異変(前)
白い世界。
意識を失った時に、必ず落ちる悪夢。どういう訳だか、ここでは全てに無気力だ。
ただただ、何もせず、する気も起きず、目を覚ますのを待つ。
「お前の描く絵は、空っぽだ」
どこからか聞こえる声は、乱反射して頭に響く。誰の声かも分からない、罵声。
文句をつけるだけつけて、本人は俺の前には現れない。
いつもは聞き流すその声が、今日は何故だか、癇に障った。
この夢の中で、感情を持ったことに驚きつつ、その怒りを口に出す。
「——黙れよ、人の絵に口出しやがって、何様のつもりだ」
意識すると同時に、むかっ腹が立ってきた。
こいつが、どれだけ偉いか知らないが、根拠無く否定されて、良い気分はしない。
「何様? オレ様だよ? それ以外に何がある?」
「わけわかんねぇよ。日本語で会話しろ」
「それ位読解しろよな。全部教えてもらわないと理解出来ないか? 能無し」
「そう言うてめぇは臆病モンだろうが。隠れてないで、姿を見せろ」
「おーおー、夢の中だと強気なこと。良いぜ、誰だか当てられたら出てってやるよ」
現実では考えられないほど、感情が高ぶる。語気も荒くて、自分じゃないみたいだ。
…………………………自分?
「なるほど。お前、俺自身か」
「へぇ……速いじゃないか。当たりつけてたのか?」
驚いたような声がすると共に、目の前に鏡が現れる。映し出されるのは、俺自身の姿。ただ、その顔は、いびつに歪んでいる。そいつの顔を一瞥して、ため息と共に吐き捨てる。
「当たりも何も、ここは俺の夢だろう。だったら、そこにある全ては、俺自身が作っている物。どんな形をしていたって、それは俺の一部だ」
「………………なんだ、そんなトンチで当てられたのか。おもしろくねぇ」
そう言うと、鏡は再び背景に溶けた。答えが気に食わなかったらしい。ふて腐れたような声が、乱反射して届く。
「まぁいいや。警告はしてるし、なるようになるだろ」
「はぁ? 何が警告だ。自画自虐をしただけだろうが」
答えがない。考えろ、ということだろう。
…………それにしても、あの言葉が、夢の中の記憶だとは思わなかった。夢の記憶が現実の記憶として残る、というのは、かなり珍しい事だと思う。これほど、印象に残っているのだから、よっぽど重要なのだろうか?
——分からない。結局、目を覚ますまで、答えは出なかった。
放課後、正面玄関に向かう。正直、夢の内容も気になったが、今急務なのは、立川を元に戻すことと、そのために、立川さつきという人間について調べることだ。ああ、その前に、幻覚かどうかを判定する必要もあった。全く……やることが多い。
喧噪冷めぬ、校舎の中を進む。人の声が、やけにやかましく感じる。
玄関に到着。辺りを見渡すと、立川はすぐに見つかった。昨日と同じように、昇降口の付近に立っている。
「お——————————」
声を掛けようとして、その視線が虚ろなことに気付いた。
なんというか、生気がない。歩いていく人を見るのでも、俺を捜すでもなく、ただ何もない中空を見つめている。イヤな予感がよぎった。慌てて駆け寄り肩を揺する。
「おい、大丈夫か? 聞こえるか? おい!」
「…………高浜、君?」
虚ろな瞳が、俺を捕らえる。『お前が大丈夫か?』という周囲の目線が刺さるが、この際どうでもいい。とにかく、こいつの意識を引っ張り戻さなくては。
「自分が誰か分かるか? 何でここにいるか分かるか? 今日何をするか分かるか?」
「私……は…………立川、さつき。高浜健吾君と……約束したから、ここにいて、今日は、元に戻るための事をする」
目の焦点が合ってきた。どうやら元に戻ったらしい。俺は安堵のため息を漏らすと、今更ながら、小声で訊ねた。
「もう、大丈夫か?」
「うん……ありがと。えーと、今、何時?」
「授業が終わったところ。約束の時間だ」
「そう……あーあ、昨日、家に着いてからの記憶が無いや」
立川は、疲れたように吐き捨てた。もしかしたら、俺が思っているよりも時間は無いのかもしれない。明らかに、立川は憔悴していた。目に光こそ戻ったものの、髪はボサボサだし、制服も、どことなく汚れている。目の下には、薄くクマもできていて、やつれた感じが出ていた。……一日で、ここまで変わるモノなのか。
「調子、悪そうだな」
「うん、まぁ、ね。ここ最近、ずっと意識がなかったのに、昨日一日ずっと起きてたから、反動が出たのかもね」
立川は、力なく笑った。…………つまらないことを訊いた。見れば分かることを、わざわざ訊ねて、罪悪感を覚えてどうする。できることは決まっているのだから、それをすればいいのだ。
「………………美術室に行こう。そこに、協力者が居る」
「……うん」
立川の手を引き、校舎の中に戻った。
美術室は、校舎の五階の端に美術準備室と並ぶ形で、ひっそりと設置されている。例によって吹奏楽部がいないため、もう少し後、下校の時間帯が過ぎれば、静かに話ができるはずだ。
扉に付いたガラスを通して中を覗くと、頼りになる助っ人、篠山はまだ来てはいなかった。仕方ないので、美術室の扉の前で時間を潰す。
ふと周囲に気をやると廊下を行き交う生徒たちの、好奇の視線を感じた。
この階は、一年生の教室がその大半を占めているため、上級生が居るとそれだけで注目の的となるのだ。
美術部員や吹奏楽部員ならば彼らも見覚えがあるだろうが、帰宅部の俺では怪訝に思わない方が無理だろう。
隣を見ると、辛いのか、立川が目を閉じて、戸に寄りかかっていた。心なしか、息も荒い。…………本当に大丈夫か? こいつ。
「おい、立————」
「やぁ、すまない。遅くなった……なんだい? その顔」
いーえ別に、話しかけようとした瞬間に横から話しかけられて、ちょっとびっくりした訳じゃないですよ、篠山さん。
「…………中で、話そうか」
「? 別に良いけど……」
首を傾げ、部屋の鍵を開けた篠山と、かなりグロッキーな立川を連れて、美術室の中に入った。
篠山にアポイントを取り付けたのは、昼休みの初めだった。
別のクラスを訪れ、生徒を、それもクラス内序列最上位の女を呼び出す、というのは、そうとう大変なミッションだったわけだが、まぁ、なんとか完遂できた。
……呼びに行った男子が、「振られてもめげるなよ」などと哀れみを込めた目で見てきたことは、些事なので気にしないし、多分もう二度と呼びにいけないだろう、ということもどうでもいいのでスルーである。
重要なのは、話した内容だ。
廊下の隅で、とりあえず、と昨日分かったこと、そして考えたことを話す。
その話を篠山は黙って聞いていたのだが、終わると同時に多少苛ついた声を発した。
「つまりあれだ。君は私の忠告は完全無視しておきながら、協力だけしろ、と言う訳か」
「いや、あの、うん、面目ない」
素直に謝る。必要ならば何度でも。
だって、篠山の怒りはもっともだし、手伝ってもらわないと手詰まりになる。
何より、この女を敵に回すのは死んでもゴメンだ。
ちなみに、隠したり嘘をついたりする選択肢はない。絶対バレるから。
そうして、本気七割、打算三割で平謝りを繰り返す俺に、篠山は。
「——まぁいいや。終わったことは仕方ないし、私も調べたことを無駄にしたくないからね、不問にするよ」
と、ありがたいお許しをくれたのだった。
「悪い。今度何か埋め合わせするから」
「…………その言葉、忘れないように」
次の言葉は、ありがたくなかったが。
まぁ、そうこうして放課後二人きり(周囲から見て)で話しあうことを決めたのである。場所は、丁度休みであるという、美術部の本拠地で合意した。
秋期の絵画コンクールへの出品はもう終えたので、だれも来ないだろうとのこと。
ますますもって都合が良い。
「こういうときは、何か悪いことがあったりするんだよな」
「? 何か言った?」
「イヤ、何でもない」
篠山の怪訝な声で、回想から覚める。そうだ、今は、呆けてる場合じゃない。
重要な検証をしなければならないのだ。
一歩間違えれば俺は精神科行きだが、仕方ない。今、出来る事をしよう。
「さて、立川さつきさん。私は、君の姿は見えないが、存在を知っている者で、篠山優花と言います。そこの高浜健吾君と一緒に、君を元に戻す手伝いをしようと思うので、どうぞよろしく」
篠山が、虚空に向けて自己紹介を始める。まず、大前提を決定しようという試みだ。これの結果によっては真っ直ぐ病院行きなので、とても重要なことと言える。
立川の方を見ると先ほどよりは回復したようで、篠山の話にうんうんと頷いている。これなら、何とかなりそうだ。
「————さて、それじゃあ、今度はさつきさんの話を聞かせてもらおうかな」
「えっ、でも、その」
篠山の言葉に狼狽え、俺に視線で助けを求める立川。通訳しろ、ということなのだろうが、それでは意味がない。俺は、若干緊張しながら一つの提案を述べた。
「そこの黒板を使ったらどうだ? 俺が話すよりも、自分の言葉って感じがするだろ?」
————一瞬の間。
目眩がするのを堪えながら、立川の様子を見守る。
彼女は物に触れることが出来るのだから、チョークも使えるはずだ。
幻覚でない限り、これを断る理由は存在しない。
事前の協議では、これを拒否された時点で、病院に向かう手筈になっていた。
「——立川」
「なるほど! 良い考えだね、高浜君!」
…………まぁ、なんというかあれだ、こっちの不安なんか吹っ飛ばすくらいの明るい顔で、余りにもあっけなく、ためらいなく、立川は『初めまして立川さつきです』と、黒板に書き殴った。
よし、やったと、篠山を見ると、なんとも苦々しげな表情で、彼女から見れば突然現れたであろう文字を睨んでいた。
何か問題があったのか?
「篠山?」
「……正直私は心霊否定派だったんだけどね。こうもまじまじと見せられると、認めざるを得ないかな。もしこれが、君の幻覚だったとすると、もうそれは超能力と言うべきだろうし」
俺が声を掛けると、篠山は、俺にしか聞こえない様な声で、そんな事を言った。
何だ、やっぱり幻覚だと思ってたのか。
「……ひでーな。初めから、俺を病院に連れていくつもりだったのか?」
「心配しなくても、幽霊の線では調べてるよ。その結果を、今から話すつもりだ。……おや、さつきさん、どうした?」
篠山の声につられて、黒板の方を見ると、名前を書いたところで筆が止まっていた。
尚も見続けると、立川は『……もう、これ位しか覚えてないみたい。ごめんなさい』と新たに書いて、うなだれた。
……何てこった、そこまで記憶消滅が進んでいたなんて。
これじゃあ、新たな情報は得られそうにない。
どうしようか、と篠山を見ると、複雑な表情で黒板を眺めながら、何かを思案していた。
そして、一拍おいて口を開く。
「高浜健吾君、彼女のスケッチを見せてくれるかな?」
「あ、ああ」
有無を言わせぬその響きに、慌てて鞄からスケッチブックを取り出す。
篠山は、俺の手からそれを受け取ると、すばやく目的の絵を探し当てた。
イヤな感じに顔が歪む。
「成る程、これはこれは」
「何だよ。文句在るのか?」
その言い方に、引っ掛かるモノを感じて思わず反論するが、言われた篠山の方は全く気にする様子もなく言葉を紡いだ。
「イヤ、スケッチ自体に文句はないよ。よく特徴を捉えられていると思うしね。美術部に欲しいくらいだ——問題は、さつきさんの方だよ」
「えっ」
うなだれていた立川が、驚いたように顔を上げた。俺も驚いて、篠山を見つめる。
こいつ、何を言うつもりだ?
二人の人間から(篠山視点では一人だが)見つめられてなお、平然とした様子で篠山は続けた。
「——イヤ、問題が解消されたと言うべきかな? 嫌なことを忘れて、明るい顔になっている。以前の写真を見せてもらったが、あれはひどい顔だった」
「おい、篠山、お前まさか」
篠山の口調にある予感を感じて、声が上擦る。
しかして、その予感は的中した。
「ああ、たどり着いたよ、高浜健吾君。……さつきさん、私は、君が忘れた、君の全てを知っている」
俺達が本当に欲しかった言葉を言った篠山は、何故か本当に哀しげだった。