二、三質問を投げかけてきたが、今では静かに頷くだけである。
「それで? 見つけたんだろ? 在校生名簿に、立川さつきを」
「ああ、そうだよ」
俺の確認に、篠山は、僅かに顔を曇らせた。
「し、篠山君? い、い、今は、個人情報保護とか、色々あってね?」
「…………先生は、私が信用できませんか?」
「そ、そう言うわけではなくてね? 規則としての問題として、その、ちょっと……」
職員室という、教師のホームグラウンドで、篠山相手にビクつきまくるこの男は、美術部顧問にして、一年生の美術担当、田畑弘庸である。
大抵の生徒に『冴えない』という印象を与えるこのひょろながの男は、特に篠山という優等生を苦手にしていた。
どうにも、この少女の持つ、底知れぬ雰囲気に呑まれるらしい。美術部の活動が、ほとんど部長任せの放任主義となっているのも、こういった理由がその大部分である。
——一年の名簿を見ることを決めた篠山は、職員室に向かうまでの間に、この妙に押しに弱い男に当たりを付けていた。
田畑は全クラスの美術を担当しているため、一年生全ての名前が入った出席簿を持っている。面識も深いし、確実性ならば一番だろうと踏んだのである。
そして、その予想は的中していた。
「……ほんの少し見るだけでも、ダメですか?」
「いや、まぁ、君は優秀で信用できるし、ほんの少しなら、いやでも……というより、な、何で見たいの? 出席簿なんて?」
田畑が困惑して訊ねると、途端、篠山は顔を赤らめ、うつむき、所在なさげにモジモジとした。
声も小さくなり、ほとんど聞き取れない。
「その————から」
「はい? あ、あの聞こえないんだけど」
「……気になる人が、いるから」
言うと同時に、顔を覆い、『きゃー』と恥ずかしげに悶えた。
言うまでもなく、ここまで完全に演技である。
一方、田畑は、ポカンと間抜け面を晒していた。
それも当然か。
今まで凛と話していた少女が、何があっても揺らがないだろうと思っていた生徒が、いきなりコレである。
驚かない方が難しかった。
「ひ、一目惚れ、しちゃって。友達に、名前呼ばれてたから、名前だけは、分かったんですけど」
「は、はぁ」
気のない返事をしながらも、田畑の脳内には警鐘が鳴り響いていた。
いくらなんでもおかしい。凄くイヤな予感がする。
そんな考えを、いや、気のせいだ、と断じて田畑としての妥協案を提示する。
「そ、それじゃあ、その名前だけ教えてくれ。私が名簿から探して、クラスを教えるから」
「先生……ひどいです」
へ、と固まる田畑に、泣き顔の篠山が迫る。
「私、誰にも聞かれたくないから、知られたくないから、こうして先生を頼ってきたのに……無理矢理聴き出そうとするなんて」
田畑は、ええーと叫びたくなるのを必死に堪えた。
無理矢理とかいう根も葉もない言葉にではない。
見たことのない泣き顔にでもない。
その裏に秘められたモノ。
明らかに篠山が苛ついているという事実に、心底から恐怖を覚えたのである。
「先生?」
「う」
周囲に視線で助けを求めるが、こんな時に限って周りに誰もいなかった。
これも狙ってきたのか、と震え上がる。
……実のところ、田畑は篠山の本性を知っているワケではない。
ただ、他の教師よりも触れ合う時間が多く、また元来勘も鋭い方だったので、『篠山優花は危険だ』ということを本能的に理解していた。
もしこれ以上しぶれば、明日には出所の分からない、しかし微妙に事実に沿っている不名誉な噂が学校中に流れている、気がした(幸か不幸か。中学時代の篠山が、セクハラ教師をこれに近い方法で叩きのめしたことを、田畑は知らなかった)。
田畑の最近薄くなってきた頭に、篠山の視線が突き刺さる。
もう、限界だった。
「……分かった。さっさと見て、さっさと帰ってくれ」
「————ありがとうございます。先生」
田畑から美術の授業用の出席簿を受け取った篠山は、あっという間に全てのページに目を通し。
「も、もういいのか」
「ええ、手間をお掛けました」
そう言って、押しつけるように名簿を返していた。
余りの早業に声も出ない田畑を尻目に、篠山は職員室を後にした。
もちろん。
「あ、私がここに来たこと、誰にも言わないで下さいね?」
と、田畑を震えさせることを怠りはしなかったが。
結論から言うと、立川さつきは一年五組に在籍していた。
あくまで美術の時間だけだが、新学期に入ってから出席した形跡はない。
篠山としては正直驚きであったが、同時に恐らくは当たりだろうと直感していた。
「……が、まだ足りない」
存在は確認出来たものの、なぜ休んでいるのか分からない。
イヤ、病欠のマークは入っていたのだが、その病名がはっきりしないのだ。
幽霊ではなく存命しているらしいことは、それはそれで衝撃の事実だったが、分かった事がそれだけでは、調査としては不十分だと思われた。
「あれ? 部長、帰ったんじゃなかったんですか?」
「いや、調べ物をしていたんだが、ちょっと君に訊きたいことが出来てね。戻ってきたんだ」
篠山は美術室に戻っていた。
一年五組に所属する後輩に、立川さつきの事を訊く。
単純だが、効果的だと思われた。
「やだな〜篠山先輩に分からないことが、私に分かるわけ無いじゃないですか〜」
「いや、そうでもないよ。例えば、立川さつきという生徒については、君の方がよく知っているはずだ」
立川さつき、と訊いた瞬間、それまでのんきな顔をしていた後輩に緊張が走った。
慌てて取り繕うが、もう遅い。
それを逃すほど篠山優花は甘くなかった。
「えっと、その先、輩?」
「それじゃ、向こうで話そうか? 林さん」
不幸にも篠山の標的になった後輩、林は、死刑台に登る囚人のような顔で、美術準備室に引きずり込まれた。
「……さて、話してもらえるかな? 林さん」
「————あの」
「ああ、素直に話してくれれば何もしないよ。ただ、嘘や誤魔化しはやめてくれ。非常に魅力的だが、ソレに費やす時間が今はないんだ」
篠山の笑顔に、林は震え上がった。
美術部員にとって、篠山の機嫌を損ねることは、何よりも恐ろしい。
理不尽な折檻など無いし、精神的にいじめられるということもないのだが、何故か恐れている。
理由として考えられるのは、まことしやかに囁かれる噂だ。
なんでも、美術部に仇なす人間はことごとく趣味に付き合わされるとか。
何の趣味かと言えば、美術準備室の端っこに転がっている、蝋燭とか、縄とか、猿ぐつわとかを見て推測するしかないがきっとろくなモンじゃないだろう。
美術部員を突き飛ばした不良が、三日後に廃人同然となっていた、という話も聞く。
とにかく、恐ろしかった。
「でも、部長、あの、立川さんの事は……」
「ああ、口止めされてるのか。大丈夫、私は口が堅いし、盗み聞きなんてマナー違反をする馬鹿がいたら、きちんとお仕置きしておくから」
ガタガタッ、とドア付近で物音がした。
聞き耳を立てていた他の美術部員が逃げ出したらしい。
篠山は、チラとだけそちらを見ると、興味なさ気に鼻を鳴らした。
「さぁ、邪魔者も消えたし、話してもらおうかな」
「……もう、何でも訊いて下さい」
林は完全に諦め、うなだれた。
「………………」
「………………」
「? 何だい? 二人とも、変な顔して」
変な顔にもなる。もっと猫を被っているかと思ったが、完全に暴君じゃないか、こいつ。後輩はおろか教師まで従えるなんてどんな恐怖政治だ。
原田の気持ちも同じなのだろう。大いに呆れ顔をしていたが、このままでは時間の無駄だと思ったのか、ため息をついて先を促した。
「むぅ、態度が釈然としないけどまぁいいか。それでね——」
篠山の話は続く——。
「ふむ、そうだな。今更だが、立川さつきさんは君のクラスメイトで間違いはないね?」
「……はい。立川さんは、私のクラスメイトで、中学時代からの知り合いでした」
へぇ、と篠山はほくそ笑んだ。
自分のことながら運が良い。これならば、より詳しく調べることが出来そうだった。
逸る気持ちを抑え、極めて冷静に先を促す。
「それで、彼女の身に何があったんだい? 学校に来ていないんだ。よっぽどのことがあったんだろう?」
「……はい。彼女の身に異変が起こったのは、中学の二年生の頃からです。それまでは、明るくてきれいで頭が良くて、正直憎らしいくらい素敵な女の子でした。話しかけるのを躊躇っちゃうくらい輝いてて。でも——」
「それくらいから、陰が出てきた、と」
篠山の言葉に、林はゆっくりと頷いた。
問題の根が意外に深いことを知って、篠山はため息をつく。
だが、それでも覚悟を決めて、その先を訊いた。
「それで、原因に心当たりは? 病気の兆候があったとか」
「…………どうでしょう。ただ————」
「ただ?」
林は、ここに来て黙り込んでしまった。
余程言い辛いことなのか、何度も何度も逡巡して、ようやく、か細い声を発する。
「その頃から、イヤな、噂が」
「噂?」
「立川さつきは——————人殺しの娘だと」
「!!」
篠山に衝撃が走った。
一瞬、何も言えなくなる。胸が痛い。噂の真偽はともかくその後の立川さつきの処遇は、きっと——。
「…………林さん。その後に行われた、イジメの規模はどれ位だったの?」
「ッ————なん、で」
説明していないことを言い当てられ、今度は林が硬直した。
動揺が顔に表れ、手足が震えている。
その様は小動物のようで篠山は若干Sっ気が刺激されたが、そんな場合ではないので、解説を始める。
「——君も言っていただろう、憎らしいほど、と。強すぎる輝きは、時として妬みを呼び起こす。さつきさんの性格が良かったからそれまでは表面化しなかったんだろうが、きっかけさえあれば——」
「……はい。それまで立川さんとそれなりに話してた人も、急によそよそしくなって。……私、あの人が裏で何をされているかは知らなかったけど、日に日にやつれていくのを見てたら、やり切れなくて。でも、でも」
「何も出来なかった、かな?」
篠山の追い打ちに、林は完全に俯いてしまった。
しかし、篠山に容赦はない。自分の目的のために、新たな情報を求める。
「それで、それは高校に入ってからも続いていたの?」
「…………いいえ。大体みんな、ばらけて進学しましたから。もう、いじめるような人はいなかったと思います。でも、立川さんの方は、すっかり暗くなってしまって、元気もなくて、何日も学校に来ないこともありました。だから、二学期に入って先生に、『立川は家庭の事情でしばらく学校に来れない』と言われても、みんな気にしなかったんです」
「……成る程」
不登校になってもおかしくない、ということか、と篠山は一人納得した。
欠席の原因が不明でも、木檜高校では病欠扱いとなる。
美術の教師までは欠席の原因はいかないだろうから、仕方なく病欠を付けた、と考えれば比較的妥当であった。
……ただそれでは、高浜の見ている少女は誰なのか、説明がつかない。
篠山も、高浜がこの事情を知った上で、原田や自分をからかっているとはとても思えなかった。
高浜という男はそこまで命知らずでも、恥知らずでもない。
それは、彼を知るもの全員の共通意見と言って良かった。
「まだ、情報が足りないか……」
「あの、部長?」
「ああ、ありがとう林さん。大声で言いづらいことを訊いてしまってすまなかったね。参考になったよ」
「あ、は、はい……」
ほっとしたような顔で、部屋を出て行こうとする林に、思いついたように篠山が声を掛けた。
「ああ、待った林さん。一つ、訊きたいことがある」
「え、あ、はい」
再び緊張した顔を見せる林に、篠山はそんなに恐れなくても、と苦笑混じりに言った。
「何、大したことじゃない。さつきさんの家の住所を知っていたら、教えて欲しいんだ」
「あ、はい。前に近くを通ったことがあるので、多分、分かります」
「そうか、それじゃあ頼む」
「…………………………」
「? 林さん?」
黙って首を傾げた林に、篠山は不審そうに目を細めた。
ソレを感じ取り、慌てて林が口を開く。
「あ、いえ、その、何で部長は立川さんの事を知りたがるのかなって、思っただけですから」
「ふむ、ああ、そうか」
確かに、何の理由もなく訊くようなことではない。不思議に思うのは当然。
とはいえ、詳しく説明する時間もないので、端的な理由だけを篠山は口にする。
「——友達のため。それだけだよ」
「??」
さらに首を傾げる林を見て、篠山は穏やかな笑みを浮かべた。